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聖書の文字通りの解釈について
Bassの本と同様、ここでのお話は、ディスペンセーション
説に立つ人々やその議論そのものを貶めるための批判や、問
題視したりするためのものではなく、客観的にみて、一度そ
の考えを離れて少し客観的に考えてみる(自己反省的な面での
批判)という機会をもたれては、というご提案の趣旨で書い
ています。その上で、ディスペンセーション的な理解が重要
だ、というのであれば、その見識は尊重されるべきだ、とい
うのが私の立場です。
聖書の文字通りの解釈には良い面と負の面の二つの側面が
あります。
まず、良い面からいえば、素直な聖書解釈の道を開いたこと、
素朴な聖書解釈の可能性を開き、聖職者の独占的あるいは学問的
である結果、人々に届かなくなってしまった聖書解釈に対する
疑問を提出することを可能にしたことがあります。また、当時
最先端であると考えられていた神学議論の方向性である自由主義
神学(実態としては人間中心的な神学というやや矛盾した概念)へ
の疑義を提出したことです。
ただ、負の側面としては、解釈する対象が、いわゆるギリシア
語や古ヘブル語(あるいは、アラム語)によるものではなく、英訳
聖書(欽定訳聖書)をもとにしたものとなりかねなかったという
ことです。そこで英訳された聖書の文言の翻訳の正当性(妥当性)
が問われることとなります。
このディスペンセーション説は、近代社会の原理と考えられた
19世紀科学とそれを背景とした自由主義神学(人間中心主義神学)
に対する疑義として、聖書の真正性を擁護するというのか、
近代社会における聖書の有効性を主張する視点から、聖書は神の
ことばである以上、その言葉通り(ただ、下手をすると翻訳どお
り)に理解する必要がある、という視点から出てきたわけです。
これについて、Bassの本では、21ページにおおむね次のような
趣旨の主張がのべられています。
この説の拡大は、合理性の観点から聖書の権威に関する疑問が
出されたことと深く関連しており、聖書が文字通り神のことばと
して理解されなければならなず、その意味の霊的解釈がなされて
はならない、という強固な主張が文字通りの解釈ということが
大きく影響しています。その結果、文字通りの解釈以外の解釈
法は、聖書のことばの有効性を否定する自由主義的な(人間中
心的な)聖書解釈と同義として捉えられたのでした。
ただ、この文字通りの解釈は、実際には聖書の解釈を歪ませる
可能性を持ちかねない側面があります。
伝統的には、文字通りの解釈(文法的かつ歴史的解釈)と
象徴的解釈(文字よりやや深い意味を読み込んでいく解釈)
との二つが利用されてきたのですが、ディスペンセーション
主義の解釈に立つ場合、象徴的解釈が軽視され、文字通りの
解釈が強く主張されることとなってしまいます(ここまで、
極端な方は少ないです)。イスラエルと教会について、その
間の相互の類似関係は無視されることになります。
特にこのことは預言解釈で顕著になります。預言に関し
て重層的な実現として理解されるのではなく、1対1対応
するような事実として、理解されることとなります。その
結果、象徴的に書かれた記載が、象徴的に解釈されないと
いう問題がでてきます。ここでの目的は、ディスペンセー
ション主義に反論することではなく、この文字通りの1対1
対応の解釈が、その時代までの他のグループに見られない
ものであったという意味で、非常に特徴的なものです。
まず、字義的解釈を試みてみて、その上で、象徴論的解
釈などに進んでいくということが歴史的には、聖書理解とし
て試みられてきた、ということです。
もちろん、文字通りの解釈は有効ですし、文字通りの解
釈は、重要ですが、それをあまりに強調しすぎると、問題
が発生する可能性がある、ということに気をつける必要が
あるのではないか。
以上が、Bassの主張です。この主張は重要だと思います
し、バランスを欠いた行き過ぎが問題を生み出すように思
います。こういう行き過ぎた解釈に至ったのには、ダービ
ーのおかれた時代特有の環境、つまり行き過ぎた合理主義
的聖書解釈の弊害があったことを理解しておくことは案外
重要かもしれません。
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