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私がこのブログでくどくどと、ハープで同じ曲を弾くようにつまらない記事を載せているのは、ブラザレン運動の原点、キリスト集会の出発点とその精神性がどのようなものであるかを、だれも語ってくれなかったので、英文の参考文献と辞書を片手に、調べることにしました。そしてこれまでの人生の中で出会ってきた体験をもとに、自分自身の信仰とは、どのようなものでありたいのか、を考えるためです。この作業が、読者となっていただいた方にとって、多少の参考になったら、という思いからなのですねぇ。
どのような教派、キリスト者共同体であれ、歴史的経緯の中で、その運動固有のスタイルというものができていくのは仕方のないことであると、私は思います。そうであるからこそ、他のキリスト者共同体から、我々と違う、ということで、ラベルが付与されていくのだとおもいます。その意味で、歴史的経緯の中で、ブラザレン運動と他のキリスト者共同体から呼ばれるキリスト者共同体が身につけてきた精神性や行動指針、行動原理について、それがどのように形成されていったのかを海外文献を中心に探していくことは個人的に重要ではないかと思います。その上で、他の動きや文化的潮流、時代背景を合わせて、参照的に考えていくことで、自分たち自身の信仰のありようを、客観的に見直してみること(批判的になりすぎず)を考えていきたいと、私は思います。 このブログは、このブログの冒頭に書いてある通り、ブラザレン運動関係者の皆さんを誹謗中傷するつもりは毛頭ありません。それをすれば、ブラザレン運動の関係者と個人的に思っている自分自身を傷つけることにもなりますから。まぁ、キリスト集会の方々からは、当然、「変な奴がほえているだけ」と思われているでしょうが、それはそれでよいではないか、と思っています。 最後に、今年亡くなられた沖見さんというかたの懸念をお話ししておきたいと思います。沖見さんとおっしゃる方から個人的にお伺いした、その方の懸念は、現在のキリスト集会(教会)に若い人々がいない、ということでした。昔の諸集会と自称するキリスト者共同体には、大学生、高校生だらけだったのに、今は、ほとんどそういう年代層の方がいない、ということについての懸念でした。もし、皆さんが属しておられる教会の30年前、あるいは20年前の写真をご覧ください。いま、長老や責任者の方々の若い時の姿とともに、それらの方々の同世代の方々も、たくさん写真に写っているはずです。それらの方々がどこに行かれたのか、ということを考えることは意味のないことなのでしょうか。もちろん、地方部のキリスト集会からは、都会のキリスト集会に多くの信者が紹介状とともに、移動していきました。確かに、地方部の若年層は少ないです。それが、原因でしょうか。地方部でもロックコンサートなどに、若い人々が集まるのは、なぜでしょうか。そこに何があるのか、ということを考える視線は、罪なのかもしれませんねぇ。 今のキリスト集会の写真をご覧ください。どんな方々が写真に写っている方々の中で多いでしょうか。もちろん、すべての年代のキリスト者を満足させる教会は存在しえません。しかし、もし、若い人々が集会に残らないとしたら、その集会は、消えていくのです。私は、私が滞在したロスアンゼルス北郊外の南カリフォルニアでそのことを思い知らされました。4つくらいあった集会が、信徒の高齢化に伴い、結果として閉鎖されていったという事実です。もちろん、サンフランシスコの南郊外には、数多くの集会が元気で奉仕しているところもあります。これらは神の御心の結果なのでしょう。神の御業の結果なのだと思います。閉鎖した教会が霊的に劣っていた、とか、失敗であったとは私は思いません。神のご計画の一環として、キリスト集会というキリスト者共同体が、ある地域における一つの時代での果たすべき役割を終えた、ということなのだろうと思っています(将来、このことを考え直すかもしれませんが)。だとすれば、我々は、キリストの体の一部をなすものとして、それがどのようなものであるのか、どのように考えていくべきなのか、ということをもう少し考えていった方がよいのでは、と思います。 公共交通機関がなければ、そもそも通えないキリスト集会とは何か、2時間自動車を運転して初めて通うことができるキリスト集会とは何か、ガソリンが無くなって通えなくなるキリスト集会とは何か、計画停電で電車が走らなくなり、結果として通えなくなる可能性があるキリスト集会とは何か、高齢になった時、高齢のゆえに通えなくなるキリスト集会とは何か、そんなことを考える必要はそもそもなく、無理をしても、万難を排しても、キリスト集会に通う信仰が称揚される程の信仰をもつことが本当は大事なのかもしれません。そもそも、阪神大震災の被災地の端っこにいて、もう一方の被災地の端っこにあるキリスト集会に無理して通うのがどうかと思ったことを、今回の福島原発のこと、東北の津波のことで被害をお受けになられ、集まることすら困難だった東北の他のキリスト者共同体の皆さんのこと、そして、年齢を重ね、キリスト集会を自称するキリスト者共同体に来ることができなくて、申し訳なさそうにしておられる信者の方を見ることが増えるたびに、私たちは何をしようとしてきたのか、私は何をしようとしているのか、と自問自答しているのでしょう。 この精神的なあるいは霊的な旅は、まだまだ続きます。私が地上での生命を終えるときまで続くでしょう。今まで、時折であれ、この旅を私と一緒に続けて下さってきた方には、心から感謝しています。何より、このひねくれ者の私を愛して共に歩んでくださるナザレのイエスという方に。 随分まえになりますが、信者でない方を中心としたお話しの機会に、罪について話したときに、私は、Fanny Crosbyという方のBlessed assurance, Jesus is mine. Oh, what a foretaste of glory divine(日本語では、つみとがをゆるされ と訳された讃美歌)を最後に英文を直接触れながら、解説して、罪がない状態とは、Jesus is mine!と主張できることなのだ、とお話ししました。まさしく、ugougoさんのたとえで言う、宇宙刑事ギャバンの蒸着状態とでもいいましょうか。そう、私もJesus is mine!だと思うと、Fanny Crosbyに激しく同意したいと思います。 私の書きなぐるものにお疲れになった方は、どうぞご無理をなさいませんように。読んだところで、大して益となるものではないでしょうから。今後とも、お付き合いいただける方には、よろしくお願い申し上げる次第でございます。また、私が面白い記事と思った記事など、見つけましたら、ご紹介したいと思います。 |
