ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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今回は、私どものキリスト集会の月報に書いた書評を載せておきたいと思います。

上沼昌雄 著 
『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』 ¥1,890円  いのちのことば社 刊

 私が読んでいるあちこちのブログ(「おふぃすふじかけ」や「本を枕に スピリチ

ュアルな日々」)や、私のブログを読んでくださっている方のコメントの中にこの本

の紹介や本書の名前が出たので、少し関心を持って昨年末から読んでいました。

 この本は、非常に考えさせられる内容を持っていた本です。読みやすい文体、読み

やすい装丁、読みやすい文字の大きさを持っているのですが、内容が非常に重要であ

ると同時に重たいテーマのものであるため、なかなか読み進めることができなかった

ことも事実です。その意味で、重たい内容を持った本です。この本の中では、村上春

樹の小説も題材に使いながら、神と共に生きた人々、例えば、ダビデやパウロの心に

潜む部分があったことを示しています。神と共にあろうと思いつつも、これらの信仰

者にも、そして現代を生きるクリスチャンの中にも心のうちに潜む闇の部分があるこ

と、そのことに気付いたときそれを神の前に明け渡し、その部分を神の光で照らして

いくことの重要性を述べています。このことは全ての信徒にとって言えることかもし

れません。

 この本の中で面白いなぁ、と思ったのは『ことばの手前の部分』や「ものがたり」

という表現です。ことばにならない「うめき」や「つぶやき」あるいは「ものがた

り」として表現されるものがあるということでした。つまり、理性で説明できない全

ての人間の内にある部分が大切であること、その部分について聖書に照らしながら対

応していくことの大切さ、のようなことを改めて考えるきっかけとなりました。

 私たちは、科学が万能と思われた時代、客観性(間主観性)が重要であるとされた

時代(今でもそう思われている部分がありますし、そう思いたい人々もいますし、私

もそういう部分がありますが)を経た現代という時代に生きていますが、人間の存在

にとって、神を理解するための共感性を与えるための重要な部分でありながら、ブラ

ックボックス状態となっているために、近代という時代の中で忘れ去られようとして

いた『ことばの手前の部分』とそれを通した聖書理解の重要性についての指摘でした。

素朴な経験や聖書理解の分かち合い、罪や心のうちにある闇の問題について、信頼の

ある関係性の中で心を神に明け渡すと同時に他の人に明け渡していくことの重要性を

示した書物でした。誰しも、他人を必要とし、他人の援助を必要とする、というきわ

めて基本的な原則を再確認させてくれる本です。信者としての成長のためにも、また、

人々にイエスという存在、その十字架を伝えていくうえでも。つまり、全ての方のう

ちにある『ことばの手前にある部分』への対応が伝道や信者の成長にとって重要では

ないか、ということをこの本を読みながら考えました。お勧めの1冊です。

 以上の文章は、私の所属教会(キリスト集会)の月報の原稿として書いた書評です。

この本を読みながら、特に最後の2章を読みながらブラザレン運動が持っていた、あ

る方向性について考えました。つまり、啓蒙思想が幅をきかせ、社会が近代化してい

く中で、ブラザレン運動は、この『ことばの手前の部分』の大切さを主張しようとし

たのではなかったのか、という理解です。もちろん、このことに関しては、クエーカ

派の背景を持った人々との交流(ダービーだけでなく、Tim GrassのGathering to His

Nameの12ページにはグローブスにもBessie Pagetというクエーカ派の背景を持つ姉妹

を通しての影響が記されています。)も影響しているでしょう。しかし、ブラザレン

運動が主張してきたことの特徴は、当時のキリスト教会の中で、忘れさられかねない

状態であった『ことばの手前の部分』からの反論だったような気がします。同様の主

張は、いわゆるホーリネスと呼ばれる方々にも見られると思います。『ことばの手前

の部分』は、ある場合には『聖霊の導き』と呼ばれたと思います。ある場合には『こ

とばの手前の部分』の重要性を重視すべきであるということを主張するために『(理

知的傾向が非常に強まってしまい本来の神学のあるべき姿を失った)神学は要らない』

という表現となってしまった可能性があるように思います。

 近代化社会、科学万能社会が構築される中で切り捨てられようとされ、キリストを

信じる人々の中でも忘れ去られかねない状態にあった『ことばの手前の部分』につい

て、明確に言語化できない中で、言語化しない中で重視するべきではないか、『こと

ばの手前の部分』を介して聖書を直接読み、聖書理解と神を知るということを信者が

深めていくという主張がブラザレン運動のひとつの主張だったということを考えまし

た。ただ、『ことばの手前の部分』の重視は一歩間違うと神秘主義への通路でもある

ので、十分な注意が必要かなぁ、とは思いますけれども。

 『ことばの手前の部分』は、言語化することで異質化してしまうこころの一部分な

のですが、その部分の信仰生活の役割の中での重要性を理解し、そして、その『こと

ばの手前の部分』を手がかりにした伝道を行ってきたのが、ブラザレン運動だったし、

『ことばの手前の部分』と多くの人が文字を読める時代となったことを通して聖書を

理解することが重要であると主張し、聖書理解と言う行為を教役者に外注するのでは

なく、普通の信者自らの手に取り戻そうという主張がブラザレン運動の革新性だった

ように思います。しかし、時代を経て、本来主張されてきた内容が忘れられてしまい、

その断片だけが残り、現在のブラザレン運動の中でそれが違った意味として残ってい

るとしたら、残念でなりません。そうでないことを願っていますが。その意味で、

『ことばの手前の部分』と『ことばの先にある部分(理性や知性)』とのバランスの

取れた信仰生活が大事なのかなぁ、と思います。

 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。わ

れらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、

力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」(マルコ12:29-30)の部分は、バ

ランスの取れた信仰生活の大切さを教えているように思いました。人間は『ことばの

手前にある部分』と『ことばの先にある部分』の両方で成り立っていて、どちらか一

方だけで成り立っているわけではなく、その部分の占める比率は、人それぞれなので、

様々な信仰の形態がありえるのだろうと考えています。

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