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ニュートンとダービーの分裂は分裂で、最終的には泥仕合の形に
近くなっていくように思います。そして、それが礼拝への参加拒否
とか、交わりの拒否とか言う形で政治色を帯びて言ったようです。
党派心を否定するように新しい運動を起こすのだ、ということを目
指してブラザレン運動を進めていった割には、結局は罪ある人間の
群れである悲しさなんでしょう、一種のブラザレンの集会間の政治
的な動きの色合いを帯びてきます。残念なことですが。一つにまと
まるというのは良いことのようである半面、一つにまとまるために
は、一種の純化という心理的・社会的な同一集団の形成の動きと集
団心理、思考形式への動きがでてくる(これは、クメールルージュ
しかり、スターリニズムしかり、マッカーシズムしかり洋の東西、
思想の右派・左派をとわず)のは、人間の弱さかなぁ、と思います。
クメールルージュ・スターリニズムでは悲惨なことがおきましたが、
マッカーシズムでも、非常に悲惨な現実がおきたようです。
色々な本が出てますが、何がおきたかを簡単に知るためには、
クメール・ルージュに関しては、
キリング・フィールド
という映画をご覧下さい。今のお若い人はほとんどご存じな
いでしょうから。
マッカーシズムもご存じないでしょうねぇ。映画としては、
マジェスティック
(ジム・キャリーが追放される脚本家役で出演)
真実の瞬間
(デ・ニーロが追放された映画監督役で出演)
グッドナイト&グッドラック
(ジョージ・クルーニが出ているモノクロ映画)
直接ではありませんが、マッカーシズムに対する強い批判の意味
が含まれている映画として
クルーシブル
(サレムの魔女事件を題材に純化に関する恐怖を描いた映画)
があります。多元主義者の私としては、極端な純化の動き、極端
な一体化の動きということは、望ましくないなぁ、と思います。
最初のこの一体化の動きは、聖書の中でもバベルの塔を構築する
事として、神様からも否定されている、というのは私のひずんだ
聖書理解かもしれません。
ところで、この事件に関しては、Tim GrassのGathering to His Name
の76ページには、次のような記述が見られます。
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1846年11月に、ニュートンはロンドンを訪れ、個人的に何人かのブラザ
レンの信徒達に会って、その人たちの抱えている疑問に答えようとしま
したが、そのときにも、RawstorneStreetの集会に参加することは断られ
てしまいました。それに続いて、12月にこの集会はニュートンを集会に
参加できない(註:集会関係者としての絶縁処分)と宣言したのでした。
ニュートンを支援していたTregelles集会の一人は、このRawstorne
Street集会の対応を強く非難し、このようなことをすることは、ロンド
ンの集会が独自の権限を持つことと等しいのではないかと非難したので
した。この状況を見て、コンゲルトン卿は、ニュートンとダービーの両
者の関係に対して中立的な立場をとり、なぜ、ニュートンが査問会への
出席を拒否したのかのニュートンの考えも聞かずに一種の除名処分をし、
ダービーの考え方をよく調べもせずにその考えを受け入れた集会も問題
であるとしたのでした。
以上和訳終わり
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除名とか、絶縁とか、破門とか、昔からよくあることですけれども、
幅広い一致としての一つであるとすることを目指した人々が、一致の理
解がいつの間にか考え方の一本化、純化という意味での一致に変わって
しまったことの悲劇を感じます。
今は「ローマ人の物語」の著者としてすっかり有名になってしまった、
塩野七生さんという方の割と以前の著作に「海の都の物語」というベネ
チアの歴史小説がありますが、その中で、面白かったのは、ベネチアが
ローマカトリックから何度も破門を受けながら、何も気にしなかった、
(彼らがいないと、ヨーロッパ経済自体が成り立たないので、破門され
て通商ができなくて困るのは、イタリア諸国とカトリックであるため)
という話が出てきますが、そういう話を思い出しながら、ベネチア人の
したたかさを感じると同時に、実は、破門とか除名とか、絶縁というの
は、あまり意味がないんだよなぁ、ということを思ってしまいます。
早々、最近CNNで知りましたが、ジョージ・クルーニーのお父さんっ
て、TVキャスターだったようです。その辺も、グッドラック&グッドバイ
を監督・脚本をしたのかなぁ、と思います。
今回は、映画の話が多くなってしまいました。
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