ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.181からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のThe Changing Role Played by Women(女性の役割の変化)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。

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 さまざまなことが落ち着いていく中で、スコットランドの集会群は、教派間を連結するような(超教派的)なリバイバル運動から離脱するようになり、教理的な正しさに対する意識がより強くなり、集会の教理が重視される傾向が生み出されていった。女性が公式な場で語ることを許すことは次第に進められないようになり、その後、そのことに関する疑問が口にされるようになるとほぼ同時に、問答無用のような形で、女性が語ることが認められなくなっていった。集会生活の基本原理として新約聖書が理解されるようになり、女性が語ることがなくなり、第1コリント14章33-36節、第1テモテ2章8節がその根拠として語られた。ごく少数の集会(AberdeenshireのRhynie)は女性が前に立って説教することを許したが、1880年代には、そのことに関する緊張が走ったことが記録されている。
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以前紹介したことがあるかもしれませんが、ある本の中で、女性信徒が前に立って福音を語るのではなく、家庭集会のような場で福音を語ることについて禁止されていることについて、ある年配の男性信徒が、のちになって、ミリアムは預言したし、モーセにさえ苦情を言った(後で、ひどい目にあったとはいえ)、アンナは預言したし、ハンナはエリと話していることを考えると、女性の発言があったほうがよいかもしれない、と言い出したのを聞いて、もっと早くそのことに気付いてほしかったという記載があります。

 こういう記述を見ていると、女性が前に立って話すことを認めるかどうかは別として、望む人々には、もっとオープンな発言する機会があってもよいのではないかなぁ、と思います。女性を掃除やお茶のサービス、日曜学校の先生だけに限定する必要性はないと思うんですけどねぇ。それだけに縛らなければならない、聖書的根拠はないように思いますけど、それは私の理解が足らないからでしょう。


Tim GrassのGathering to His Nameの中p.181からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のThe Changing Role Played by Women(女性の役割の変化)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。


今日からしばらく新しいテーマです。

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1860年代と1870年代におけるスコットランドのブラザレン運動において、非常に目立った役割を話した数名の女性がおり、これらの女性たちは、より広い英国のリバイバル派のネットワークの中で、重要な役割を果たしている。Larkhall集会が設立される以前、何人かの女性は1859年のリバイバルの中で、回心し、大勢の人々の前で日曜日の夕方聖書の話をしていた。明らかに、このことは例外的であるが。当時の社会的、そして集会における規範(基準)からの乖離は、いくつかの点から説明された。例外的な時代には、例外的な手段が必要であるとか、ヨエル2章の中で預言され、ペンテコステのときに見られた女性の預言とみられるのと同様であるとか、この働きのために神から明らかに能力を与えられた女性であるとか、リバイバル時期の実際性の典型的な表現として、非常に多くの人々が好奇心をもって、教会堂を埋めているとかなどである。ときには、女性信徒が、学び会で前に立って奉仕することもあり、そのことは、集会での生活の中で、特筆すべき出来事の一つともなった。

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女性信徒の働きの問題は、F.F.Bruceの立場を困難にさせたことの一つですが、歴史的には存在したこと、それが容認されていたことを考えると、ブラザレン派における自派の歴史に関しても歴史的に無知であることが、彼を苦しめた、とも言えそうです。

個人的には、あまり問題ないと思うのですが、極端な場合、男性信徒がいる前では祈れなかったり、いかなることでも全く発言をすることが許されない場合もあるようです。こんな場合は、いきすぎかなぁ、と思います。このように公式の発言が認められなくなると、実は、非公式の方法に頼って公式の問題に影響を及ぼす場合もあるので、この場合、問題は深刻化します。

ここに書いたように、キリスト集会を日本において自称するグループでは、婦人が前で語ったり、ある程度代表となるような場合は、極めて稀ですが、日本のキリスト教界における女性の働きの重要性は、もっと深くそして、正当に評価されるべきなのではないか、ということを思います。

九州におられたD橋姉や、京都におられたK井姉、東京におられた、Riddelsさんやスピッチリさん、京都におられたカーテンさんとトロッタさん等は、極めて重要な働きをされておられたと思います。


