ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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 昨日のブログでも書きましたが、私がディスペンセーション論について、批判的な理由を、今日のこところは、箇条書きとして並べておきます。もちろん、ここにお示しした理由に反対のご意見の方も居られるでしょう。それはそれで良いと思います。私は、私が絶対的に正しいとは思っておらず、ただ、この辺の部分が、今の私にとって、ディスペンセーション論に違和感を強く感じる原因となっている部分である、とご理解いただけるとうれしいです。

■ディスペンセーション論に潜む神秘性
■歴史観といいつつも、終末論との強固な結びつき
■預言の多重的解釈の可能性性への軽視
■旧約聖書についての時代区分の単純さ
 (律法時代一つとするのは・・・)
■シオニズムのにおいが強すぎる点
■間主観的に証明不能な陰謀史観に結びつきやすい点

今日は、この批判的な理由の骨格だけをまずご説明し、なぜ、ディスペンセイション論が、こういう性格を持つのか、この議論の体系化をしていったダービーとその人が直面していた時代背景についても触れながら、私の推測や理解をご説明していきます。

■□■ディスペンセーション論がでてきた背景に関するいくつかの観測と推測
 ところで、このディスペンセーション論自体、ジョン・ネルソン・ダービーが最初に言い出した、とされています。このダービーという人は、もともと彼が司祭として叙任を受けた国教会から飛び出して、ブラザレン運動に飛び込んだわけです。ダービーの考え方は、ものすごくこのブラザレン運動のその後に影響しました。とはいえ、ダービーを出発点にもってくるのはまずいかなぁ、と個人的には思います。

 ところで、このダービーがブラザレンに参加する原因となった事件があります。CoadのA History of the Brethren Movement等にも書かれていますが、ダービーは、英国でのキリスト教会最大派閥である当時の国教会のあり方、より具体的に言えば、彼がカトリック教会から改心させた人々を国教会が信者として受け入れるために、当時の英国国王に忠誠を誓わせようとしたアイルランドの国教会の指導者と問題を起こたようです。アイルランドは、実質英国の最初の植民地なので、多くのアイルランド人にとっては、英国国王とその政府には、敵対的な意識があったようです。

 以下は私の個人的な推測ですが、この国教会との対立が、ダービーの考え方の出発点にあり、その後の彼の思索に非常に強い影響を与えているように思います。もちろん、当時のアイルランド国教会の状態を考えると、ダービーでなくても、聖職者の特権を利用した蓄財の問題を含め非難したくなるほどの問題山積状態だったようですから、ダービーが、このような問題山積の制度化された英国国教会(アイルランド国教会)はおかしい、破綻している、これらの制度化された、そして、世俗化の結果歪んでいるアイルランド国教会を離れて真の教会を求める本当のクリスチャンを神は求めておられるはずだ、という論理になることは、無理がないだろうと思います。

 そういう状況に直面したダービーにとって、当時の教会(国教会)は悪の権化、戦うべき対象、聖書の真理から離れた存在、堕落した存在に、見えたのだろうと思います。従って、こういった世俗化してしまった教会から分離すべし、を強く説いているようです。毒麦のたとえなどを用いながら。世俗化した教職者という毒麦を教会という麦畑の収穫から抜き取り、真の小麦のあつめるべきだ、と思ったようです。ダービーは、一種の理想主義者でもあったようです。また、これが、教会(キリスト集会)の純化志向、他者排斥的な志向性へとつながっていったのだろうと思います。個人的には、神ならぬ人間が、他者を不必要に排斥する要素を持つこの考え方に反対です。(私は、考え方がミューラー風です。)

 それと同時に、ダービーは非常に神秘主義的な人物でした。以前の記事でもご紹介しましたが、ダービーの書く文章は、一文が長く、非常に分かりにくいものでした(複雑で陰影に富み、豊かさをもつ文章、と評価する人もいます)。特に、ダービー訳聖書などいくつかの聖書を、ダービーは出版しています。また、他国語でも聖書を翻訳したような博覧強記な人物だったようです。文章を書くとき、聖書のような表現を試みたということもあったようで、それが、彼の著作の神秘性を増しているように思います。そういうこともあるのでしょうが、ダービーが理論的に精緻化していったディスペンセーション論には、7つの時代区分へのこだわり(7は完全数とされるので、かなり意識したと思っています)のような神秘主義的な部分が見られます。

しばらく続きます。

明日は、この理論が、受け入れられていった社会歴史的背景についての私の推測を書く予定です。

 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』を読みながら考えたことの一つに、土着化、という表現(もとは、Localizationかな?)の中には、積極的な意味と注意すべき点が混じっているじゃないか、ととおもいました。ここは注意しないといけないかもしれません。同じようなことは、マクグラスの、『総説 キリスト教』を読んでいるときにも感じたことなのですが、この土着化の問題をどう考えればよいのだろうという問題意識を改めて強く感じました。

