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Bassの本では、艱難前の携挙というディスペンセーション説の特徴に
ついて、次のように書いています。
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疑う余地なく、ディスペンセ−ション説を受け入れている人々は
教会の携挙は艱難前であるという考えにたっています。意識してお
られる方は少ないようですが、多くの人々は、教会や信者の携挙
(Rapture)は艱難前であるという立場のようです。伝統的な預言解
釈において、このような考えは見られなかったものです。千年王国
の前に空中携挙があるとする考え方の人々は、キリストは人格的に、
文字通り見える形で、地上に千年王国を確立するために来られるが、
ディスペンセイション説が生まれるまでは、千年王国前に携挙が発
生するという概念はなかったのでした。
この千年王国前の携挙の理由として、テサロニケ第1の4章16−
17節が引用されることがおおいのですが、この表現と他の表現が
一般的なディスペンセ−ション説と一緒に解釈され、ディスペン
セーション説の前提にあてはめられて初めて、千年王国前の携挙
となるのであり、ディスペンセーション説を外側からあてはめる
ような解釈によってのみ、この説が支持されることになります。
ダービー自身、この説が新しい説であることを著書 The Rapture
of the Saintsの中で認めていまし、ダービー自身、この説が比較
的最近展開された説であることを認めています。Walvoordはその
著書The Rapture Questionでこの説はダービーとプリマスブラザ
レンで支持され考えであり、スコフィールド版聖書で広まってい
ったと説明しています。
アイアンサイドは、ブラザレンの歴史書A Histrical Sketch of the
Brethren Movementの中で、パワースコート預言研究大会についてふ
れる中で「この大会で、教会の携挙の貴重な真理が明らかにされた。
It was in these meetings that the precious truth of the rapture
of the Church was brought to light」と書いています。
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Bassの言いたいことは、分かるような気がします。伝統的な
聖書研究の中には、この考えはなく、ディスペンセーション
説が前提としている内容のなかに、そもそも千年王国の前に
携挙があるという想定があり、それをもとに、それにあては
まるように聖書の表現を寄せ集めたのではないか、それを聖
書を聖書で解釈する、と主張しているのではないか、という
批判です。
このことは、読み込みや先入観を持って聖書を見てしまうこ
との問題を示しているようであり、その点には、自分自身の
聖書の理解がそうなっていないか、ということに常に気をま
わして行かないといけないなぁ、と思います。
ただ、伝統に縛られる必要もないと思いますが、それを必
要以上に軽視し、無視する必要もないのではないか、と思っ
ています。
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