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前回の英文の続きです。
---------------------------------------------------------------- 3. PUTTING THE CART BEFORE THE HORSE In relation to ministry, it seems assemblies are more geared to older Christians than younger ones. For example, why do we always invite preachers to speak on the same things - the local assembly, the tabernacle, the temple, etc? I am chock full of notes on those things, I really don't need to hear about the tabernacle for the tenth time! Why do we not invite someone like the man who spoke at the conference, (??), who can get onto the level of young people and challenge them in areas of life that actually relate to them? (??) took up Bible characters - the life of Peter, the life of David, Ruth, and so on, and brought out practical things that the young people could take home with them and say, yes, this is how I will live my life, and this is why! What's the benefit of teaching doctrine when we have young people who can't say no to drugs?? Ok, that’s maybe a bit of an exaggeration, so let’s say worldly music, worldly clothes, inappropriate physical behaviour, etc. What is the benefit of teaching head covering when our young people don’t even understand the truth of Lordship in their lives? (After all, that is the underlying truth behind the head covering). What is the point of teaching young people the deep truths of Scripture when they can't even manage to establish a simple daily reading, praying, and devotional life with the Lord? If we aren't growing in the Lord, those doctrines will just go in one ear and out the other. If a young person hasn’t fostered a love for Christ or been encouraged in her daily walk with Christ, then why on earth would she wear a head covering to a church other than the Hall? See my point? We constantly put the cart before the horse. And I am not saying we stop teaching doctrine, for that is not the answer. I simply mean that our diet right now is severely imbalanced, and the needs of the flock are not all being met. We need food at all levels, and right now only the most mature are being fed. Our brethren choose to bury their heads in the sand about it and then wonder why we're losing our young people?? But then most elders in the assemblies today are on average 60+ yrs of age, so is it any wonder they have no understanding of young people today and that as a result the majority of people in assemblies are also 60+? We talk about wanting a future for the assemblies and being concerned about losing our young people, but inaction on the part of the brethren leads me to believe they don't care quite enough to do anything about it. |
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2011年06月22日
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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。
