ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

私がこのブログでくどくどと、ハープで同じ曲を弾くようにつまらない記事を載せているのは、ブラザレン運動の原点、キリスト集会の出発点とその精神性がどのようなものであるかを、だれも語ってくれなかったので、英文の参考文献と辞書を片手に、調べることにしました。そしてこれまでの人生の中で出会ってきた体験をもとに、自分自身の信仰とは、どのようなものでありたいのか、を考えるためです。この作業が、読者となっていただいた方にとって、多少の参考になったら、という思いからなのですねぇ。

どのような教派、キリスト者共同体であれ、歴史的経緯の中で、その運動固有のスタイルというものができていくのは仕方のないことであると、私は思います。そうであるからこそ、他のキリスト者共同体から、我々と違う、ということで、ラベルが付与されていくのだとおもいます。その意味で、歴史的経緯の中で、ブラザレン運動と他のキリスト者共同体から呼ばれるキリスト者共同体が身につけてきた精神性や行動指針、行動原理について、それがどのように形成されていったのかを海外文献を中心に探していくことは個人的に重要ではないかと思います。その上で、他の動きや文化的潮流、時代背景を合わせて、参照的に考えていくことで、自分たち自身の信仰のありようを、客観的に見直してみること(批判的になりすぎず)を考えていきたいと、私は思います。

このブログは、このブログの冒頭に書いてある通り、ブラザレン運動関係者の皆さんを誹謗中傷するつもりは毛頭ありません。それをすれば、ブラザレン運動の関係者と個人的に思っている自分自身を傷つけることにもなりますから。まぁ、キリスト集会の方々からは、当然、「変な奴がほえているだけ」と思われているでしょうが、それはそれでよいではないか、と思っています。

最後に、今年亡くなられた沖見さんというかたの懸念をお話ししておきたいと思います。沖見さんとおっしゃる方から個人的にお伺いした、その方の懸念は、現在のキリスト集会(教会)に若い人々がいない、ということでした。昔の諸集会と自称するキリスト者共同体には、大学生、高校生だらけだったのに、今は、ほとんどそういう年代層の方がいない、ということについての懸念でした。もし、皆さんが属しておられる教会の30年前、あるいは20年前の写真をご覧ください。いま、長老や責任者の方々の若い時の姿とともに、それらの方々の同世代の方々も、たくさん写真に写っているはずです。それらの方々がどこに行かれたのか、ということを考えることは意味のないことなのでしょうか。もちろん、地方部のキリスト集会からは、都会のキリスト集会に多くの信者が紹介状とともに、移動していきました。確かに、地方部の若年層は少ないです。それが、原因でしょうか。地方部でもロックコンサートなどに、若い人々が集まるのは、なぜでしょうか。そこに何があるのか、ということを考える視線は、罪なのかもしれませんねぇ。

今のキリスト集会の写真をご覧ください。どんな方々が写真に写っている方々の中で多いでしょうか。もちろん、すべての年代のキリスト者を満足させる教会は存在しえません。しかし、もし、若い人々が集会に残らないとしたら、その集会は、消えていくのです。私は、私が滞在したロスアンゼルス北郊外の南カリフォルニアでそのことを思い知らされました。4つくらいあった集会が、信徒の高齢化に伴い、結果として閉鎖されていったという事実です。もちろん、サンフランシスコの南郊外には、数多くの集会が元気で奉仕しているところもあります。これらは神の御心の結果なのでしょう。神の御業の結果なのだと思います。閉鎖した教会が霊的に劣っていた、とか、失敗であったとは私は思いません。神のご計画の一環として、キリスト集会というキリスト者共同体が、ある地域における一つの時代での果たすべき役割を終えた、ということなのだろうと思っています(将来、このことを考え直すかもしれませんが)。だとすれば、我々は、キリストの体の一部をなすものとして、それがどのようなものであるのか、どのように考えていくべきなのか、ということをもう少し考えていった方がよいのでは、と思います。

公共交通機関がなければ、そもそも通えないキリスト集会とは何か、2時間自動車を運転して初めて通うことができるキリスト集会とは何か、ガソリンが無くなって通えなくなるキリスト集会とは何か、計画停電で電車が走らなくなり、結果として通えなくなる可能性があるキリスト集会とは何か、高齢になった時、高齢のゆえに通えなくなるキリスト集会とは何か、そんなことを考える必要はそもそもなく、無理をしても、万難を排しても、キリスト集会に通う信仰が称揚される程の信仰をもつことが本当は大事なのかもしれません。そもそも、阪神大震災の被災地の端っこにいて、もう一方の被災地の端っこにあるキリスト集会に無理して通うのがどうかと思ったことを、今回の福島原発のこと、東北の津波のことで被害をお受けになられ、集まることすら困難だった東北の他のキリスト者共同体の皆さんのこと、そして、年齢を重ね、キリスト集会を自称するキリスト者共同体に来ることができなくて、申し訳なさそうにしておられる信者の方を見ることが増えるたびに、私たちは何をしようとしてきたのか、私は何をしようとしているのか、と自問自答しているのでしょう。

この精神的なあるいは霊的な旅は、まだまだ続きます。私が地上での生命を終えるときまで続くでしょう。今まで、時折であれ、この旅を私と一緒に続けて下さってきた方には、心から感謝しています。何より、このひねくれ者の私を愛して共に歩んでくださるナザレのイエスという方に。

随分まえになりますが、信者でない方を中心としたお話しの機会に、罪について話したときに、私は、Fanny Crosbyという方のBlessed assurance, Jesus is mine. Oh, what a foretaste of glory divine(日本語では、つみとがをゆるされ と訳された讃美歌)を最後に英文を直接触れながら、解説して、罪がない状態とは、Jesus is mine!と主張できることなのだ、とお話ししました。まさしく、ugougoさんのたとえで言う、宇宙刑事ギャバンの蒸着状態とでもいいましょうか。そう、私もJesus is mine!だと思うと、Fanny Crosbyに激しく同意したいと思います。

私の書きなぐるものにお疲れになった方は、どうぞご無理をなさいませんように。読んだところで、大して益となるものではないでしょうから。今後とも、お付き合いいただける方には、よろしくお願い申し上げる次第でございます。また、私が面白い記事と思った記事など、見つけましたら、ご紹介したいと思います。

全1ページ

[1]


.
kaw*muk*ih
kaw*muk*ih
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事