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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。 なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見・コメント・注釈です。 ---------------------------------------------------------------------------- 元の質問に戻りましょう。あなたは、なぜほかの女性が、私が書いたように見ないのか、という疑問をお持ちのことと思います。その疑問に対する答えとはこのようなものだと思います。そのために、パリサイ主義に戻る必要があります。集会(教会)では、ほとんどの場合、法的(律法的)に運営がなされているのではないでしょうか。この問題【被り物について】は、ものすごく大きく帽子をふくらませたような問題となっています【直訳すると、かぶりものの問題を大きくしています、ですが、このことは、大きな帽子とするということで、比喩的に大きな問題であるということを指摘しているようです。なお、北米のかなりの部分では、レースのベールではなく、帽子をかぶるところが多いようです】。我々は、被り物をあまりに重視するあまり、最も大切なその背後にあるもの、つまりキリストへの愛を見ることをやめてしまっているのです。【必ずしも、そうとも言えないようにおもいますが、この人のところはそうなのかもしれません。】キリストが主であること(リーダーシップ)に従うのは、私がキリストを愛するが故のみなのですし、それゆえ、キリストがかしらであることを受け入れているのです。そして、それゆえ、私は主の命令として被り物をかぶるのです。このことは、次のような順番になっているように思います。 ----------------------------------------------------------------------------集会の運営が律法的だ、というのは、必ずしもそうだとは言えないように思うのですが、一部で柔軟な対応ができず、律法的と受け取られても致し方ない運営をしているかのように受け取られかねない運営をされておられるところも全くないわけではないようです。 こういう表現をみていると、形式的に従っている、その背景を考えていない場面が多いように思います。その結果、本来信仰の問題として始まったものでも、そのキリスト者集団で、一定の共通の行動パターンとなったり、習慣化してしまった結果、信仰の問題とは別の論理が動いている場合もないわけではないようです。行動パターンが共通化してしまうと、それから外れた人は、共通パターンから外れていることだけで、おかしく見えてしまう、ということは起きるようです。たとえば、遣欧使節団としていったお侍さんたちは、船の中でいる限りは、違和感は抱かなかったようですが、宮廷の中に入った瞬間に違和感を抱いた結果、洋装令のようなことが明治期に起きたのだろうと思います。 さて、このように、文化や習慣、と信仰の問題の弁別というのは、意外に難しく、信仰の問題として始まったことも、その出発点が容易に忘れられることで、習慣の問題になり、それが文化の問題となり、文化として、人間の行動を縛ってしまうことになるようです。 本来的に聖書からどのように読み解いて、それを自分たちの世界との関係でどのように解釈していくのか、ということを考えるためには、自分たちの行動の基準となっている行為について、その根拠とは何か、その出発点とは何か、ということを考える必要があるように思うんですがねぇ。また、繰り返しになっても、基本的なことを一緒に考えるということが大事だと思うんですけどね。 |
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Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。 -------------------------------------------------------------- It will benothing more than a Gospel Hall rule and won’t “stick” to use your terminologyof last night. See, I'm not going to wear a hat to meeting becauseit’s a Gospel Hall rule, if I am going to wear a head covering to meetingor elsewhere, it is because I understand and accept the truth behind it. Yes,it would be hard to go somewhere else where they don't practice headcovering and wear hats, but if I do wear a hat there, it is not becausefor fear that one of the brethren might see me, or even because I have worna head covering for years in the assemblies, it is because I love the Lordand want to obey Him. |
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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見です。
---------------------------------------------------------------------------- 被り物のことは、集会の規則以上のものではなく、昨夜【この手紙を出した人の学び会があったのは、手紙が出される前日であったようです。】お使いになられた用語をつかうと、もはや『粘着力【あるいは、そこにとどめる力】をもっていないのです。私が被り物をかぶるのは、それが集会の規則であるからではなく、それは、私がその背後にある概念【神に対する敬意】を受け入れ理解しているからです。もちろん、被り物をしなかったり、帽子【北米の大半の地域では、被り物は、ベールではなく帽子のようです。ベールは南部などでのごく少数派のようです。】をかぶらないような、ほかの集会や教会にいくことは難しいですが、もし、私がそこで帽子をかぶるとしたら、ほかの信者が見ているからではなく、あるいは、長年集会でそのようにしてきたからではなく、私が主を愛しているし、主に従いたいからです。 ----------------------------------------------------------------------------被り物の議論は、時代背景を前提とした解釈として、日本の多くの教会(集会用語を使えば、教派の教会)でほとんど行われていませんが、いまだに帽子を文化としてかぶる習慣のある北米では、神への敬虔の服装による表明というよりは文化としてかぶっているところはあります。
お葬式や、公式の場では、いまだに北米では帽子をかぶる習慣は、いまだに残っています。例えば、大統領の就任式や、公式レセプションでは、大統領夫人は帽子をかぶっていることが多いですねぇ。
映画なんかを見ていても、サザンバプティストの教会なんかでは、日曜日の教会へ出席している女性は、みんな帽子をかぶっています。
男性が正装としての帽子(HAT)をかぶらなくなったのは、ケネディが就任式で帽子をかぶらなくなって以来の受け入れられていた習慣のようです。しかし、ワシントン州やイギリス諸島地域のような小雨が絶えず降っている地域では、帽子は、傘の代わりになり、結構便利なのですね。
あ、きょうから、復帰しました。しばらく、不定期更新になります。ご心配をかけた、UgoUgoさん、Luceさん、ご心配をおかけしました。今年の夏は、体力が落ちていて、気力が欠けてたり、PCが不調だったり、作業用PCの貸し出しがあったりと、いろいろありましたので。ぼちぼち復帰していきます。長い夏休みをいただいてしまいました。
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