次の記事で、英文も載せておきます。なお、【・・・】の部分は、この文書の変換者の補注です。 ----------------------------------------------------------- 3.馬の前に馬車をつけるようなこと 牧会に関して言えば、集会は、若い世代の信者向けよりも、年配の信者のためのものをより多く取り揃えているように思えます。たとえば、同じことを言う人をいつも招くのでしょうか。地域教会とか、幕屋とか、神殿とか?【うゎ、強烈。私にはここまで書けません】私は、これらのことについてのノートで息が詰まりそうです。幕屋について聞くのは、10回目で、これ以上聞く必要がありません【これまた、強烈】。大会において、若い人のレベルに降りて、彼らの実際面での社会との関係について、取り上げることのできる(??)【伏字になっており不明】さんのような人を招かないのでしょうか。(??)さんは、聖書の人物を取り上げ、パウロの生涯や、ダビデの生涯、ルツの生涯などなどを取り上げています。そして、若い人々が家に持って帰って、そうだ、これが私たちの生活であり、これが理由だ、そのとおりだ、といえるような実際的な教えを引き出しています。教理の利益とは、若い人々が麻薬に対してそんなもの要らない、ということをいえない若者に対するものであるときに、発揮されるものではないのでしょうか。【確かに、麻薬や飲酒の誘惑にある人に対して、幕屋がどうのとか、神殿がどうのとか、地域教会がどうのとかは、意味をなさないですから。】 確かに、行き過ぎたかもしれません【そう思います】。しかし、世俗の音楽、世俗のファッション、不適切な身体的行動【たぶん性行為のことだと思われます】を考えましょう。私たちの人生における神の主権の事実(または真理)を知らない若い人々に対して、被り物の教えをすることの利益は何でしょう。(結局は、主(神)の主権を認めることこそが被り物の背景にあるはずです。)毎日聖書を読むことや、いのること、主との交わりのひと時を持つことすらできていないときに聖書の深い真理を教えることの意味とは何でしょう【我が家の子供たちを見ていても、反省せざるをえませんねぇ】。神(主)にあって成長していないときに、このような教理郷里は、右の耳から入って左の耳に抜けるだけではないでしょうか。もし、若い人々が、キリストへの愛を育てることができないときや、神とともに日々歩むことについて、励ましを受けないならば、彼女が被り物を集会ですることはできても、教会ですることができるでしょうか。 私の言いたいことをお分かりいただけるでしょうか。私たちは常に、馬の前に馬車をつけるということ(順序が逆)ということをしてき続けたのです。私は、教理を教えることをやめるべきだということを主張しているのではありませんし、それは解決策にはなりません。私は、われわれの食物が現在、偏ったもので、参加者に必要なものがまったく与えられていない、ということなのです【この部分は、幾分同意しますねぇ。まぁ、基本教理を繰り返ししゃべると、学びとしての内容がないとない王がないように思われるのではないか、という感覚というのは語り手にとってのわなですねぇ。基本的なことだけを話していると、学んでいないように見えてしまうことから、避ける人たちもいるでしょう。本当はそうじゃないんですが。短い時間で、基本教理を語ることをこなすことは難しいし。といって、長くやっていると飽きられるし】。私たちはさまざまなレベルの食物が必要で、われわれは、最も成長した人たち向けの食物を与えられているのです。【これは、そうかも知れませんねぇ。まぁ、被り物の話にしても、結果だけ教えられて、プロセスというかその背後にある構造が教えられていないというか。幕屋や預言にしても、あれは、極上の料理の最後に食べるビターチョコ系のデザートみたいなものであって、お子ちゃま向けではないですから。】われわれの兄弟たちは、そのことを考える頭を砂の中に突っ込んで、「なぜ、若い人たちが集会からいなくなるんだろう?」と考えているようなものです【ちなみに、この砂の中に頭を突っ込むという習性は、ダチョウが危機のときにする習性らしく、捕食者(プレデター)が来ると、ダチョウは頭の中を砂に突っ込んで、現実から回避するということがあるそうです】。多くの集会の長老たちは、60歳以上の方々であることを考えると、若い人々のことがわからないのは不思議ではなく、その結果として、集会の信者は60歳以上の方になるのではないでしょうか。私たちが話したいことは、集会の将来がほしいということであり、若い人々が失われているという懸念であり、私が信じるときに導いた兄弟たちが、そのことになんらそのことに関心を持っていないことに行動しないことです。 ----------------------------------------------------------- 上の文章を読みながら思ったことですが、真理(truth)、という言葉が、実はブラザレン派の行動や言動を読み解くためのキーワードのひとつかもしれないように思います。『真理』が適切に定義されないまま使われているので、『真理』が指す言葉や内容にかんする混乱が起こり、それが分裂につながるのが、たいていのパターンなのではないでしょうか。『真理』とは何か、ということをきちんと議論し共通理解が成立してから、個別の問題に取り組む、という姿勢がほしいように思います。集会は、『真理』という真剣(あるいは、双葉の剣、フェンシング用の剣)を振り回している道場のように外部から見えるのではないでしょうか。あぶないなぁ、とおもいます。 しかし、聖書を読むとかいう基本的なお話をしているときも、うちの高校生の娘も息子も大爆睡中。まぁ、基本的な教理の部分なので、聞く人がいなくても、語ることにしていますが。「起きろ」と言いたくなりますが、私はいいませんねぇ。私も中学高校のとき、集会で、いびきかいて寝てましたし。 ところで、ブラザレン運動は、もともとゲリラ的な自主的な活動として始まったために、非常に自由な雰囲気があったのですが、自主的な活動とはいえ、年長者が出てくると、世代交代が遅れる傾向にあったり、長老が長期政権化したりといった諸問題が出てくるので、それを防ぐ工夫が必要なのですが(従来は、開拓伝道があちこちで行われることで、この問題が回避されてきた部分もあるけれども、ただ、開拓伝道した場所が増えると、その開拓伝道でできた集会の人々のもつ、開拓伝道を行った個人にたいする評価も高くなってくるので、問題は複雑になることが多いと思います)、そのあたりの運営のノウハウは、この100年弱の期間かけても、北米でも作りえなかったということを、この文章は、示しているのかもしれません。 |
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