|
ここまで、ブラザレンの長老職の話をしてきましたが、それに関連する文章を見つけたのでご紹介します。
何かの参考になれば、と思います。
トゥルニエ (生の冒険)から
--------------------------------------------------------------
さて、私たちのせいの展開を記し付ける参加と開放の交代するリズムに戻ろう。参加がなければ、冒険もない。しかし冒険が古びるとき、ただ参加だけが新しい冒険にわたしたちを乗り出させ、自由の感覚を取り戻させてくれる。私はつい最近その経験をした。15年前私は、(中略 他の研究者とともに)人格医学年会を創設した。(中略)さまざまの教派、国籍、専門の医師たちをこのようにしてまじめな対話と、より人間的な医学を共同で追求していくことによってまとめていくことは、私たちにとってすばらしい冒険であった。私たちはこの部ループとまったく一体化していたので、多くの同僚たちは、このグループを「トゥルニエ・不ループ」と呼びはじめた。
(中略)彼らは、私たち(トゥルニエ夫妻)が率先してやることを期待していたので、私たちが共有のものとして望んでいたこの運動は、あまりに個人的な、あまりに私に依存するものとなってしまった。
私は始め、表面に出てきた批判―それは私たちが、このグループで優勢的な役割を果たしていることを攻めたものであるが―に猛烈に反発し、私の自由主義で講義した。しかし一人の同僚が、私を助けてその批判からむしろ忠告を受け取るようにさせてくれた。彼の言うには、15歳で、子供は成人になるため、父親から解放されなければならない。私は『ボッセイ・グループ』び父親核であり、妻は母親であった。ただし子供は両親の手を離れ、責任能力を持っていたが。私が新しい冒険に乗り出せるためにも、グループ自身に冒険精神の更新を可能にするためにも私が何らかの形で解放されることが必要であった。(中略)
私が今言ったことは、(中略)何らかの企てをあきらめるときが来たのを感じてはいるが、それに愛着するあまり、なかなかあきらめ切れない人を励ますことができるだろう。過去の栄光、正確には時代遅れの栄光を裏切らぬよう、生き延びて無為に日を送っているさまざまの出来事のことを考えてみよう。芸術や文学のグループ、あるいは宗教や職業上の団体を創設し、何年も熱心に、また有効に指導に当たってきたが、一番近しい共同者たちもひそかにその人の辞任を望んでできていない、そういう一位bとのことを考えてみよう。
(中略)彼らを助けてこの困難な放棄を行わせるのは、ここに新しい冒険を見出すことにほかならない。
この冒険の連続こそ人生の姿、そして意味である。人生はとまることがない。誕生は冒険であり、死も冒険である。青春は冒険であり、中年は別の冒険であり、老年はまた別の冒険である。この時老年になれば必ず次々としていかなければならない放棄はまったく別のものに見えてくる。すなわち衰弱ではなく、新しい冒険によって豊かにされると思えてくるのである。 (pp. 221-224) |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年02月17日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]





