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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。 ------------------------------------------------------------------------------- 最近、私は、ある友人と話しましたが、彼女が言うには、彼女は、毎週パンを裂くことや、被り物をかぶることといったことをあきらめ、もうちょっと励ましをくれて、成長させてくれる別の場所に行くことを考えているといっていました。何ということでしょう。何が、そんなことを考えさせたり、言わせたりするのでしょう。何かが抜け落ちているのであって、去っていく人々の中に問題のすべてあるという態度をとったり、失われていくままにすることをしてよいのでしょうか。ほかの良くみられる状況として、去っていく人々や去ろうとする人々は完全に間違っているという意見をお持ちになるかもしれません。もちろんそうかもしれません。だから、彼らは集会を去ったし、今去ろうとしている人々は聖書の真理を堅持していないのかもしれませんが、私が思うには、集会を離れるのは、【聖書に関する】教理上の問題ではありません。離れる人々の多くは、同じことができる【教理を守ることができる】場所を求めているのです。彼らが離れるのは、信仰生活における失望と、【個人への】関心の不足なのです。 ------------------------------------------------------------------------------- キリスト者としての成長とは何か、ということを考えると、単なる聖書知識の成長だけではなく、キリスト者として社会の中で、生きるときに、神とどのように向き合うか、ということであったり、神と共に生きる生活をより豊かにするということはどういうことか、ということかもしれません。それは人それぞれ違うでしょうが。 フランクに生き方を語る場であったり、聖書の理解を語る場であったり、さまざまな人々と共に生きる中で、豊かに生きている、ということについては、あまり学ばれることは少ないかもしれませんねぇ。意外と、こういう部分が本当は大切なの子かもしれません。 この手紙の著者の方がご指摘になっておられるように、集会から去っていく人々について、それらの人に責任がすべてある、という私たちは態度をとりがちかもしれませんが、私たちのうちの問題とは何か、という自己反省的な視点が欠けているのか、という視点で見直してみることも大切なのかもしれません。 |
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Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。
---------------------------------------------------------------------------- 5. NO CONCERN FOR INDIVIDUALS Another reason young people leave is because in the assembly we care more for the company as a whole rather than the individuals that make up the assembly. Just stay in line and don't step out, or your head will be on the block! It isn’t a place to learn and grow in a safe loving environment, it’s “be perfect, or be gone”! And I can prove this. If it were not the case, then why do we neglect and care less about those who leave? If we truly cared for individuals, we would extend Christian love to those who leave. But instead we adopt the attitude that maybe “for the greater good” we are better off without them, so let's groom those that are still here, and move on. Now, I am very grateful for being raised in the assembly and the firm foundation of teaching I have received in my lifetime. I believe the truths from Scripture and am not at risk of leaving! But why this all really concerns me is that I have friends who are contemplating leaving the assembly, or have left, or just will never come into fellowship. And this really bothers me. |
