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ときどきコメントをくださるLuceさんから今回の終末論の感想についてのご期待のことばを頂戴したので、しばらく終末論についての講演会の概要とそのコメント、ということで書いてみたいと思います。
たぶん、4回にわたっての連載になると思います。 ストーリーのアウトラインとそれについての私の感想は、こんな感じかなぁ、と思います。第1回目の学びのアウトラインと感想(太字部分)は以下のようなものです。 最初は、終末論(正確には、ディスペンセーション主義に基づく終末論)の危険性についてでした。そこで、最初のスピーカーの方がお話になられたのは、子供時代、家にいなくて、家人が消えたかのような状態の時の恐怖、再臨が来たのか、と思ったというようなお話から始まりました。私は、どうってことないんですが、早朝に出勤する時なんか、誰にも言わずに家を出るので、時々うちの奥さんは、まさか再臨か、といまだに思う、というくらい、1970年代から1985年ごろまでにキリスト集会関係者とその家族となった方には、その恐怖感が刷り込まれているということで・・・。 確かに、あの時代をキリスト集会と呼ばれる集団で過ごした子供たちは、同じような刷り込みを経験しているとは思います。それは不幸な状況だったように思います。ところで、日本のキリスト集会では、終末論に関しては、ディスペンセーション主義に基づくこの手の終末論しかない、といっていいほどこの説が主流のように思います。この説に立たない方は、進んでこの説以外の説でお話になることが少ないので、これが提示されないのは、仕方のないことでしょう。終末について、と言いながらも、すべての終末論を包括した視点がないのは、仕方がないことかもしれません。終末について語る、というテーマであれば、やはり、ほかの可能性を含めて、この辺りのこれまでのさまざまな聖書理解の整理がまずはあったほうがよかったかなぁ、と思います。 そのかたは、二つ危険性を上げておられたのですが、一つは、日常生活や信仰生活がいい加減になること、終末が来ないんでないか、ということで、日常生活中心になり、信仰がいい加減になる、という危険性を指摘しておられました。 でも、危険性とは、この方が指摘されたものだけではないように思います。特定の終末論的なものの見方で、聖書を読むことで、聖書全体の読み方を歪めてしまう、特定の読み方でしか聖書を読めなくなってしまう、という危険性は触れておられなかったですね。私はそっちのほうが、非常に問題が大きいと思うのですが。 初臨と再臨について、次に触れていました。 へブル人への手紙9章から 天にあるものを清めた、という記述をもとに、天という問題についての解説をしておられたのですが、そのために、二つの「こられた」ハネマオー(覆いを取り去る)とオプタモー(神の主体的な神であることの啓示・開示)の違いによる比較をして、律法は罪を先送りにする、ということを説明したうえで、初臨の目的は罪を取り除くためであり、再臨は、待ち望んでいる人々に救いを与えるため、と説明していた。救いの定義を神の顔を見る、という定義で語っておられた。 救いの定義に関しては、完全に同意。ちょうど、今、自分の集会で語っていることとほぼ同じ。ただ、罪を拭い去ることに関しての説明は、少し疑問。というのは、Sin Removerとしてのイエスということになりはしないか、と思うからです。この辺りは、ここを参照。http://voiceofwind.jugem.jp/?day=20111214 さらに、ルカ4章でイザヤ書からイエスが語ったシーンで、初臨と再臨をイエスが切り分けている、という主張をしておられたが、ここを根拠に、神の祝福としての初臨、神の裁きとしての再臨をわけてかたっておられた。このはなしをききながら、これは、どうかなぁ、この部分からだけを根拠にするのは、すこしいいすぎじゃないかなぁ、と思いました。もっと、旧新約聖書の「ものがたり」というのは、私にとっては連続的というか、もっと一体化しているように思います。N.T.WrightやRob Bell S. McKnightを読んでいるせいかもしれませんが。 天の御座についての理解 エゼキエル書2章やI歴代誌28勝から、神の御座と幕屋のパラレル関係にあるとの解釈から、天使論をもちいながら、天の御座の構造に関する解説をしておられた。この部分は、かなり想像というか類推による比定が含まれているように感じた。