さて、これまで集会の責任者の任命に関するブログ記事を書いてきましたが、ここで、少し集会の責任者(いわゆる長老)の移行の問題について、触れたいと思います。

キリスト集会では、日本であれ、イギリスであれ、責任者の長期化は致し方のない現実としてあります。その原因のかなりの部分は、集会の責任者の候補者および「なり手」が少ない、という問題があります。現実的に、仕事をもちながら責任をとるケースが多くなるため、自営業を含め、かなり自由度の高い職種の人か、退職者でないと務まりにくい、という側面があります。現実的に対応できる人に依存する結果、責任者の交代が起きにくく、またその職を務める期間が長期化しやすいですし、長期化すればするほど、その人のところに集会の個々人のこれまでの信仰上の課題などを含めた情報やノウハウが集まるので、さらに余人をもって替え難い、という状況になるのも致し方のない部分としてあります。また、普通の信徒にしてみれば、お世話になっているんだし、という心情が働くので、かなりの不都合があっても、現職の長老に「そろそろご引退を」というのはかなり厳しいと思います。その結果、長期政権化する場合もあるでしょう。すると、長老職を返上するのは、天に召される時という、すなわち地上にさらば、という時か、転勤・転職などで現行の集会を離れざるを得ないとき、という状況はあるのだろうと思います。

しかし、前回のトゥルニエからの引用でもふれたように、それはある面でいうと長老職にある人々の冒険の機会を奪うことにもなるのですが、その面というのはあまり考えられておらず、どちらかというと日本でも、海外でも、何らかの障害(病気等)が出るまで、長老職に留まるということが続くことが多いように思います。もう、おやめになられたら、と思っていても、それを口にできないという雰囲気があるように思います。それ以上に、長老の考えに異論をはさむということが許されない雰囲気というのは、どんなものかと思います。本来、長老職とは、全体を指導するような役割ではなく、信者一人一人が神の思いを受け、生き生きとできる冒険に進めるような環境を整えるのが長老の仕事だと思うんですけど、それは、私がブラザレンの信徒であるがゆえに、ロマンティックな近代という思想に生きているからかもしれません。

ここまで、ブラザレンの長老職の話をしてきましたが、それに関連する文章を見つけたのでご紹介します。

何かの参考になれば、と思います。

トゥルニエ (生の冒険)から
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さて、私たちのせいの展開を記し付ける参加と開放の交代するリズムに戻ろう。参加がなければ、冒険もない。しかし冒険が古びるとき、ただ参加だけが新しい冒険にわたしたちを乗り出させ、自由の感覚を取り戻させてくれる。私はつい最近その経験をした。15年前私は、(中略 他の研究者とともに)人格医学年会を創設した。(中略)さまざまの教派、国籍、専門の医師たちをこのようにしてまじめな対話と、より人間的な医学を共同で追求していくことによってまとめていくことは、私たちにとってすばらしい冒険であった。私たちはこの部ループとまったく一体化していたので、多くの同僚たちは、このグループを「トゥルニエ・不ループ」と呼びはじめた。
 (中略)彼らは、私たち(トゥルニエ夫妻)が率先してやることを期待していたので、私たちが共有のものとして望んでいたこの運動は、あまりに個人的な、あまりに私に依存するものとなってしまった。
 私は始め、表面に出てきた批判―それは私たちが、このグループで優勢的な役割を果たしていることを攻めたものであるが―に猛烈に反発し、私の自由主義で講義した。しかし一人の同僚が、私を助けてその批判からむしろ忠告を受け取るようにさせてくれた。彼の言うには、15歳で、子供は成人になるため、父親から解放されなければならない。私は『ボッセイ・グループ』び父親核であり、妻は母親であった。ただし子供は両親の手を離れ、責任能力を持っていたが。私が新しい冒険に乗り出せるためにも、グループ自身に冒険精神の更新を可能にするためにも私が何らかの形で解放されることが必要であった。(中略)
 私が今言ったことは、(中略)何らかの企てをあきらめるときが来たのを感じてはいるが、それに愛着するあまり、なかなかあきらめ切れない人を励ますことができるだろう。過去の栄光、正確には時代遅れの栄光を裏切らぬよう、生き延びて無為に日を送っているさまざまの出来事のことを考えてみよう。芸術や文学のグループ、あるいは宗教や職業上の団体を創設し、何年も熱心に、また有効に指導に当たってきたが、一番近しい共同者たちもひそかにその人の辞任を望んでできていない、そういう一位bとのことを考えてみよう。
 (中略)彼らを助けてこの困難な放棄を行わせるのは、ここに新しい冒険を見出すことにほかならない。
 この冒険の連続こそ人生の姿、そして意味である。人生はとまることがない。誕生は冒険であり、死も冒険である。青春は冒険であり、中年は別の冒険であり、老年はまた別の冒険である。この時老年になれば必ず次々としていかなければならない放棄はまったく別のものに見えてくる。すなわち衰弱ではなく、新しい冒険によって豊かにされると思えてくるのである。 (pp. 221-224)

