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さて、先日触れたパワースコート伯爵夫人のもとで開かれた大会につい
て、Tim Grass(2006) Gathering to His Nameから、もう少し記述します。
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最初と2回目のパワースコウト大会は、非常に多くの教派からの福音主
義者との間の交わりの機会を提供したのですが、1832年の大会(第3回目の
で大会)の出来事は、キリスト者の一致を大きく損なうことになりました。
その時の話題には、次のようなものが含まれていました。
(以下、J.N.ダービーの記載の転載)
水曜日 『私達は、人間としての反キリストがあると考えるべきか?預言
や新約聖書の中の聖徒(Saint)という語は一致した意味があるのか。聖書
の中のどの契約によってユダヤ人は国土を持つことができるのか。』
金曜日『キリストの再臨の前に、使徒的教会のリバイバルの傾向がある
のか?現在の出来事からどのような責務があると考えることができるの
か?』(ダービーのLetter of J.N.Dという書簡集からの引用)
ダービーはブラザレンの参加者と既存教会からの参加者の間に分裂があ
り、非常な緊張した雰囲気が漂ったと記録しています。この記録では、これ
らの教会論に関する疑問は、「議論されるために提案されたというよりは、
当然のことであり、議論はもちろん当然と仮定された事実から導き出され
たもので、教義は、これららのものと関連したものでなければならない
(ダービーの表現なんで、分かりにくいのはご勘弁を)」と根拠もなく断
言(これは、Tim Grassの表現)しているが、この立場への批判者は、これ
らの問題に関するディスカッションに参加する意味はほとんどなかったであ
ろう、と考えているようです。
(以上翻訳)
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しかし、最初の頃から、このマニアックな預言研究というのか、クリスチャン
シオニスト的な視点を持った集団って、一体なんだろうなぁ、と思います。
預言でもめ、本来、キリストの一致性を求めて行ったにもかかわらず、こん
なマニアックな議論をしていたのでは、議論が噴出、紛糾して、せっかくの
一致を目指した動きを完全に阻害してしまうだろうなぁ。預言の解釈というの
が、どこまでが聖書から導き出された考え方で、どこまでが聖書そのものが
主張していることなのか、は、理解者によってその線の引き方のありようが
異なることは十分発生すると考えられるので、なかなか一致しがたいし、特に
預言解釈の多重性というのか、色々な時代に色々な人が完全に別の状況に直
面している状況で、ある特定の一つの聖句の預言が成就した、と理解するこ
とができるので(実際そうだと思います。預言ではありませんが、詩篇なん
かは、時代を超え、状況の異なる人々に励ましを与えるので)、不必要に混
乱が生じやすいように思いますが、ダービーたちは、ほとんどそんなことは
考えなかったんでしょうねぇ。
預言を必要以上に避けるのはどうかとも思いますが、必要以上に議論を
行うことも今ひとつの結果を生み出すように思いました。
参考文献
Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes, Paternoster.
ISBN 1842272209
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