非常に限られた範囲の聖書の個所をもとに、やや危うさを持ちながら、積み上げられた議論のように思ったのは事実でございます。 さらに、足台、という言葉の解釈が『ちーと』違うのではないか、と思った。足台、というのは、土台あるいは基礎、礎という理解のほうが個人的にはしっくりくるんだけどなぁ、と思いました。キリストが礎となられた、という意味から理解するほうがいいのではないか、と思ったりもしました。けがれや悪魔をかかとで踏み砕く、というような表現についても触れておられたが、むしろ、個人的には、モーセが燃える芝のところで足の履物を脱げ、と言われたことも考えると面白いのではないか、と思ったりはしました。神とあったという意味では。 アダムが善悪の知識の実を食べたことで、天と地が分離した、という表現をしておられた。しかし、これも個人的にはどうか、と思った。分離、ということの意味がよく定義されていないのではないか、分離を強調することで、どうしても二元論的なものの見方となる傾向がみられやすく、少し論理が危ういかなぁ、と思いました。本来的には、連続体で理解するほうがよく、距離が遠くなった、という感覚でとらえるほうがよいのに、と思ったりもしました。 第1テモテ3:16から、御座と御使いとの関係を解説しようとされた。これもまた、かなり議論としては厳しい構造かなぁ、と思った。その根拠を詳細に説明せずに、ご自分の理解だけを述べておられるように思いました。時間がない、というのはその通りなのですが、どうせなら、語る内容を絞って、もう少し丁寧に説明があったほうがよかったかなぁ、と思いました。 このあたりから、天の構造や父の御座に関しての理解を、断片的な聖書の記述を集めて、さまざまなことを説明しようとしておられた。内容が多いからか、あまりにも断片的になっているよなぁ、整理されて体系的に提供されたとはいえなかったなぁ、と思ったし、何を説明されようとしておられるのか、その論旨の展開の筋があまりはっきりしていないような印象を持った。聴き手のわたしの能力の問題もあるのだろうけれども。 特に神の栄光の移動、というようなことを話しておられた。これもまた、この部分も説明不足という感じがしました。というよりは、ある考えに従って、聖書の部分を集めようとしてパズルを完成させるかのように、ある形にはめようとされているかのような印象を受けたのは、事実です。 特に後半の部分は、前半に比べ、説得力に欠くように思ったのは、私の気のせいだろうとは思います。時間の関係もあるのだとは思うが、説明の構成が少し粗いかなぁ、と思った。ややこしい部分だけに、もう少し丁寧な説明がいるように思ったんですが、皆さんはおわかりだったのでしょう。 まぁ、今回の企画、そもそも時間がないところに内容盛りだくさん過ぎたと思います。そのため、焦点が拡散し結局正確な釈義に基づく体系的な展開、ということにはなっておらず、混乱しただけになってなければ、いいけど。特に30代以下の参加者の方々。と思いました。正直な感想ですけど。 しかし、この方の午後のセッションで、こんど、私の集会が後援するANRの会でご講演されるヤンキー牧師こと、水谷先生のブログの悪魔からの卒業証書が取り上げられたのには、びっくりした。UgoUgo君が吹き込んだのかな? |
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今日は、関西地方で開催される新春合同学び会、と呼ばれる講演会に出席してきました。
ブラザレンらしく、再臨についての理解に関するお話(これはごく初期のカンファレンスでの主要なテーマであった) 1月に開かれているのは、スコットランドでは、1月1日に開かれた伝統を由緒正しく守っているからかもしれませんね。 まぁ、今日のお話のお二人のお話のうち、おひとりは、なるほど、と思わされる部分がいくつもありましたが、もう一人の方は、時間がなかったこともあるのでしょうが、少し残念なお話だったように思います。たぶん、時間がなくて、絞り込めなかったのが原因かなぁ、と思います。お一人の方のお話には、完全に同意できない部分はあるものの、共感できる部分は多かったですが、もう一人の方のは、どうも語りつくせずに終わって、ご本人が一番残念だったのでは・・・、という感じでした。 しかし、お話しされた中のお一人が、筆者とも関係の深い小さないのちを守る会のブログの記事を最後のまとめに使っていたのは印象的でした。 ところで、小さないのちを守る会のブログ記事を語った方の内容の一部は、おそらく、上沼昌雄さんの 闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神から着想の一部を受けているように思うし、その一部は、ヘンリー・ナウエンの
