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第4回目(午後の前半の講演)のまとめをしたいと思います。
まず、この記事でお示しする記録は、あくまで、私が当日取得したノートに基づくもので、ここでは、私に聞こえてきた話、ということであり、発話者のご本人の意図とは違う可能性があることをお断りしておきます。そのことを十分お含み置きの上、お読みください。なお、いずれの話者の方には、いろいろお世話になっていることがございまして、まったく個人的な怨恨等は、ありませんし、批判的な部分があるとすれば、お考えそのものについてであり、個人攻撃のようなつもりは、まったくありません。攻撃しているとすれば、記者が不明であることについて、より深い理解に達するために、自己批判や自己攻撃しているだけです。くれぐれも誤解されませんように。 あくまで、ここでは、私に聞こえてきた話、ということであり、発話者のご本人の意図とは違う可能性があることをお断りしておきます。 ここでは、「再臨」と「終末時代の人生の歩み」というテーマでお話がされる、ということでお話を始められた、と思います。最初、ティム・ラヘイのレフト・ビハインドシリーズを説明しながら、大艱難時代(Great tribulation)についての説明を始められました。黙示録19章7節から20章2節から話を始められましたが、千年王国という時代においては、イエスが、神の王国としてイスラエルを支配し、地上がアダムとイブのころのように千年間回復し、死者もほとんどおらず、1000年間人々が生きるとされておられました。これは一つの解釈として尊重しますが、ちょっと、どうなんでしょう。私はこんな風に断言したくはないな、と思ったことだけは記載しておきます。 以下の話は、私はこんな風に断言したくはないな、と思ったことですが、私に聞こえてきた内容の概略を記載しておきます。 黙示録20:4から、イエスの再臨で、イスラエルを通して信じた人々が登場し、そして、そのときには、キリスト者は雲の中に引き上げられ(空中携挙とこの業界では言います)、これが第1の復活であると、ご説明されました。 次に第二の復活として、聖徒を受け入れ、聖徒に良くした人々が集められ、それ以外は地獄に捨てられるという話をされておられました。 さらに、黙示録20:4からは、大艱難時代の聖徒が復活し、すべての生徒が千年王国の中に入るということを説明されました。 次に、ローマ書13:11-14から、時とか、時代のしるし、ということを説明されましたが、時を一定の期間だと説明されておりました。その根拠は、記者にはわかりませんでした。この件に関しては、お話になられた方に直接ご意図をお話しされた週のうちにご質問しておりますが、1週間以上経ちますが、現在のところ、ご回答をいただいておりません。ご回答をいただき次第、その概略をご紹介したいと思います。 しるしとは、イスラエルのことであり、中東の政治的変動のお話がその証拠である、といっておられました。しかし、その根拠は語られることはなく、これは、話しての方の個人的感想なのだろうなぁ、と思いました。 イスラエルの立場が悪くなっている(以前から十分悪いと筆者は思いますが)とか、アメリカが衰退しているとか、ヨーロッパをハッキリと反イスラエルの動きに向かっている、だとかという根拠から、週末が近いのでは、という印象をお話されておられました。(個人的な感想とはいえ、ナチズムの傷を抱えるヨーロッパ全体を指して、そんなことを口にすることは、どうかなぁ、と思いました。個別と全体の区別がついていない居酒屋での議論と似ているような気がすると、私は思いました。) イスラエルが反キリストに仲立ちを求めるようになる、という表現がありました。ここでも、誰と仲立ちをするのかの対象は、語られることがなく、これらの根拠となる聖書の表現を十分ご提示いただけなかったように思います。 また、眠りから覚める時刻、ということから、夜明けのことであるとのご説明もありましたが、これは、本当に一日の始まりで、眠りから覚めなければいけない、ということをお話されておられましたが、その後、突然、東日本大震災が韓国で起きたら、キリスト者が救援活動するだろう、という趣旨のご発言をされておられました。無学な私には、そのお話と目覚めなければならないことが、どう関係するのかは、この方のお話を久しぶりにお聞きするお馬鹿な私にはわかりませんでした。 終末時代の人生の歩みとして、本音で生きて行くキリスト者、求めていく、ということをお話になられていました。本音で生きて行くキリスト者の話として、オズワルド・Jスミスのことや、本音と建前の乖離の話をしておられました。このお話を聞きながら、お話された方と、隅谷さんの『日本の信徒の「神学」』ご主張とはかなり味わいが違うなぁ、という印象を受けました。私に理解力がないだけでしょう。 本音で生きているキリスト者は顔が輝いている、と語っておられました。しかし、この種の理解は、受け手の理解の問題ではないか、印象論で議論するのは、いかがなものか、と思いましたが、これまた、記者の不明の故でしょう。また、これを読み間違うと、きらきら輝いていないように見える人は、キリストと真剣に取り組んでない、ということになると思うんですが、どうなんでしょう、と思いました。また、このような理解は、繁栄の神学の世界への入り口になるのではないか、という印象を持ちました。おそらく、その対応についてもお話があったのだと思いますが、メモには残っていなかったのは、私が聞きそびれたのでしょう。 黙示録3章14-22節から、ラオデキアの教会との関連で、われわれは神を求めいくことが重要、ということを語っておられ、周囲の反対にあうようなことが、神を求めていく、ことがよいかのような例話がされておりました。