Tim GrassのGathering to His Nameの中p.181からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のLeadership and Office(リーダーシップと教会運営)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。

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貧しい人への対応と会計の責任は責任者を置くことの原則における広く認められた例外の一つとされた。これらの優先性と説明責任が求められるがゆえに、信頼するに足るある人物を選び、集会によって任命され、会計と貧しい人々の受け入れの責任にあたらせることが当然と考えられた。このような任命は、霊的な必要性よりも、物質的な必要性のことに関して、任命されることは受け入れられたのである。多くの分離派の教会とは異なり、ブラザレンでは、これらの具体的奉仕に当たる人を執事として、任命することをすぐに辞めてしまった。しかし、事務局長、または、『渉外にあたる兄弟』は集会生活において一般的なものとなり、話し手の依頼などにおける彼の役割の重要性から、一定の影響力を集会に及ぼすものとなった。


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話し手にだれを呼ぶかは、結構、神経を使う問題ですし、日本国内の現在のキリスト集会の中では、巡回伝道者に当たる方々に、あるいは、その集会で責任のある方々にお願いしているところが大半だと思います。このような責任のある方々や、巡回伝道者に相当する方々(勝手に自主的に回る人々ではなく、招聘に応じて巡回する人々)へのアプローチは、基本的にある程度の教会生活の長さと、その語り手の人々との個人的な付き合いの深さ、またその人の考え方を知っていることが求められるので、聖書の特定の個所に特殊な強調をおく人々(典型的には、奇跡、とりわけ癒しや異言[わけのわからない言語で勝手に話し出す行為])を招聘した場合、信者に動揺が起きたりする場合もあるので、それだけ慎重さが求められます。また、招聘に伴っては、謝金も発生しますので、その処理もあるので、一定の明朗さがある方が望まれるのではないか、と思います。

ところで、人数が少ない教会では、会計の責任に当たる事務長と集会全体の役割を見る代表ないしは日本国内では長老と呼ばれることが多い役職に当たる人々が同一人物であることも少なくないと思います。この結果、どうしても、一般信徒が、ものを言いにくい状態が生まれる場合も少なくありません。ある面、集会(教会)といっても、信徒一人一人に大きな影響を与えるのが、霊的な牧会の役割を果たす人々と、物品の購入や献金の管理などを含め、信者の物理的環境を提供する責任を負う人々ですので、人数が多ければ霊的及び教理面での責任者と会計責任者分離、ということは可能ですし、そうしているところが多いようですが、人数が少ないところでは、この分離が進まず、日曜日の活動への参加者の規模が相当大きくても分離が進まない文化が形成される場合もあるかもしれません。この結果、不明朗な会計処理や、支出に関する意思決定の問題が起きかねないことや、そのことに疑問をもったとして、それを口にすることが、長老や責任者への尊敬を損なう行為であると、長老や責任者、あるいは一般のセイントから受け取られかねないことも少なくなく、疑問に思っても、それを口にすることが難しくない場合も少なくありません。その結果、不明朗と言われかねない対応や処理がそのままずるずると続く、という場合も発生することがあるようです。

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