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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.180からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のLeadership and Office(リーダーシップと教会運営)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。
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クレイクとミューラーの牧会上の働きに多く負っているブリストルのベテスダ集会ですら、公式の責任者を認識し、特定の人物を任用するという原則ではなくなっている。1860年代には、教会(集会)全体の働きのために、外部からの人々をクレイクとミューラーは招いており、20人くらいからなる毎週の会議を開催し、会衆から選ばれた執事を置いていた。1870年代末には、Bedminsterのグループが自立することを求め、ベテスダの指導者層はこれをフルタイムの牧会者(牧師)を置くことという条件のもとで認めた。しかし、1900年代には、ベテスダは、公式の役割を置くことに否定的なExclusive (Brethren)の背景をもつ何人か信徒の影響を受けはじめた。この段階では、豊かな才能ある人々もいたが、1917年にはその才能ある人々に不足することを嘆くことになる。
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こうやって書かれたものを見ていると、ミューラーやクレイクがいた当時のベテスダ集会は、牧師制度に否定的ではなく、むしろ肯定的であったことがわかります。しかし、ダービーはの考え方に影響を受けた人たちが増え、その影響力が強くなるについれ、牧師制度などや教会の制度的な運営機構に対しても否定的になったようです。Grassは明白には書いていませんが、才能ある人々(賜物ある人々)が不足することを嘆くことになる、という表現で、これらの神からの才能が与えられた人々が集会から脱出するということを暗に示しているようです。
その意味で、1850-60年代、ミューラーやクレイクが活躍したベテスダ集会からも、1920年代には、その豊かな土壌が失われていったようですが、これと同じようなことが、日本のブラザレン運動では発生していないとご主張になられることが、キリスト集会で起きないように、聖書と集会の負の部分を含めた歴史から(残った人たちだけを研究する歴史ではなく)、きちんと学ばれて、よくお考えになられるように、そして、本来、多くの信者がキリストの体として集まることを目指していたのに、いつの間にかそのことを捨てて排他的になっていったこと、そのことが起きないように祈りをもって多くの集会が運営されることを私は願うばかりでございます。
この前、関西のある若い方とお話ししたときに、この方も元集会におられた方、あの方も元集会におられた方、とお話したら、大変びっくりしておられました。逃げた魚は、むちゃくちゃ大物だったりするのでねぇ。
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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.180からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のLeadership and Office(リーダーシップと教会運営)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。
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地域に根差した人々が、リーダーシップを担うことが最も頻繁であったが、その集会に属する人々と同じ社会階層の人々から長老が選ばれることが、かなり頻繁にみられた。多くの、というよりほとんどの、集会では、公式に選ばれた長老というのはなく、ちょうどダービーがそう信じていたように、最初の使徒の死亡以来、教会内のだれしもがその使徒職にふさわしいものではないとされていた。以前にも示した通り、ダービーの教会観では使徒職とその権能はもはや存在せず、神から与えられてもいないとされた。したがって、教会(集会)は、その中にあって会衆の全体に目くばりできるような才能が与えられた人(集会用語では、賜物を与えられた人 Gifted)を見分けるべきであり、その人に従うべきだとした。このような非公式な認定は様々な形態を生み出した。ある場合には、男性信徒全体で運営する場合もあったし、ほかの場合には、複数の教会(集会)にまたがるものもあった。また、ほかには、このような配慮ができる人(牧師)を招へいする場合もあった。
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前回 書き忘れたことを少し。