とはいえ、迫害にあうことすなわち神を求めて行くこととほぼ同等とするようなご主張と聞こえたのは、これまた、私の理解力不足の故の誤解ではないか、と思います。 ところで、証と自己満足の関係が、語られていました。しかし、お話の末尾部分が小さくなったり、突然大きな声になったりするため、お話が非常に聞き取りにくく、何が証で、何が自己満足なのかがわかりにくかったです。 その関連で、金を買え、衣を買え、という表現を下に議論を展開しておられ、信者が、そのいのちを欠けて永遠のいのちを与えようとしているイエスがいるということを忘れていないか、ということを話しておられました。もう少し説明の配列を変えるたり、あるいは他の引用(たとえば、聖書に出てくる真珠のトレーダーの話など)を追加することで、もっと重要なテーマがより深く浮かび上がらせられるのではないか、と思ったのは、私に知識がないためと発想力や理解力が乏しいゆえだと思います。 その後、カンボジアで奉仕する婦人伝道者の話があったが、完全でないものを用いる神の話がなされたようにおもいます。不完全なものを用いること、に関する聖書的な根拠が全く示されておらず、この部分を支える聖書的根拠や、前後との関係が、どのような関係にあるのかは、能力の低い私には、よくわからりませんでした。 戸の外でたたく、という議論を展開しておられましたが、イエスのない教会が増えている、という話をしていておられました。もし、私が同じことを言ったとするならば、私の視点をYHWHの視点とし、自らをYHWHとするのではないか、という印象を私が持っていることになるのでは、と思いました。このように思うのは私の信仰の不足かもしれません。単なる他者批判ではなく、きっと深いことを語っておられたのだとは思いますが、能力のない私には、真意を図ることはできませんでした。 最後に、食事をするということを神の座につく、という論理で語られていました。このお話を聞きながら、食事というのは、それこそ聖餐式につながる話であり、また、エマオの途上で出会った弟子たちともつながる話であり、もっと深く展開できるのではないか、と印象を持ちまたした。 お話になられる方は、どういう関係か、食事をする、ということに関して、インドのマハラジャのものがたりに置き換えて説明されていた。これは、本当に議論を支えるために適切な「ものがたり」だろうか、と思いました。 また、ラオディキアの教会にむけられている神の栄光と報いの大きさの、他の人はどうであれ、自分がどう仕えるのか、が重要というような話をしておられました。このような議論は、どうかなぁ、と思ったのでした。ここでのメタファーは、イエスという幹とつながる自分という枝しか見ておらず、枝と枝との関係性が存在しうる、というコミュニティとしての教会の側面にも触れていただきたかった、と思うし、この話が正しく理解されないと、信徒を(人間的な)奉仕競走に走らせることにならないか、ということを危惧しかけましたが、他の信者さんはしっかりとした見識をお持ちなので、そういうことにはならないのだろうと、反省しました。 このお話をお聞きしながら、黙示録の文字的な並びの順序が時間的な順序だという暗黙の想定をおいて黙示録を解釈しておられるのではないか、ということを感じました。この解釈法の前提は、同じ時期に起きることがないこと、それが必ず表現できること、同じ時期に発生することは、同じ節や場所にかかれてなければならないこととなり、同時並行でおきていることを明白に表現できないことばにより表現することの限界の問題を無視しておられるのではないか、という印象を持ちました。こういうこと思うのは、私が不信仰者であるが故でしょうけれども。まあ、そもそも、新約聖書にしても、旧約聖書にしても、もともと章も振られてなければ節も振られていない文章に、後世の人間が聖霊に導かれてである、ということを仮定して受容したとしても、ある意図をともなって章と節を振っている、ということを無視するのは、どうなんだろう、と思うから、不信仰者のなんだと思いました。 この午後の最後のお話を一言で言うとするならば、おもちゃ箱をひっくり返した、ということを思いました。個々にいくつか楽しそうな、そして、重要そうな素材やテーマを伺わせていただいたのですが、それが全体としてうまく整理されておらず、バラバラに切られ、それも中途半端に処理されていることや、中途半端のまま、次の話題に移っているために、一体何をご主張になりたいのか、さっぱりわからなかったのは、私の能力がないゆえでしょう。 どういう結論に向かって話をしておられるのか、理解力に書く私には、あまりわかりませんでしたので、非常に残念でした。確かに、大きな声を上げて、一生懸命お話されておられましたが、かえって、それが空回りをしていた、というのか、上滑りをしていたような印象をうけました。期待が高かっただけに残念でした。マイクを使っておられたのであれば、あそこまで、ミキサー係を悩ませるような極端な抑揚をつけたお話のされ方をしなくても、よかったのではないかなぁ、という印象を持ちました。 キリスト集会の方々には、伝統的に、ある特殊な旧約聖書の読み込み方をされる方が多いのですが、その典型的なお話をお聞かせいただいたように思います。 最近話題のN.T. WrightのPerfect Stormをメタファーにした講演(英語のみ、字幕なしhttp://vimeo.com/32210791)を聞いた後で、このお話聞いたんでねぇ、かなり残念でした。少なくとも、降誕というか、2000年前の出来事については、このあたりのような話もあったら、もっと興味深かったのに、と思いました。 次回、金曜日には、今回の学び会全体を通しての印象をお話したいと思います。 |
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2012年01月23日
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