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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.176からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のA Typical Sunday(典型的な日曜日)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。 --------------------------------------------------------- ブラザレン派の日曜日のプログラムにおける第二の弱点は、ルールの必要性に関する注意の広範な欠如である。このことから、非常に多くの信者にとって有益でない『祝福を受けた考え』が述べられたり、一人の人がその集会の支配的な影響力を持つ人物となりかねないことであった。ブラザレン派の日曜日のプログラムにおける第3の弱点は、ぎちぎちに固定化したようなパターン化であり、どのような奉仕を実施するかの詳細についての議論から、集会の分裂につながることがあった。 --------------------------------------------------------- 確かに、誰でもが学べるということは、日曜日での話の内容が必ずしも有益でないものがあるということにもなりかねません。また、このブラザレンはと呼ばれるキリスト者グループが非常に伝道に熱心だったこともあり、伝道するのがキリスト者のすべての氏名と誤解された方も出たようです。その結果、十分に聖書を体系的に学ばないまま、語る人たちが出てくる場合もあります。信じて、すぐ福音を語ることもよいとされた時期もありました。このような時代の、いや、今もかも知れませんが、私の話を聞く羽目になった犠牲者の方には、深く御礼とお詫びを申し上げたいと思います。私自身の経験からで申し訳ないのですが、少なくとも私に関しては、今から反省してみれば、自分自身で十分に聖書を読みこなさないまま、あるいは深く考えないまま、福音を語ったり、学びを語ったりということにもなったわけです。ある面でいうと、どこかで聞いた話の劣悪なコピーで、非常にいい加減な内容のものも時にある場合がありました。本当にそんな話を聞く羽目になった方には、申し訳ないと思っております。 キリスト集会の中での特定の人物の影響が極めて大きくなる、ということに関しては、結構この種の問題はあるように思います。特に、開拓伝道として始まった教会(集会)の場合で、一人の男性信徒ではじめられたような場合、どうしてもその集会を始めた人の存在や考えが、繰り返し繰り返し語られる中で、知らず知らず信者の中に定着し、その集会(教会)の雰囲気や方向性を決定的に決めてしまうことがあるようです。 あと、聖餐式のパターン化については、どうしても人間、前例踏襲主義になりやすく、さらに、そのような行動を始めたときには、始めた人はそのように始めた方法論についても、一定の聖書解釈に立って実施していると考える傾向があるため、どうしても、パターン化が起きやすいようです。パターンから脱出させることも、実は重要なのですが、パターンからでるということは、従来のあり方を変えるということであり、それが、従来の聖書理解の否定と受け取られることにもなりかねません。こうなると、パターンの変更は、単に具体的な行為についての方法論の対立ではなく、聖書理解の対立となってしまい、そうなった場合、集会の分裂となってしまうようです。 |
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ここまで、ご紹介してきた北米のキリスト集会の女性信者さんのお手紙を読んだ読後感、というのを2回にわたって、記載していきたいと思います。
うーん。この手紙を見て、実は、かなり深刻に考え込んでしまったのですね。 どうも、この匿名の姉妹が書かれたことは、要するにブラザレン運動の歴史的経緯で作られてきた諸概念をもう一度見直してみて、ブラザレン運動の原点への精神的回帰をしてはどうか、とする主張のように思えるんですね。ドイツ改革派における運動であれ、ブラザレン運動であれ、さまざまなムーブメントは、結局のところ、さまざまな人々が関与して成立する以上、歴史的限界、時代の制約、同時代における類似組織からの影響などを受けながら、さまざまな行動様式が生まれてきて、それをどのように現代的に解釈しなおすのか、ということが問われている内容だと思う。 この文章を載せたところで、今日、明日にこの姉妹がおられる北米のキリスト集会が急展開、方針変更をすることもないだろうし、日本の諸集会と自称するキリスト者集団がそのあり方を急変させることもないだろうと思います。それは、土台無理なことでしょう。急展開させて見られよ。以前真理として大々的に教えてきたことが『嘘』とはいわないものの、『真理を含まなかったもの』となりますし、下手をすると、それまでの人生で、教えられてきたことを真面目に考え、守り、そのことを疑うことすらすることのなかった信者さんが自分の信仰は間違っていたのであろうか、と真面目に悩むことになりかねない。そんなリスクを責任者は負い切れないだろうと思うわけですね。 ただし、『真理』は必ずしも一つではなく、相互に並立しうる、ということを考えてみる、ということは重要かもしれません。また、人間には神が主張しておられることに関して厳密には理解することができないということを認めることは大事かもしれません。それゆえ神を恐れつつ、そこに近づく必要がある、ということを虚心坦懐に考えるとき、さまざまな人々、さまざまな年齢の人々、さまざまな考えの人々がともにあってキリストにあって一つであるということを再確認する場でありたいという英国におけるキリスト集会の出発点、あるいはブラザレン運動の原点、ということは、もう一度見直されてもいいかなぁ、と思っています。 |
