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中村敏さんの 日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。 ----------------------------------------------------------- 1919(大正9)年3月1日、朝鮮人はこうした過酷な植民地支配に抗して、ついに立ちあがった。この運動は多方面の朝鮮人民による独立運動であったが、その中核はキリスト教会であった。事実、同区立宣言に署名した過半数はキリスト者であった。そのため総督府が徹底した弾圧に乗り出して行ったとき、その矛先は当然ながらキリスト教会に向けられた。 乗松は、この3・1独立運動の勃発直前の2月中旬から3月下旬まで、運動の最も激しかった形状と水原の間を往来していた。3月6日付の彼の書簡に、次のような言葉が書きされている。 李大王殿下の穀倉前後に、朝鮮人の中に不穏葬場のことなければよいがとは、だれしも思いしようであったが、1日に大漢門前、そのほかのところにて、独立万歳などと叫び、不謹慎の軽挙妄動をなす群れありて官憲のほうに手も心を労し、鎮撫に従事せられし状態ゆえ。 (中略) こうした乗松の見かたはやはり植民地支配をしている日本人の側に立ったものといえ、総督府の鎮圧による多くの朝鮮人の死傷や彼が長年いた水原で起きた虐殺事件についての言及は全くない。 (中略) いかに朝鮮民衆の中に入り込み、そのために尽くしてきても、やはり当時の日本人としての限界は免れなかった。過酷な総督府の植民地支配や日本人の差別構造に対する洞察を欠き、同情を示しつつもこの運動を不穏な暴動としか見ることができなかったのである。どんなにその民族の懐近くまで入っていたように見えても、ぎりぎりのところで外国人としての限界があらわされたと言える。 同書 p21-P22 ----------------------------------------------------------- とかかれていますが、乗松が否定的な視線を向けたのは、喪失というか喪の中でのこのような行動についての忌避感が、軽挙妄動と騒擾に対する否定的な視点ではないか、と思うのです。ブラザレンは、聖書理解や教会運営の点では、従来の枠組みを全く無視した行動をとり、その点では、非常にラディカルなのですが、社会秩序については、異様に保守的という二面性を持ちます。なぜ、このような二面性を持つのか、について自己反省的にとらえようとしているのですが、いまだにまともな答えが出てきません。 おそらく、この集団が社会秩序を重視する時代であった、英国ビクトリア朝時代に生まれたことと関係があるのだと思います。非常に社会的秩序というか、国家とか、国民統合の象徴を異様に大事にする時代背景があったものと思います。その国家なり、国民なりの理解は、ここで中村さんがご指摘なさるように制限的なものであったにせよ。実際、この時期で有名な作品として知られているコナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズに出てくるシャーロック・ホームズという人物は、アヘンは吸うわ、まともな社会生活をしない自由人として描かれていますが、ビクトリア女王に対する崇拝だけは異常で、壁の壁面にリボルバーでVの字を描いているシーンが描かれたりしています。また、この時期の児童文学作品で有名なドリトル先生シリーズでも、女王陛下に関する尊敬、あるいは崇敬は、現代人には理解しかねるものがあります。 とはいえ、アニメ版のMr.Beanでも同様で、結構むちゃくちゃなことをしでかすMr.Beanも女王の肖像の入ったマグカップを異様に大事にしたりするあたりのことを見せています。ただ、実写版のMr.Beanでは、チャールズ皇太子の写真を首のところで切り取るようなきわどいことをして見せたりしているので、このあたりが実に微妙ですが。チャールズは、もともと、イギリス人にも人気のない人物なので、このあたりの反感が、このような映像化につながっているかもしれませんが。 さて、ブラザレン派での、あるいは、同心会の進行における権威性への重視は、ブラントさんやそのほかのイギリス系伝道者や宣教師がもっていたイギリス人の精神性が分離せずに、伝わったとも考えることができるかもしれません。国教会系(日本では聖公会系)でみられるイギリス皇室への尊敬が、日本の皇室への尊敬や、韓国国王家への尊敬に移り変わりつつ、日本のブラザレン派や、キリスト集会へ継承されたのかなぁ、とも思います。 この後、中村さんの本では、乗松死後の動きなどが触れられているのですが、それは同書をお読みいただくことにお任せし、それ以外のブラザレン派と中村さんが分類された方々の動きを、同書から拾っていきたいと思っています。 |
