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Bassの本を読んでいると、Bassの嘆き節がありました。
ディスペンセーション説を批判的に取り扱う(といって
も、この説が伝統的な聖書研究には見られず、特殊な聖
書理解であるかもしれない、とするだけですが)だけで、
信仰を捨てた、と言われたり、信仰的に偏っている、と
批判された経験があるということをBassは書いていまし
た。
そりゃそうでしょう。福音派と呼ばれる大部分の
牧師、説教者、信者は、本当は、J.N.Darbyの聖書理解の
影響を受けたScofieldという人物の注釈を預言書解釈と
してではなく、聖書そのものであるとして受け取った
あるいは誤解したまま、ですから、それが歴史的な
信仰者のグループの聖書理解ではないのではないか、
という疑問を持つこと自体が、『聖書的』でない、
という解釈に立つ人が生まれる可能性をもつことにな
ります。
あるいは、ある集会での出来事ですが、この説は、
使徒時代以来連綿と受け継がれてきた教理であり、
聖書学者も認める説であると主張された方が
おられるというお話を聞いたこともございます。
しかし、少し、リサーチするだけで、この理解が特
殊であることは容易に推察されます。信仰の根幹に
かかわるほど重大な理解であれば、使徒信条の中に
既にふれられていたはずですが、使徒信条の中には、
このDisupensation説を支持する記述は見当たりませ
ん。ウェストミンスター信仰告白は、よくできた
信仰告白ですが、その中にも、この説を記述するよ
うな記述がないということは、その時点までの伝統
的解釈の中で、重要な聖書理解であるとされてこな
かったことを意味するわけです。
でも、こんなことを書くと、いやいや、それは文
書化されなかっただけで、ひそかに人々の間で受け
継がれてきた考えで、という陰謀史観的なにおいの
するお話をする人が出てきますが、それを言っちゃ
あ、おしまいよではないかなぁ、と思います。文書
や記録に立脚しない議論が認められるのであれば、
歴史家や学者の仕事と小説家の仕事は同じことにな
ります。
その意味で、やはり歴史的文書の中に、その痕跡
をたどれない以上、ある時期から生まれ、広がった
聖書理解とするほうがよいと思います。
ただ、日本の場合は特殊で、このスコフィールド
版の聖書理解をもろに受けた、米国からの聖書学校
の教師、宣教師、伝道者が日本での伝道で大きな役
割を歴史的に果たしてしまったので、日本の教会の
中で、かなりの割合がこの影響を受けた人々だと
言ってよいと思います。最近プレゼンスを高めてい
る日本のキリスト教伝道に非常に熱心な韓国系の宣
教師や伝道者がいる教会も、もとはと言えば、北米
のScofield版の聖書理解ががっちり根ざした教会の
影響を受けている教会が多いので、この問題に関し
ては、伝道熱心なキリスト者の集団では、信仰理解
の中で共通した土台の一部を形成しています。なの
で、他のグループの神学書を読んで、このディスペ
ンセーション説が書かれているからといって、キリ
スト教会で伝統的にある聖書理解だと説明する方も
おられるのは、誤解がおありなのでは、とその話を
されている方の話を聞きながら、思いました。
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