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中村敏さんの 日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。 ----------------------------------------------------------- 1898年6月には、すでに紹介したブランド夫妻が乗松に合流しその伝道を大いに助けた。翌年に乗松は一時帰国し、同じ群れに属する佐藤恒子と結婚した。1900年の夏、乗松一家は京城から郊外の水原に移った。それ以降二回短期間日本に帰国した以外は、1914年に帰国するまでここを根拠として伝道した。1903年、日本から同心会の二人の友が彼の家を訪問し、感動しつつ次のように報告した。 『衣服も、食器も、住宅もことごとく朝鮮式であるのみならず、そのころ4,5歳の由信さんが、朝鮮後の他には語らざるをみて、乗松兄は愛するお子さんに朝鮮語のみを教え、日本語を教えなさらぬを知りておどろけり。これ乗松兄が朝鮮伝道の祝されたる理由の一つと思えり。 宣教師の子女の教育は母国語で行うというのが近代の海外伝道の原則である。しかも当時の日本人と朝鮮人との関係を考えると、乗松のしたことは日本人の常識では考えられないことであった。こうして、風法や物腰まで朝鮮人のようになっていった。彼があるとき日本語を話していた時、彼を朝鮮人だと思っていた人が驚いて、「あなたはどこで日本語を勉強したのですか」と彼に聞いたほどであった。 同書 pp.18−19 ----------------------------------------------------------- こういうのを見ていると、乗松さんの伝道方法が半端でないことが分かります。子女教育まで現地語でした、ということにこの乗松さんの本気度を見るというのか、退路を切った伝道方法というのか、日本人による朝鮮半島のキリスト教伝道の橋頭保であろうとした姿を見ることができるように思います。 上陸作戦をする時、後方からの支援が全く期待できない橋頭保を確保する部隊は、猛烈な攻撃を正面から受けることの覚悟を要する一種の決死隊(D-day作戦などが典型的)でもあり、このためには、敵前上陸作戦に特化した海兵隊があるのですが、まさしくその役割を果たしたと言えると思います。完全に自国の文化を捨て去った同化を目指していたことは、驚くばかりの方針ではないか、と思います。まるで、サバイバルナイフ一本で切り開いていこうとするランボーのような、と思ってしまいました。 この話を読みながら、先日の東日本大震災時のある海外からの宣教者ご家族の対応を思い出してしまいました。そのご家族は、家族で軽井沢にお住まいなのですが、その出身国の大使館から帰国指示が出たにもかかわらず、日本人にはどこにもほかに行くところがないのに、自分たちが安全な自国にたとえ帰国できたとしても、その人たちを置き去りにして帰ることはできない、とお考えになってお残りになられた、という姿を重ねて思い出してしまいました。 まぁ、帰国指示が出ても、帰らなかったのは、このご家族だけではありませんが、こういう雰囲気の方が多いことについて、日本のキリスト集会関係者は、もう少し思いを巡らせたほうがよいかなぁ、と思います。 |
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2012年04月16日
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