ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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中村敏さんの


日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで

が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。

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乗松が文字通り徒手空拳で朝鮮に渡ったのは、この閔妃殺害事件の起きた翌年の1896年12月であった。朝鮮上陸以来彼がぶつかった障害は、言葉の壁、文化・習慣の違い、経済的困難等いろいろあった。しかし最大の障害は、彼が日本人であったことである。

乗松は京城に家を借り、まず朝鮮語の学びから始めた。翌年3月の彼の手紙によれば、いくらか朝鮮語を話せるようになり、早速街頭に出て朝鮮の人々に福音を伝えた。彼が目指したのは、在留日本人ではなくひたすら朝鮮人に福音をつたえることであった。乗松の伝道は早くも実を結び、1897年の11月には京城に群れができ、「主のテーブルが開かれた」のであった。
同書p.18
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同書によれば、日清戦争時に日本陸軍が朝鮮での戦闘を行う中で、教会をあらしたりする被害があったようであり、その中でも帝国陸軍人を含む日本人暴徒が李朝宮廷に乱入し、閔妃を殺戮し、日本の支配制度が確立していくという状況の中に、乗松は単身乗り込んで行ったということは、無謀といえば無謀ですが、それだけ、伝道したいという思いがあったのかもしれません。朝鮮半島での日本政府の実効支配が確立したのが、1910年ですけれども、その前から反植民地状態に置かれており、日本人に対する抵抗意識や反感が非常に強い中で、まともに朝鮮語が話せない状態でも、伝道していった乗松がおります。

これは、ブランドのみならず日本に来た英国系宣教師も同じで、ほとんどまともに日本語会話ができない中で、伝道していき、戦争中にも英国に帰らず、スパイ容疑をかけられて獄中死したヒューイットさんも、基本乗松と同じノリだったと思います。乗松は現地化を目指し、それに成功していますが、ヒューイットさん自身は、日本滞在期間が短いために、現地化できていないまま、殉教に近い形で亡くなることになります。

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