 多分、『土着化』ということばの中に、『現地の文化と習合してしまい、キリスト教に似て非なるものとなってしまう』問題点と、『現地の文化でいきる現地のクリスチャンが主体的にきちんと聖書に基づき、自ら考え、福音宣教を聖書の真理からぶれずに取り組む』という積極的な意味が、並存するからだと思います。

 マクグラスも、多様なキリスト教のあり方、現地に定着し、現地の信者が抱える問題と聖書がどう切り結ぶのか、その中で、ミッション系の教会、欧米系のミッション団体がこれまで当然としたことと違う部分があっても良いとしているようです。まぁ、ポストモダン、ポストコロニアルの視点からの論者であるマクグラスの立場からすれば、当然といえるでしょう。

 聖書の基本ラインをはずさずに、聖書理解を深めつつ、日本人教役者が聖書を語ることが、現地化、土着化するのであれば、それはマクグラスが言うように可とすべきでしょう。しかし、この土着化というべきか、現地化というべきか、地域文化への対応ということに関して、『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』の中で触れられていることばを使えば、『世界の再呪術化』の問題、もっと具体的に言えば、日本の文化である祖先崇拝(祖霊崇拝)との習合の問題、日本文化が背景としてもっているものへの対応を間違うと、あるいは、日本文化との対応を間違うと、もともとは、聖書に基づくキリスト教の原点回帰運動であったものも、容易にキリスト教風の日本の新宗教となりかねないことをこの本は示しています。実際に、この本の中で取り上げられているものの中には、キリスト教とはもはや分類できなくなったものも含まれています。

 なお、大半の日本人にとって、キリスト教は『新宗教』の一種、という指摘は非常に重要かもしれません。

 ブラザレン運動が、日本で現地化していくのは、当然のことですし、それはそれで適切だ、思います。ただ、現地化していく中で、いくつかの点を留意すべきでしょう。

 聖書を読むときに、どうしても、日本語の聖書を日本語で、あまり深く考えずに読む、ということはおきやすい。その時、日本の文化のバイアスが入った状態で聖書理解をする人々が出現することは避けられない。その場合、平信徒による聖書研究を中心としていくキリスト集会の場合、学びや聖書の深い理解に達しようとしたとき、この日本文化に基づく聖書理解や、日本語による聖書理解のバイアスが時に悪影響を及ぼしかねないのでは、ということを危惧しないといけないかなぁ、と思うのです。

 そのバイアスの影響が小さいときは良いけれども、そのバイアスが大きい場合、また、それぞれの地域の集会で聖書を取り次ぐ人々や責任者、影響力の大きい信者が大きなバイアスをもって聖書を解釈するようなケースが出てきた場合、その影響をどのように最小化していくのか、という視点は重要かもしれない、ということを、この本は実例から教ええてくれるように思います。

 この問題は、平信徒が中心的役割を担う信仰復興運動、キリスト教の原点回帰運動には、必ず付きまとう固有の危険性かもしれません。そのことを、この『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』は私たちに示しているように思います。『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』で取り上げられているものは、いずれも、キリスト教の原点回帰運動であり、平信徒にある程度の役割が当初与えられていたものが多いことは、私たちの運動と非常に近しいものを持っています。

 現在、日本のキリスト集会と呼ばれるグループで、この種の『再呪術化』のような深刻な問題を抱えたキリスト集会は、ほとんどない、と思います。ただ、どの教会にも問題がないわけではないのと同じように、ちょっとした問題はあると思います。問題の深刻度は程度の違いはあるにせよ。

 以前にも書いたのですが、巡航速度で順調に走っているときには、エンジンの回転数の調整とハンドルさばきだけで車のコントロールができるものの、トラブルが発生したときには、それに対応するためのシステムが必要で、それが今の各地のキリスト集会には十分あるのだろうか、という疑問です。つまり、防具としての神学、あるいは、異端的な考え方に対するブレーキとしての神学の必要性です。このブレーキとしての神学が、私たちのキリスト集会の一部の信徒、リーダーとなる召命を受けた信徒にとっては、今後必要になるのでは、問題がでる前に、対応しておくべきではないか、というのが私の基本的な問題意識です。神様が守られるから大丈夫。そうかもしれません。でも、個人的には、念のため、備えたほうがいいのでは、と思っています。

 今後一層、宣教師や伝道者に依存できない多くのキリスト集会にとって、この異端的思考への対応と、集会の一部の信徒の暴走により、カルト化したり、「世界の再呪術化」するような動きが、キリスト集会に起きないようにするためのブレーキとしてきちんとした神学、または聖書理解が必要ではないか、ということを感じています。平信徒運動であるがゆえに発生しやすい問題が、どのようなものであるかを知るためにも、この『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』で取り上げられた事例は、私たちとの考えかたの類似性があることを踏まえると、これらの問題を避けるためのヒント、私たちがこれらかの集会のありかたを考える上での何らかのヒントを与えてくれると思います。

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