ナウエンと読む福音書の第1章 God's way のDescending with Jesusから着想の一部を受けているように思った。ちなみに、筆者が主宰している明石ナウエン研究会では、昨年の年末に、ここを読んだので、印象深かった。明石ナウエン研究会は、どなたでも参加していただけます。阪神間からは遠いですが・・・・。
上沼先生の本にしても、ナウエンにしても、この辺り、私の関心分野と重なるので、小さないのちを守る会のブログを引用された方のお話は、私にとっては大変興味深かったです。ということで、今日も一日長かった。
皆さんは、どんな一日だったでしょうかねぇ。
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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.178からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のLeadership and Office(リーダーシップと教会運営)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。 --------------------------------------------------- 19世紀のイギリスの社会では、リーダーシップをとることは公的な役割を果たす機会ととらえる伝統がみられた。ある程度のブラザレンの指導者においては、このような考え方の反映がみられる。Coadによれば、19世紀後半において、指導者層の交代があり、元聖職者や貴族から、ビジネスの世界からの人物(変換者註 ジェントルマン層)、成功したビジネスマンや豊かな農民に交代している、とされている。彼らは、彼らが得た利益で建物を提供したり、巡回する伝道者を支援したり、その集会に信者の世話をする人としてとどまるように勧めることもあった。このような(一人の人物の貢献)の欠点は、一人の物事への取り扱いのコントロールが非常に密接であるために、集会の発展を妨げることになりかねない点である。 --------------------------------------------------- このリーダーシップをとることが公的な役割を果たす機会としてとらえられているビクトリア時代の伝統というか常識、ということに関しては、シャーロック・ホームズシリーズの3人の学生にも出てきます。社会のリーダーとなるべき大学生が、試験のカンニングをするというストーリーなのですが、いい就職先が卒業できれば約束されていたにもかかわらず、カンニングという不正行為を恥じて、インドかパキスタンに軍人だか、警察官になっていく、という結末を迎えるというお話だったように記憶しています。 そういえば、シャーロックホームズの話には、名門であるが身代を持ち崩してピーピー言っている没落貴族やスキャンダルに巻き込まれた貴族の話がやたらと出てきますが、ちょうどビクトリア朝時代というのは貴族階級の凋落を迎えた時代の転換点だったのかもしれません。Miss PotterというPeter Rabbitの作家の半生を描いた映画もこの時代の雰囲気を醸し出しています。 ビクトリア朝を境にして、従前の貴族階級が没落し、新興貴族階級ともいうべき紳士階層の社会での役割が大きくなるにつれて、集会の指導者層も、大幅に転換することになったように思います。 日本では、開拓伝道で集会の原型を構築した人や、伝道者、設立に力のあった人の影響力が非常に強いというのも、この英国の伝統を引き継いでいるのかもしれません。本当は、キリストの体である教会って、そんなものでいいのかなぁ、と思います。また、これが悪く働くと、影響力が大きくなるのを避けるために、せっかくの奉仕ができるにもかかわらず、それを自主的な形式をとりながらも他律的に、あるいは他律的に抑止される場合もあり、そういうのは、どんなものかなぁ、とも個人的には思います。 それから、みなさん、新年明けましておめでとうございます。今年も、お付き合いいただけたら、と思います。 |



