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中村敏さんの 日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。 ----------------------------------------------------------- しかしながら、乗松一家の経済的困窮は実に厳しい者であった。プリマス・ブレズレンは、職業的な教職制度を認めない。しかし信徒の中から、一般の職業を捨てて伝道に専心する伝道者が次々と起こされていった。「おしもべさん」と呼ばれた彼らの生活は、独立自給が原則であったが、他の信徒が自発的にささげる定期の「お交わり金」も支えとなっていた。四人の幼い子供を抱えた乗松家は常に貧乏のどん底にあり、その日の食べ物に事欠くこともしばしばであった。おからで飢えをしのぐこともあった。1904年、妻の常子は4人の子供を残して召天するが、その死は貧困と無関係でなかったといわれる。常子との結婚生活は9年という短いものであったが、彼女は貧しい生活の中で4人の子供を育て、夫によく仕えた。常子の召天は、朝鮮伝道のための尊い犠牲と言えよう。 同書 p.19 ----------------------------------------------------------- 中村さんがご指摘の通り、わがキリスト者集団(同信会そのものでなくても、過去に交流のあった経緯から基本、プリマス・ブレズレン、ないしはプリマス・ブラザレンだとするほうが、私は適切だと思いますが。事実、横やりに近い形で、三浦さんのときにはその所属に関して交流がありましたが)、職業的な教職制度を認めてはいないものの、現在では退職された方、退職されるまじかな方を含め、職業的な教職制度ではないものの、ほぼ専属的に教会(集会)のことをご対応しておられる、教職に実態的に近い方々も最近は増えてきています。定年まじかな方々が教職としての役割を担ってきている背景には、1960年代ごろに一気に信者が増え、その方々が退職期を迎えてきていること、従来、多くを依存してきていた外国人宣教師の方が、ほとんどおられなくなったこと、これらが現在のような状況を生み出している原因と思われます。 群馬県下で信望を集めているご高齢の信者さん、1950年ごろからすでにご活躍であった信者さんの1960年ごろの生活も、ここに書かれた乗松さんと同様であったですし、石浜さんが神戸に移られてすぐの1950年から1960年ころ前までの生活状況も、ほぼ同様であったと思われます。奥様が和服を売りながら生活費をねん出しておられたようですから。お子さんたちもお父さんに相談しようにも、お父さんは伝道で、日本各地を移動中で、いつ帰ってくるかわからない。トンボとりに行った子供のようなところがあったようです。 乗松さんや奥様は、どう思われていたのかはよく分かりませんが、尊い犠牲、で片づけられないようなものがあるように思います。とくにお子さんたちにとっては。 |
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2012年04月20日
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