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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。 ------------------------------------------------------------------------------- 若い人々が集会を離れるもう一つの理由は、集会を作り上げている個々人よりも集会全体についての関心が強いことにあると思います。あるラインの中にいて、そのラインからはみ出さないようにしなさい。さもないと、あなたの頭は塀の上にあることになります。このような場は、学ぶ場であったり、愛し合う場でしょうか。完全であれ、さもなくば去れ、といった感じの場所とはなっていないでしょうか。このことの証拠を示すことができます。このことではないとしても、だとすれば、どうして、去っていく人々に関心を示さないのでしょうか。もし、個人に関心があるとすれば、我々は、去っていく人々にも愛を示すことができるのではないでしょうか。彼らがいなくなってより良くなったという態度をとるのであれば、集会にいる間にもっと関与をしたら良かったのではないでしょうか。私は、私の人生に受け取った教えをしっかりとした基礎と今所属する集会で育てられたことに感謝しています。聖書の真理を信頼していますし、私自身は集会を去るつもりはありません。しかし、なぜ、私は、集会を去ろうとしている人や、すでに離れた人、集会の中に決して戻ってこない人に友人がいるので、このことが気になるのです。このことは本当に私にとっての悩みの種です。 ------------------------------------------------------------------------------- 確かに、この方の指摘のように集会全体のために、個人が犠牲になるという面は、集会が複数人からなるコミュニティである以上、多少は避けられないとはおもいますが、確かに、集会を離れてしまった人について、時に冷淡にすぎるように思います。この方のように、集会から離れて行かれた方と継続的な友人関係があるような場合、あまりの冷淡さに心痛めるというのはあると思います。 とりわけ、日本での場合、他の教派をあまり普段からよくいってないこと、さらに、超教派関係でのほかの教会との友好関係が集会に少ないこと、超教派活動をあまりよくいわないことなどから、集会に行けなくなった人の行き場(逃れの街のような教会や集会)が限られる、ということはあると思います。その結果、集会を離れることで、キリストへの信仰も継続できなくなるというケースも少なくない、と思います。本当に残念なことですが。 とはいえ、基本OJTで指導者養成をするキリスト者グループなので、個人に対する霊的ケア、というのかミニストリーというのか、霊的な指導者としてのメンターみたいな事柄をもう少し考えることも必要かなぁ、と思います。もちろん聖書のことを詳しく解釈することも、それと同じくらい大事だとは思いますが。 |
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4.LEGALISM ANDPHARISEEISMの続きです。
-------------------------------------------------------------- We“Gospel Hallers” love our externals, because they are easy. Got yourskirt? Check. Got your hat? Check. But internal issues? Wellthat’s another matter. It’s not so easy to discern whether someone isstruggling, now is it? It takes being spiritually minded and in tune withthe Lord, His Word, and submission to the Spirit’s leading to discern thespiritual needs of others. Someone once told me that people don’t care how muchyou know until they know how much you care. Another has said that actionsspeak louder than words, so maybe we should all start putting ourChristian love for one another into action and then we wouldn’t lose so manypeople. Concernabout losing young people is one thing, but we should be concerned too aboutthat fact we are not even getting them in the first place! For example,there is a brother in our assembly who teaches the older Bible class. Butas these kids are from a poorer background with no Biblical influences, anddon't do so great in school, this brother wanted to use a version of theBible more suitable to their reading level. He was refused permission, soit was back to the KJV for all of them. One of the girls in turn refusedto use the KJV because she said she cannot read it and does not understandit. Do we really want to win people for Christ, or are we more concernedabout things like which version of the Bible we should read than a soul’ssalvation! For the sake of our legalism, we would jeopardize a young girl'sopportunity to study the Bible and learn about the Saviour. It's legalismlike this that just turns us young people off. We strain at a gnat andswallow a camel! Major on minors, and minor on majors. The older brethrenmay refuse to acknowledge it, but many young people are getting fed upwith all this ridiculous legalism. |