このリーダーシップをとることが公的な役割を果たす機会としてとらえられているビクトリア時代の伝統というか常識、ということに関しては、シャーロック・ホームズシリーズの3人の学生にも出てきます。社会のリーダーとなるべき大学生が、試験のカンニングをするというストーリーなのですが、いい就職先が卒業できれば約束されていたにもかかわらず、カンニングという不正行為を恥じて、インドかパキスタンに軍人だか、警察官になっていく、という結末を迎えるというお話だったように記憶しています。
そういえば、シャーロックホームズの話には、名門であるが身代を持ち崩してピーピー言っている没落貴族やスキャンダルに巻き込まれた貴族の話がやたらと出てきますが、ちょうどビクトリア朝時代というのは貴族階級の凋落を迎えた時代の転換点だったのかもしれません。Miss Potterというピーターラビットの原作者の絵本作家の半生を描いた映画もこの時代の雰囲気を醸し出しています。
ビクトリア朝を境にして、従前の貴族階級が没落し、新興貴族階級ともいうべき紳士階層の社会での役割が大きくなるにつれて、集会の指導者層も、大幅に転換することになったように思います。
さて、ここからは、今回の記事に関してです。
日本では、比較的歴史が浅い教会がほとんどなので、開拓伝道で集会の原型を構築した人や、伝道者、設立に力のあった人の影響力が非常に強いように思います。また、設立した人たちの影響が強いというのも、この英国の伝統を引き継いでいるのかもしれません。本当は、キリストの体である教会って、そんなものでいいのかなぁ、と思います。また、これが悪く働くと、影響力が大きくなるのを避けるために、せっかくの奉仕ができるにもかかわらず、それを自主的にあるいは他律的に抑止される場合もあり、そういうのは、どんなものかなぁ、とも個人的には思います。
また、日本では、規模にもよりますが、開拓伝道の場合は、ある一人の信者が全体の運営にあたり、それが安定してきた後、全体に規模が小さい場合は、男性信徒が全体で集まりながら運営にあたり、さらに多くなると、一人が全体を見渡すのではなく、複数の責任者(いわゆる長老)が協議しながら意思決定のスピードと運営を確保するというスタイルに移行するように思います。
基本、日本の集会にはダービーの教会論そのものや、その影響、そのこだまがいまだに集会内に影響しており、公式に代表者を決めないところが多いようですが、これで一番困るのが、宗教法人や社団法人など、財産保護(死亡に伴う相続税対策)のために法人格を取得する場合で、代表者がなかなか決まらない、とか、代表者選出の方法が宗教法人法が想定している民主主義的な政体論に合致しないなどの問題があり、対応に苦慮するところが少なくないようです。
改革長老派やフレンド派のような、段階を経た合議的民主主義的な運営方法などをとらないのが、キリスト集会を自称する人々の特徴であり、それゆえにゲリラ的な活動ができてしまう、また、そうならざるを得ないという側面もあるように思います。それが教会観関係に微妙な影響を与えていると思います。
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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.178からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のLeadership and Office(リーダーシップと教会運営)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。
--------------------------------------------------- 19世紀のイギリスの社会では、リーダーシップをとることは公的な役割を果たす機会ととらえる伝統がみられた。ある程度のブラザレンの指導者においては、このような考え方の反映がみられる。Coadによれば、19世紀後半において、指導者層の交代があり、元聖職者や貴族から、ビジネスの世界からの人物(変換者註 ジェントルマン層)、成功したビジネスマンや豊かな農民に交代している、とされている。彼らは、彼らが得た利益で建物を提供したり、巡回する伝道者を支援したり、その集会に信者の世話をする人としてとどまるように勧めることもあった。このような(一人の人物の貢献)の欠点は、一人の物事への取り扱いのコントロールが非常に密接であるために、集会の発展を妨げることになりかねない点である。 --------------------------------------------------- 確かに、キリスト集会では、指導者は長老が長期にわたってリーダーシップをとることによる弊害が多いように思います。実際に、人気もなく、昔いまし今いましそして、常におられる方、という長老も時々おられるので、どうしても、時代からずれていても、責任者をいさめることが難しい状況も生まれることの問題を指摘しているように思いますが、この問題は、そのあたりのことは今後のキリスト集会にとって、十分に考えていくことが必要かもしれません。 |





