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これからのシリーズは、ある方が牧会ジャーナルに
かかれた、この方のキリスト教会の体験が記された
記事の内容を引用しながら、私たちのキリスト集会
に共通する問題を考えて生きたいと思います。今回
は、現代に生きる教会(キリスト集会)のあり方を考
える、ということでお話をスタートして見たいと思
います。
(引用元 小渕春夫(2009)
牧師と信徒、相互の霊的成長を求めて,
牧会ジャーナル 2009年夏号 6-7ページ)
教会における信徒の霊的成長については、それぞれ
の歴史、習慣、環境の違いがあるので、共通するこ
とを述べるのは難しいと思われる。そこで私がかか
わった教会との関係で、以下に助けられたかを短く
振り返ることで、私なりに気付いたことを述べてみ
たい。自分の経験は限られているので、見当違いに
ならないかを恐れている。
(中略)
初期の教会生活で受けた印象は忘れられない。教
会のメンバーは年上ばかりで、同年代の若者はほと
んどいなかった。年長者たちはみな、地味な背広と
ネクタイだった。私は背広を持っていなかった。
ジーンズ、Tシャツ、長髪という70年代のファッシ
ョンで育ち、ビートルズやロック音楽を聴き、反体
制的な文化で育った私には、背広とネクタイは体制
派の象徴だった。また、教会は地味で、使用してい
た『聖歌』『聖書』の表紙は黒しかなかった。初め
て所有した聖書の表紙には特に戸惑った。黒字に金
文字、ページの縁には金泥が施してあり、ピカピカ
に光っていた。色あせるまで隠して持ち歩いた。
礼拝では、深刻な顔をした大人たちが下を向き、
自分たちの罪深さを繰り返し嘆き、救いへの感謝の
祈りを捧げていた。賛美の歌は、少し物悲しいもの
か、勇ましいものが好まれていた。『賛美歌』の歌
詞はよく分からなかった。それで私の信仰がどの程
度養われたかは自信がない。人間関係ではみなが丁
寧に接してくれたのは驚きだった。「兄弟」「お祈
りください」「感謝です」「恵まれました」「導き」
「御旨(みむね)」といった独特の慣用句、敬虔な
表現に戸惑い、みなが私より信仰的に優れた人ばか
りに思えた。
(引用終り)
この文章を読みながら、私は、その通り、同感と
思ってしまいました。最初に私が集ったキリスト教
会(キリスト集会)では、同世代はいないどころか、
14歳だった私の上は、40前後の男性信徒の方でした
から、かなりさびしい思いをしました。母親がその
教会のクリスチャンでしたことと、まだ中学生でし
たから、反体制的なファッションや音楽、文化には
触れていなかったので、体制派の象徴を素直に受け
入れていたのでした。その意味で、中学生にして体
制派(?)に組み入れられていたのかもしれません。
オヤジ臭い中学生だと思います。歳不相応にませた
ことを求められたともいえるかもしれません。
「深刻な顔をした大人たちが下を向き、自分たち
の罪深さを繰り返し嘆き、救いへの感謝の祈りを捧
げていた。」その通り。私が信仰生活を始めたキリ
スト教会(キリスト集会)もまさしく、お葬式のよ
うな礼拝でした。そして、それが当たり前と思って
いたのです。でも、今になって考えるとおかしいの
かなぁ、と思い始めています。そもそも、礼拝とは、
イエスの復活とイエスの復活に連なったことを覚え
ることが目的のはず。何でそれがお葬式なんだろう。
確かに、イエスの十字架は重たい、救いの意味は重
たい。でも、いつもいつもお葬式である必要がある
のだろうか、と思ってしまいます。古屋 安雄 著
『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』によれ
ば、他の教会でも似たり寄ったりのようです。
このことへの問題意識をもったのは、アメリカに
行ってここでも紹介しているShoreline Community
Churchに滞在して以降です。彼らの信仰生活はまじ
めでしたが、礼拝はお葬式ではなかった。私は、カ
ルチャーショックを受けたのです。そして、そうか、
単純に喜んで礼拝していいんだ、それを表現してよ
いのかなぁ、と思い始めたのでした。キリストの死
と復活にあずかることの喜びを表現する、そのこと
の重要性を最近は感じています。
(「兄弟」(中略)「御旨(みむね)」といった独
特の慣用句、敬虔な表現に戸惑い」)とありますが、
普通の日本人は、戸惑って当然だと思います。そも
そも日用語にそういう語がないんだから。戸惑わせる
だけならいいけれども、それが人、特に来会者(業界
用語で求道者)との間に心理的な壁を作るとすれば、
どうでしょう。逆効果になりかねない危険性を感じ
ます。教会で(キリスト集会で)どのようなことばを
どのように使うのか、これは重要だと思います。そ
のことをこの文章を読みながら思いました。
最近、私の小学生のおいが巡回伝道者に「○○兄弟、
お交わりをお願いします。」といったとかいわないと
かといった話を私の母親から聞かされましたが、これ
も外から見たら、ちょっと変かもしれないなぁとおも
います。敬虔な小学生?個人的にはあまりありえない
のでは、と思ってしまいます。小学生の素直さ故にロ
ールモデルを演じているとしか思えないからです。そ
れは一種の演技であって、本質ではないのではないか、
という疑問を持ってしまったのです。
私たちが福音を伝えることは、私たちの主義主張を
そのままの形で、伝えること、相手の方にそのことを
納得してもらい、要請するということではないのでは
ないか、と最近思い始めています。相手の立場に立っ
て、相手のココロにイエスキリストが伝わるよう、伝
えることが、大切ではないかなぁ、と思います。
この部分を読みながら、そんなことを感じました。
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