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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。なお、【・・・】の部分は、この文書の変換者の補注です。 ------------------------------------------------------------------------------- われわれ、集会に集う人々は、外面を愛しているのです。なぜなら、それが簡単だからに過ぎません。「スカートをはいていますか?」「いいですね【言外に聖書的な生活スタイルをしていることを意味するのだ、と思います】」。「帽子【北米では、文化的にベールではなく、帽子が聖書に指示された正式なかぶり物だと思っている一部のキリスト集会がある。おそらくフランスを中心としたヨーロッパの貴族文化が英国文化に影響を与えた結果と思われる】をかぶっていますか?」「いいですね【言外に聖書的な生活スタイルをしていることを意味するのだ、と思います】。」しかし、心の内部の問題は?そう、それは別問題なのです。ほかの人が苦しんでいることを見つけるのは簡単ではありません。それは、霊的な豊かさがあることと、主と主の言葉と、聖霊の導きに従い、他者の霊的な必要に関心を持っていることが必要だからです。ある人が以前私に言ったことがあります。「人々は、あなたがそのことにどの程度の関心を持っているとわかるまで、どの程度考えているのかを知ることはできないのではないのですか。」ほかの人は、「行動は言葉よりも影響力がある」といいました。だとすれば、私たちはキリスト者の愛を実際に行動に起こしたらよいのではないでしょうか。そうすれば、多くの人々を失うことはないはずです。 若い人々を失うことは一つのことですが、しかし、そもそも若い人が集会に来ていないことにももっと関心を払うべきです。たとえば、私たちの集会に高学年向けの聖書クラスを担当している男性信者がいます。彼が担当している子供は、聖書の影響の少ない家からの子供で、学校でもいい成績というわけではありません。この兄弟は、子供たちがわかるレベルの聖書の翻訳【Today’s English VersionかNew IInternational Versionの子供向けの聖書だと思う想定されます。】を使おうとしていました。しかし、そのことは許可されませんでした。そしてその子供たちは、KJV【King James Versionの頭文字をとったもので、かなり以前の時代(シェークスピアの時代)に英語訳された聖書の一つ。日本語の感覚で言うと、文語訳(大正改訳とかイエズス会の戦国時代の翻訳・高校生程度の古文の知識が必要)を読んでいる雰囲気】を利用することになったのです。女の子と一人は、KJVを使うことを拒否しました。彼女はそれを読めもしないし、彼女は読んでも理解できないからです。キリストに人を引き合わせること【直訳風に訳せば、キリストのために人々を勝ち取ること】に関心があるのでしょうか。それとも、魂の救いよりも、どの聖書のバージョンを読むのかは重要なのでしょうか。我々の律法主義のために、われわれは、少女の聖書を学ぶ機会と救い主について学ぶ機会に壊滅的な打撃を与えたのです。このような律法主義が、若い人々を集会から離れさせるものなのです。【マタイ書23:23-24の言及を引用していると思われる】、あなた方は、ブヨは漉しているが、らくだは飲み込んでいる。大きなものは小さくされ、小さなものは大きな者とされるのです。この年長の兄弟は、そのことを認めることをしなかったのです。多くの若い信者は、この愚かしい律法主義に飽き飽きし始めているのです。【ここでは、愚かしい、と少し上品に訳していますが、原文では、ridiculousですから、ばっかばかしい、とか、実にくだらない、愚にもつかない、といった表現の方がより適切なんですが。】 ------------------------------------------------------------------------------- うーん、ここまで書くかなぁ。このメールの著者は、よっぽど頭に来ていたのだろうと思います。 ただ、最初に米国の西海岸の教会に行ったときに、まぁ、ワシントン州は、カジュアルな服装がかなり認められている地域だから、といわれてカジュアルな格好だけ(一応ネクタイだけは、持って行った)をもっていったら、いきなり、みんな黒服の男性信徒、姉妹は、大草原の小さな家に出てくるオルソン夫人の教会服(その教会でオルソン夫人のきていた教会服を着ていると、派手で浮いてしまうと思います。)のような紺の地味なドレスを着ているのを見て、あれ、話が違う、と思ったのでした。あわてて、スーツを日本に帰った際に持ち出し、何とか体裁を保ったものの、普段がカジュアルな服装の人たちばかりの環境の中にあって、19世紀的な服装を見たので、あれれ、この人たちは棺の中の人と同じ服装を着ている、と思ったのでした。 また、聖書も大時代風のKJV、それも特殊なリズムと抑揚のついた読み方でした。うわぁ、と思ったのも事実です。わたしは、米国での標準と聞いていたので、NIVをもっていったのですが、それは聖書ではない、とまでは言われませんでしたが、それに近い扱いを受けました。KJVこそ、由緒正しき、誤りのない神の言葉、という雰囲気が漂っていましたねぇ。 確かに、このメールを書いた方がおっしゃるように、外面だけで判断するのであるとするならば、キリストの言った愛を実践するということになっているかどうかを含めて、よく考え直さないといけませんねぇ。それは、このメールを書いた方にも言えることかもしれませんが。ほかの人たちの行動、そして、私たちの行動を批判的に考えると同時に、その内的な霊性とは何か、その原動力とは何か、なぜ、こうなったのか、ということをもう少し批判的に考える方がいいかもしれません。 |





