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ブラザレン運動の多くの方の聖書についての理解として、聖書は 聖霊の介在によって書かれたものであり(と言っても、神がかり 的に聖書の各書の書いた人が書いたのではなく、その人の理性と 理解を通して、当時の人にわかるように書かれたものであるとい うのが一般的な理解のようです)、それゆえ、聖書は重要である し、聖書のことばは、神のことばとして大切に扱うべきである、 というのが基本的なスタンスです。個人的にも、そう思っていま す。 では、現代社会における聖書理解について、どのように考えて いるか、というと、同じ聖霊を受けているのだから、その聖霊の (神がかり的な働きでない)啓示によって現代文のそれぞれの各 国語に翻訳された聖書の言葉を理解することができる、というの が広く一般にとられている立場だと思います。 その意味で、極端な原語優先主義に立っているわけではありま せん。とはいえ、時々、ギリシア語とか、ヘブル語の聖書の原単 語がお話のなかで、触れられることがありますが、ただ、それを ある程度まじめに勉強している人は少数派だと思います。考えて みれば、当たり前の話で、ナザレのイエスは、おそらくはほとんど アラム語で発言していたでしょうし、弟子たちの大半もアラム語 が母語の人たちなわけで、流暢なギリシア語で日常的に喋ったり していたわけではないことを考えれば、そもそも、ギリシア語の 原典主義と言ったところで、新約聖書自体翻訳聖書という性質を 若干持つわけですから、翻訳聖書全体から読み解く、ということ をしていれば、聖書の主要メッセージを伝えるにはある程度の ことは問題がないように思います。その聖書理解を構成する際に 神がかり的ではなく、穏やかに心の奥底に語りかけるように 聖霊が働く、というのが、ブラザレンの大半の方の聖書理解と 聖霊の働き、についての考え方だと思います。 |
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2010年04月21日
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