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Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。
-------------------------------------------------------------- I hope, Mr. ---,that this letter does not leave you feeling really down and discouraged. I amsorry that its nature is so frank, but this is truly how young people arefeeling and thinking, and instead of trying to sugar coat it, I thought Iwould just write to you honestly. I would never dare to go to the elders forfear of them accusing me of railing, or of getting the boot! I wouldn’texactly describe the elders as approachable. I know (??) has tried,unsuccessfully, to bring these concerns to their attention, but has gottennowhere. So it leaves us with only three choices: 1. Say somethingand suffer the penalty. Nothing changes. 2. Don’t sayanything, just give up, and suffer also. Nothing changes. 3. Don’t sayanything, just pray and hope the Lord changes things. In Christ,(Anonymous) |
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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。 なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見・コメント・注釈です。 この手紙が○○兄様【この手紙の受取人】の気分を滅入らせ、落ち込んだ気分にしたままとならないように願っています。このことについてかなり正直に書いたことについて、少し申し訳ないと思っていますが、これが若い人々が感じたり、考えたりしていることなのです。砂糖まぶしにするのではなく、私は正直に書きたいと思いました。【正直に書かれたと思います。私のブログは、あんこの上に砂糖まぶしに書いているので、わかりにくいとは思います。そのことで、見えなくなっている部分がありますが、まぁ、読んでいただくためには、多少砂糖まぶしも必要だと思います。この手紙、翻訳しながら、よくここまで歯に衣着せぬよう書けるなぁ、というのが、正直な感想でした。】私は、長老の人々のところに行って、怖がらせようとは思っていませんし、取り乱したと責められようとは思いませんし、はき違えているといって、【註:長老から】責められたくはありません。私は、長老の人々が話を聞いてくれる人々とは思えない表現できないのです【この感覚、わかるなぁ】。私は、??さんがこのことに注意喚起を図ることができるようにしようとされたのですが、うまくいかなかったことことは知っていますし、??さんは、どこかに行ってしまわれました。となると、このことは、私たちに3つ選択を残すだけです。 2. 何も言わずに、ただ諦めるけれども、つらい目にあう。何も変わらない。 3. 何も言わないで、唯主に祈り、主が変えてくださることを期待する。 私がお話したことで何か発展的なものや、助けになるものがあったかどうかは私にはわかりません。もし、私が基本から離れていたり、路線から外れていたなら、そのことをお知らせくださいますように。私自身が、完全だ、と主張するつもりは私にはありませんから。 -------------------------------------------------------------------------- いやぁ、最後の三択、絶望的な三択ですね。実際には、この三択ではないような気がします。ただ、この姉妹がおかれた場所では、ここに示された3択以外のオプションがないんでしょう。本来は、もっといろんなオプションがあるはずなのですけれども。長老の態度、ということが大きいのかもしれません。本来、ブラザレンと呼ばれるキリスト者集団の中では、兄弟姉妹(正確には男女)の区別なく自由で闊達な発言をゆるされていて、かなり自由な参加と関与ができていた組織なのですが、イングランドや、北米大陸、そして日本の歴史的文化的経緯の中で変質し、最初の自由度が薄れている姿を強く感じました。 来週の月曜日には、この文章を読んだ総集編として、日本語変換した私自身のまとめをしてみたいと思います。 |





