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ディスペンセーション説は、いろいろなところでこれ
がディスペンセーション説です、ということが説明され
ないまま、聖書の主張です、と主張されていることが多
いようですが、やはり、独特の聖書解釈の可能性があり
ます。
特に北米の福音派の聖書学校でこの種の考え方の説が
20世紀初頭以来講義されてきたこともあり、北米の宣教
師の影響を受けた日本では、このような考え方がかな
り広がっています。中田重治も、この考え方の影響を
強く受けているようです。彼の特殊な聖書理解もこの説に
依存している部分があるように思います。
Bassはディスペンセーション説における教会の理解に
ついて27ページ以降で次のように記載しています。
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ディスペンセイション説でもっとも逆説的な理解は、
教会に対する見方です。現代のディスペンセーション説
では、ユダヤ人によって、イエスが提示した神の王国の
否定というイスラエルの状況により神の計画に割り込ん
だものとして、主張されます。この見方は、ダービーの
見方がその出発点にあります。ダービーの見方は、教会は
キリストの体であり、神の家であり、したがって、神
の当初の救済計画の一部ではなかったという理解して
いた。
アイアンサイドは、教会の役割を挟みこまれたようなもの
と言っています。
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以上のようにBassは主張していますが、その根拠が示され
ていないので、もう少し検証が必要かなぁ、と思います。
つまり、ここでの考えを筆者なりに整理すると
ユダヤ(イスラエル) − イエス − ユダヤの滅亡
− [教会の時代] - ユダヤ王国(再興されたイスラエル)
という視点で見ると、ユダヤの滅亡からユダヤの再興の中に
挟みこまれた教会として見えるというのがこの議論の特徴な
わけです。しかし、教会と並行する形で、イエス時代の
ユダヤ王権は存続しましたし、捕囚の復帰後からイエス時代
までは、かなり政治的に不安定だったようですし、この図式
はかなり単純化されており、かなり無理があると思うのですが。
Bassの議論に戻りましょう。
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歴史的なキリスト者集団は、イスラエルと教会の間に明確な
区別があるという考えを否定してきました。歴史的な前千年王
国主義者の間では、十字架は、ユダヤ人と異邦人を神の前に神
の恵が必要であるという点で、一つのものとして立たせるとい
う考えが有力でしたし、イスラエルは、千年王国と関係がある
ものの、しかしこの関係は、教会は恵によってキリストの体の
再建であり、その目的や基礎という完全に別のものとしてとら
えられてきたのでした。
その意味で、伝統的には、教会は神の計画の自然な展開とし
て発達してきたと見られているといわれていますが、ディスペ
ンセーション説で言われているような、合間にあるものや挿入
されたものというディスペンセーション説での位置づけでは
ありません。しかし、キリストの花嫁としての教会という
ことをディスペンセーション説では強調していることと、その
ことに価値を見出していることについては、高く評価されるべ
きであろう。
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以上がBassの主張です。ディスペンセーション説以外の立場か
らの教会の位置づけについて、再考すべきではないか、という
立場のようです。
Luceさんから以前、ご指摘をいただきました(ご指摘あり
がとうございました)が、確かに、カトリックや一部のプロテ
スタントのような立場では、連続性を重視する考え方が行き
すぎ、置換神学(イスラエルの立場を教会の立場として置き換
えて考える考え方)に移行していった結果、聖書理解がひずん
だ様に思います。そして、それが、イスラエルの存在を否定し、
教会を背景とする国民国家が千年王国の実現という理解に
つながったように思います。ナチズムと千年王国との関係も
ありそうですが、このあたりの思想的背景は、第三帝国と
宗教―ヒットラーを指示した神学者たち―にも若干示されて
いたようにおもいますが、もう少しだれか整理してわかりやす
く提示してくれたらいいのになぁ、と思います。
ユダヤ人問題とシオニズムの問題は、ナチズムやディスペン
セーション説などの聖書理解など、19世紀から20世紀の様々な
社会の局面に影響したように思います。
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