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このディスペンセーション仮説と聖著の逐語霊感主義、
聖書中心主義、あるいは象徴的解釈を否定した聖書字
義解釈主義(literalism)は密接に結びついています。
普通の福音書や書簡類はそのやり方でもある程度理
解を進めていけますが、極端な聖書字義解釈主義にた
った場合、パウロ書簡などで非常に偏った解釈を生み
だしかねない問題を含みます。もちろん、翻訳の問題
もありますが。
とりわけ、黙示録解釈において、この聖書字義解
釈主義は大きな問題を生み出します。もともと、黙
示として象徴的に書かれたテキストを字義的解釈主
義に立って理解した場合、かなり無理のある解釈が
生まれやすくなります。
特に、時間経過の理解が黙示録の表示順だとして
理解するような極端な聖書字義的解釈主義であると、
聖書の理解に破綻を生じてしまうことがあり、それ
を回避するために、かなり無理な論理構成となるこ
とがおこります。
黙示として書かれたことは、黙示として、象徴と
して語られたことは象徴として理解すべきだろうと
おもいますが、象徴的解釈も、行き過ぎると変な解
釈になることが多いので、その点での留意は必要で
すが、いずれにせよ、伝統的には、極端に至らない
字義的解釈主義と極端に至らない象徴的解釈主義の
中道を行くような(これは革新的ではないものの、
伝統的に取られてきた聖書解釈の立場だと思いま
す)聖書解釈の必要性を感じます。中庸の精神の
大切さを感じるのは、筆者のおじさん化が進んで
いる証拠かもしれません。
おおむね、日本のキリスト集会では、極端な字義的
解釈主義に立つ方は、比較的少ないのですが、やや
偏った字義的解釈した結果、結果として象徴的解釈
?と考えたくなるお話しをときどきお聞きしますの
で、あれ、っと思うことがあります。
それらを包摂できるのも、キリスト集会の美点な
のだと思いますし、それを受け止める精神的な鷹揚
さ、聖書理解に関する鷹揚さを持てればいいなぁ、
とはおもいます。そもそも、キリストの体である
教会は、さまざまな考えを持つ信者全体を包摂して
いるので、キリスト集会がそういう考えの方を包摂
するのは、むしろ当然と言えるかもしれません。
その意味で、神学理解としても多様だと、思いま
すし、そうあってほしいものだ、と思います。だ
からこそ、ディスペンセーション説にやや否定的
な視線を持つ私が、このグループでもしぶとく生
き延びていられるのかも、しれません。
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