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オウム真理教の終末思想、末法思想は、終末がやってくる、 その時に解脱者(麻原の弟子)が救済される、というもの であった。 しかし、オウム関連の書籍を読んでも、終末後に関する 将来像はあまり明確に知ることができなかった。しかし、 彼らが終末に対する一種の焦りのようなものを持っていた ことは確かだと思う。焦りというよりは切迫感だったの かもしれない。この終末観が、彼らが修行と呼ぶもの、 あるいは選挙に出るとか、激しい勧誘活動などへ駆り立て たのだろうし、それが歯止めがかからず、脱会者の脱会阻 止、拉致監禁などの逸脱行為へとつながったように思う。 終末に対する恐怖から一種の集団狂気にちかい状態にあっ たのではないかと思う。 終末論という意味では、オウムの終末は、キリスト教で の終末論と似ていなくはない。 絶対者を信じる者は、天国に移る、という意味では似て いる。しかし、完全に同じではないし、根本のところで 違いがある。 その根本的な違いは、オウムの場合は、絶対者が麻原と いう人物であり、キリスト教の場合は、絶対者がイエスで ある。 新約聖書で言うときの終末を考えるとき、一般に神の国 とよばれる表現をどう考えるか、ということがその理解に 影響するように思う。新約聖書の中には、天の国、神の国 など、さまざまな表現がされている。その言葉で表わされ る内容は、実はかなり幅がある、あるいはかなり広い概念 を含んでいて、普段はその整理がされないまま語られてい る様に思える。 イエスを信じただけで、もう神の国はその人のところに 来ているという立場に立つ人もいれば、その一部は地上で 教会として実現している、という立場に立つ人もいる。神 の国は、将来の天国で実現するという立場に立つ人もいる。 この神の国に対する考え方により、終末に対する考え方は 異なってくるし、聖書観が大きく異なってくるとおもって いる。 その意味で、終末に対する考え方は、キリスト者の場合 でも人それぞれで微妙に違うといってよいと思う。それで いいとも思う。理由は聖書に明白に書いていないから。 新プラトン主義者ではないが、どこまでも論理を展開し、 聖書の個所を関連付け、考え、体系化したとしても、それ は考え方の一つにすぎないのでは、というところはある。 神の国、天の国の実在を疑っているわけではない。しか し、その存在の複雑さ、陰影の深さを考えるとき、単純に 語りつくせるものではないし、明確にこうだ、と言いきれ るものでもないと思う。とはいいながら、これを福音宣教 の強力なエンジンにしてきたのがブラザレンの伝統であっ た様に思う。希望がある。それはよい、しかし、手段と 目的が逆立ちしているかな、というお話をする方もいる。 その意味で、オウムのように終末思想に強く影響され ながら、精神世界を追求することは、少し注意を要する 要素を持っていると思う。 これはキリスト者にとっても同じことなのでは、と 最近思っている。 オウムが持っていた終末思想と最終解脱者とされた 麻原への強い傾倒を見ながら、そのことを思う。 |
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2010年03月26日
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