ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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私のブラザレン運動とディスペンセーション論に対する考え方

Luce様からのコメントをいただいたので、まず、ディスペンセーション論の成立過程に関するお話や、なぜ、私がそれに批判的かをお話しする前に、私のキリスト集会と呼ばれるブラザレン運動に対する現在の考え方を示しておきたいと思います。今後この考え方を変更することもあるかもしれませんが、そう変わらないと思います。

私自身、ブラザレンの集会のあり方は、非常に良い可能性をもった信仰集団だと思っています(もちろん、可能性ですから、悪くなる場合もあります)。ブラザレンのあり方が良い可能性の一つかな、と思う理由は、個人と神との関係を重視すること、教会(キリスト集会)と個人との参与(コミットメント)の関係が、非常に密接であること、信徒にとって、奉仕を通じて自分の教会(キリスト集会)という意識が強くもてることは、すばらしい、と思っています。そこは、これからも伸ばしていってほしいと思っています。このように考えていなければ、友人のいるバプティスト教会か、自由福音教会、兄弟団等の近い雰囲気の教会にとっくの昔に移籍していると思います。私が主知主義的なもので、霊の働きを強調するところは、多分、避けると思いますが。その人たちが間違っているとか、嫌いというわけではなく、私の今のありようや、聖書を読んで得た聖書理解と少し一致しないところがある、ということだけです。

 という意味で、ブラザレンの教会(キリスト集会)には、優れた可能性があると思っており、その一員でありたい、あり続けたい、そしてこのグループの信者の方とともに歩んでいければ、と思っております。そして、このグループが全体としてより良い状態であることを神に祈っております。

 優れた部分があるからといって、信者とはいえ、罪ある人間ですから、それが集まるところである教会(キリスト集会)に問題が発生しないわけではないので、どこで問題が発生しやすく、どこでどんな違和感を持つ人々が出やすいのか、という教会論的な視点(ちなみに、私は神学教育機関で正規の教育を受けたことがありませんので、本を読んだ知識と現実の私という個人のバイアスがかかった限られた観察結果に基づきお話しています)は、今後長老とか執事と呼ばれるブラザレンの集会の指導者にとって、重要になってくると思っていますし、そういう視点をお持ちになられた集会の指導者の方が増えるように日々祈っております。また、お若い方の中でも、健全な集会運営と集会運営に携わることに関する理解を深めることへの召命を感じておられる方が増えるよう願っております。なお、Nathan Delynn Smith のRoots, Renewal and the Brethren も、どう、ブラザレンがこれからの社会と切り結ぶべきか、という視点で書かれており、私と同じ立場で書かれていると思います。伝道出版社から、この本の翻訳を出してくれないでしょうか、と思っています。

ということで、私はブラザレンの教会のあり方自体に多少問題点があることは正直に認めつつも、その良い点を伸ばしていってほしいと思っています。ですから、ブラザレン運動自体を全否定するつもりはございません。ブラザレン運動への肯定的な立場に立った上で、現状のあり方をきちんと認識し、問題点は問題点として、日本のキリスト集会においては、内部から日本人の信徒として、いろいろな責任を負っていく時期になり始めているのだろうと思います。今後、海外からの教役者(宣教師)が期待できない中、日本人教役者や日本人の責任者の判断が重要になってくる中で、どのように神の民として、福音を伝えるという使命を果たしていくのか、ということを考える時期に来ていると思うのです。全部の信徒がそれをすべきだとは言いませんが、そのことに気付いた(示された、というのがブラザレン風の言い方ですが)信徒は、その問題と取り組むべきだと思っているだけです。約20年前に、私がお世話になった宣教師が、ウェールズに帰国した時に、「日本のキリスト集会がより一層、神の民の群れとして成長してく上での課題とその方向性は、どのようなものであることが望ましいのかな」ということに関して、考えるべきだろうなぁ、と気付いたのが、出発点になっており、それ以来、個人的に考え続けています。

『ブラザレンの使命』という大げさなものがあるとは、私は思いません。もし、あるとすれば、それは普通のクリスチャンと同様、神の民として、神を礼拝しつつ日々生きること、イエスにこそ永遠の命があることを、身近な方に愚直に伝えていくこと、しかないのでは、と思っています。正直なところ。

確かに、ブラザレンの初期時代の代表的な人物であったダービーは、このディスペンセーション論という預言理解の方法論を生み出し、その後のブラザレンの運動にこの考え方は強く影響しましたが、ブラザレンと呼ばれるキリスト者の存在意義は、ダービーのこの預言の理解の維持発展と普及を図ることではないはず、と私個人としては思っています。

ただ、いまなお、ディスペンセーション論が出てきた社会やそれを整理していった個人の理解の背景が、きちんと知られないまま、異なる文化背景、異なる経済社会環境の中にダービーの預言理解が移植され、一人歩きし、ある版の聖書と何人かの人物を通してある特定の時期の多くの人々、特に福音派と呼ばれる人々に影響を及ぼし、今なお、影響を及ぼしていることは、忘れるべきではないと思います。最近読んだ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』の中に、これまたブラザレンの信者でもあり新約学者という変わった存在のF.F.ブルースからの面白い引用がありました。

「共同体が従来の環境から新たな未知の環境に移植される際に良く見受けられるのは、伝統の固定化、あるいはまさに化石化というべき重大な局面である。伝統を移植当時の形どおりに残そうとこだわることによって、共同体はアイデンティティと安心感を保とうとしているのかもしれない。もっとも有名な例は、おそらくアーミッシュだろう。なぜ、有名かといえば、その伝統が彼らの生活様式全般を形成しているからである。しかしそこまで包括的でないものも考慮に入れるなら、これはごくありふれた現象である。」

多分、福音派の中の一部の方の中に、そして、ブラザレンの信徒の一部の方の中に、ディスペンセーション論が化石化した形、あるいは半化石化した形で残っているのだろうと思います。それが、ブラザレンの一部の信徒の人々では、完全に化石化してないがために、ある状況の下で、この説が発芽することがおきるのだろう、と思います。個人的には、化石化してもらえれば、と思っています。説は説として。そのような意味で、私は、ディスペンセーション論とその理解も慎重にすべき、という立場であり、かなり批判的なわけです。言論は自由ですから、どのような主張もして良いとは思いますが、ある理論に立つなら、その理論が生まれた背景を詳しく知ったうえで、その理論に基づきご自身のご見解を述べるべきだと思っています。当然語られる方はそうされているとは期待しているのですが、どうもそうでもない方も時に居られるようなので。

なので、ブラザレン運動については非常に肯定的、ディスペンセーション論の単純な適応にはかなり批判的というのが、私の現在の考えかたです。おそらく、この考えかたは、今しばらく維持されると思います。

次回、いよいよ、ディスペンセーション論に批判的な理由をお話します。

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