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中村敏さんの 日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。 ----------------------------------------------------------- 1909(明治42)年9月、朝鮮人信徒の捧げ物によって、水原に新しい集会所が与えられた。土地は1朝鮮人信徒がささげ、必要な金銭、物資、労働力のすべても朝鮮の信徒が捧げて完成した。この集会所を拠点として大きな集会がしばしば開かれた。1912年の報告では、水原で400人近い参加者による大集会が開かれた。そしてこの集会のときに49人が洗礼を受けた。洗礼は夕方から始まり、終わったのが真夜中の12時過ぎであった。 同書 p20 ----------------------------------------------------------- 乗松さんが韓国に乗り込んだのが、1896年ですから12年ちょっとで、ここまで大きくなったということは、非常に驚くべきことだと思います。1回で50人弱の洗礼、というのも、すごいと思います。 ところで、集会所の建物を朝鮮半島の信者の総力を挙げて、という側面はあったにせよ自力で立上げていったというのは非常に印象深いです。日本のキリスト集会でも、そういうところは少なくないとは思いますが、外国からの支援を受けて作られた集会の会堂もある程度はあるように思います。 日本では会堂をどう維持するのか、ということをぼちぼち考えないといけないところが出始めているようです。こういう記事を見るにつけ、会堂と会衆、礼拝ということをどう考えるのか、ということを考えさせられてしまいます。 |
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中村敏さんの 日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。 ----------------------------------------------------------- しかしながら、乗松一家の経済的困窮は実に厳しい者であった。プリマス・ブレズレンは、職業的な教職制度を認めない。しかし信徒の中から、一般の職業を捨てて伝道に専心する伝道者が次々と起こされていった。「おしもべさん」と呼ばれた彼らの生活は、独立自給が原則であったが、他の信徒が自発的にささげる定期の「お交わり金」も支えとなっていた。四人の幼い子供を抱えた乗松家は常に貧乏のどん底にあり、その日の食べ物に事欠くこともしばしばであった。おからで飢えをしのぐこともあった。1904年、妻の常子は4人の子供を残して召天するが、その死は貧困と無関係でなかったといわれる。常子との結婚生活は9年という短いものであったが、彼女は貧しい生活の中で4人の子供を育て、夫によく仕えた。常子の召天は、朝鮮伝道のための尊い犠牲と言えよう。 同書 p.19 ----------------------------------------------------------- 中村さんがご指摘の通り、わがキリスト者集団(同信会そのものでなくても、過去に交流のあった経緯から基本、プリマス・ブレズレン、ないしはプリマス・ブラザレンだとするほうが、私は適切だと思いますが。事実、横やりに近い形で、三浦さんのときにはその所属に関して交流がありましたが)、職業的な教職制度を認めてはいないものの、現在では退職された方、退職されるまじかな方を含め、職業的な教職制度ではないものの、ほぼ専属的に教会(集会)のことをご対応しておられる、教職に実態的に近い方々も最近は増えてきています。定年まじかな方々が教職としての役割を担ってきている背景には、1960年代ごろに一気に信者が増え、その方々が退職期を迎えてきていること、従来、多くを依存してきていた外国人宣教師の方が、ほとんどおられなくなったこと、これらが現在のような状況を生み出している原因と思われます。 群馬県下で信望を集めているご高齢の信者さん、1950年ごろからすでにご活躍であった信者さんの1960年ごろの生活も、ここに書かれた乗松さんと同様であったですし、石浜さんが神戸に移られてすぐの1950年から1960年ころ前までの生活状況も、ほぼ同様であったと思われます。奥様が和服を売りながら生活費をねん出しておられたようですから。お子さんたちもお父さんに相談しようにも、お父さんは伝道で、日本各地を移動中で、いつ帰ってくるかわからない。トンボとりに行った子供のようなところがあったようです。 乗松さんや奥様は、どう思われていたのかはよく分かりませんが、尊い犠牲、で片づけられないようなものがあるように思います。とくにお子さんたちにとっては。 |
