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今日も、小渕さんの文章を基にしながら、キリスト教会
キリスト集会)での信者の成長とリトリートということを
考えて見たいと思います。このリトリート、責任者にとっ
ては実は、必要なことです。実際に、キリスト集会に大き
な影響を与え、その一員でもあったジョージ・ミューラー
とクレイクは何度もリトリートをしたようです。これも、
キリスト集会の出発点にあったものだと思います。その原
点を忘れないためにも日本のキリスト集会の責任者の方々
には、リトリートの機会が必要ではないかと思います。
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会堂で集い、スモール・グループで集い、ともに学びあ
うコミュニティはこれまでもあったことなので理解しやす
いが、神の前で独りになる「祈りの修練」(ソリチュード)と
いうものが、近年、求められている。これは活動中心の教
会生活で疲れを覚える人や、ついていけない人が相当いる
からである。心に傷を負った人、生活スタイルが許さない
人、毎回参加でいるエネルギーがない人がいる中で、信仰
生活を豊かにするための落ち着き、いやし、自己への気づ
きをもたらす祈り(神との親しい関係)痛いする深い願望に
気づく人が増えてきた。「リトリート(退修)」「安息」
「休息」の本当の意味の回復である。神の前に出て、神を
知り、自分を知っていくことは信仰生活の要だが、私自身
を含めどういうわけか、長い間そうした霊的訓練は聞いた
ことがなかった。活動は十分しているものの、霊的渇きは
深まるばかりである。ともに集うこと、そして、時に独り
退くことの両者が信仰生活を潤すのである。
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日本の現在のキリスト集会には、リトリートの概念があ
まりないように思う。伝道、伝道と伝道が至上命題化する
中で、伝道している本人の中身がスカスカになっているの
であれば、それは意味がないだろうと思います。その意味で、
時に責任者であることから外れてみて、リトリートをして
みることは重要であるのではないかと考えています。元々、
神学校(神学部)が出発点となったを欧米の大学では、7年に
一度サバティカルという名称で半ば強制的なリトリートの
機会が与えられるのですが、それと同じように、日本のキ
リスト集会の指導者にも、リトリートが必要でないだろう
か、とおもいます。あるいは、指導者同士が集まって、と
もに祈り、ともに相談しあい、考えあう機会としてのリト
リートの機会は少なくとも重要であると思うのです。
関東の一部でそのような動きがあるようです。サバティカ
ルとは、ヘブル語のサバス(安息日)に由来することばです。
神の命令でもあるといえます。安息日に加え、実際に実現
したかどうかは別として、ヨベルの年も制度としては記録
されているのですから、この種の休養というのは、重要
だと思います。
海外からの宣教師達にとって、数年に一度母国に帰る
ことは、リトリートの機会であり、退修の機会です。
また、年に1回、8月末に開かれていた軽井沢バイブルハ
ウスで宣教師達が集まる機会がありましたが、それも
リトリートの機会であったように思います。このような
リトリートの機会を取ることが現在の日本の各集会の
指導者にとっては難しいこともあり、軽井沢バイブル
ハウスで開かれているシニア・キャンプなどが、このよ
うな機会として用いられるようになればいいなぁ、と思
いますが、現状では、福音よりのキャンプになっている
ようです。個人的には、日本のキリスト集会の指導者達
のためにきちんとしたリトリートの機会の準備の必要性
があるとおもいます。
集会運営や、キリスト教会の動き、世間の動きと福音
伝道のあり方を考えるような、指導者にカスタマイズし
たディスカッションの機会が必要なのではないかなぁ、
ということを強く感じます。
今の30歳代の信者の方からすれば、リトリート?
はぁ?僕達は、こんなにしんどい思いをしているのに、
リトリートですか?ということになるかもしれませんが、
しかし、2ヶ月でも、3ヶ月でも、できれば1年、数年に
一度指導者の任から降りることは、多くの利益を信者に
もたらすと思います。リトリートを行い、若い信者に委
ねていく冒険をしてみることも若い信者を育てていくた
めには、必要かもしれません。
そして、若い信者の皆さんにも、責任を持つことの
意味、その重さ、つらさの一部を体験してもらうことで、
集会全体の成長につながると思うので、一つの可能性と
しては、面白いのではないかと思うのですが。
どこかのキリスト集会(キリスト教会)でしてみるところ
はないかなぁ、と思っています。
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