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中村敏さんの 日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。 ----------------------------------------------------------- 1898年6月には、すでに紹介したブランド夫妻が乗松に合流しその伝道を大いに助けた。翌年に乗松は一時帰国し、同じ群れに属する佐藤恒子と結婚した。1900年の夏、乗松一家は京城から郊外の水原に移った。それ以降二回短期間日本に帰国した以外は、1914年に帰国するまでここを根拠として伝道した。1903年、日本から同心会の二人の友が彼の家を訪問し、感動しつつ次のように報告した。 『衣服も、食器も、住宅もことごとく朝鮮式であるのみならず、そのころ4,5歳の由信さんが、朝鮮後の他には語らざるをみて、乗松兄は愛するお子さんに朝鮮語のみを教え、日本語を教えなさらぬを知りておどろけり。これ乗松兄が朝鮮伝道の祝されたる理由の一つと思えり。 宣教師の子女の教育は母国語で行うというのが近代の海外伝道の原則である。しかも当時の日本人と朝鮮人との関係を考えると、乗松のしたことは日本人の常識では考えられないことであった。こうして、風法や物腰まで朝鮮人のようになっていった。彼があるとき日本語を話していた時、彼を朝鮮人だと思っていた人が驚いて、「あなたはどこで日本語を勉強したのですか」と彼に聞いたほどであった。 同書 pp.18−19 ----------------------------------------------------------- こういうのを見ていると、乗松さんの伝道方法が半端でないことが分かります。子女教育まで現地語でした、ということにこの乗松さんの本気度を見るというのか、退路を切った伝道方法というのか、日本人による朝鮮半島のキリスト教伝道の橋頭保であろうとした姿を見ることができるように思います。 上陸作戦をする時、後方からの支援が全く期待できない橋頭保を確保する部隊は、猛烈な攻撃を正面から受けることの覚悟を要する一種の決死隊(D-day作戦などが典型的)でもあり、このためには、敵前上陸作戦に特化した海兵隊があるのですが、まさしくその役割を果たしたと言えると思います。完全に自国の文化を捨て去った同化を目指していたことは、驚くばかりの方針ではないか、と思います。まるで、サバイバルナイフ一本で切り開いていこうとするランボーのような、と思ってしまいました。 この話を読みながら、先日の東日本大震災時のある海外からの宣教者ご家族の対応を思い出してしまいました。そのご家族は、家族で軽井沢にお住まいなのですが、その出身国の大使館から帰国指示が出たにもかかわらず、日本人にはどこにもほかに行くところがないのに、自分たちが安全な自国にたとえ帰国できたとしても、その人たちを置き去りにして帰ることはできない、とお考えになってお残りになられた、という姿を重ねて思い出してしまいました。 まぁ、帰国指示が出ても、帰らなかったのは、このご家族だけではありませんが、こういう雰囲気の方が多いことについて、日本のキリスト集会関係者は、もう少し思いを巡らせたほうがよいかなぁ、と思います。 |
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中村敏さんの 日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。 ----------------------------------------------------------- 乗松が文字通り徒手空拳で朝鮮に渡ったのは、この閔妃殺害事件の起きた翌年の1896年12月であった。朝鮮上陸以来彼がぶつかった障害は、言葉の壁、文化・習慣の違い、経済的困難等いろいろあった。しかし最大の障害は、彼が日本人であったことである。 乗松は京城に家を借り、まず朝鮮語の学びから始めた。翌年3月の彼の手紙によれば、いくらか朝鮮語を話せるようになり、早速街頭に出て朝鮮の人々に福音を伝えた。彼が目指したのは、在留日本人ではなくひたすら朝鮮人に福音をつたえることであった。乗松の伝道は早くも実を結び、1897年の11月には京城に群れができ、「主のテーブルが開かれた」のであった。 同書p.18 ----------------------------------------------------------- 同書によれば、日清戦争時に日本陸軍が朝鮮での戦闘を行う中で、教会をあらしたりする被害があったようであり、その中でも帝国陸軍人を含む日本人暴徒が李朝宮廷に乱入し、閔妃を殺戮し、日本の支配制度が確立していくという状況の中に、乗松は単身乗り込んで行ったということは、無謀といえば無謀ですが、それだけ、伝道したいという思いがあったのかもしれません。朝鮮半島での日本政府の実効支配が確立したのが、1910年ですけれども、その前から反植民地状態に置かれており、日本人に対する抵抗意識や反感が非常に強い中で、まともに朝鮮語が話せない状態でも、伝道していった乗松がおります。 これは、ブランドのみならず日本に来た英国系宣教師も同じで、ほとんどまともに日本語会話ができない中で、伝道していき、戦争中にも英国に帰らず、スパイ容疑をかけられて獄中死したヒューイットさんも、基本乗松と同じノリだったと思います。乗松は現地化を目指し、それに成功していますが、ヒューイットさん自身は、日本滞在期間が短いために、現地化できていないまま、殉教に近い形で亡くなることになります。 |




