ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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まとめ(2)

ブレーキとしての神学
なお、ある関西の私より若いある信徒さんに

「○○さん、僕は、神学はブレーキやと思てんねん。アクセルやのうて。自分らが行き過ぎそうになった時にそれを止めるブレーキやと思てんねん。神学を学んだところで、伝道する内容はそうは変わらへん。でも、自分らの聖書理解の故の行き過ぎや暴走は、神学を学ぶこと、そして、神学的に考えることで止めることができるんちゃうやろか。(大意)」

というお話をしたことがある。この考えは変わっていない。

 過去の神学的思惟、「神学」というのは、それまでの神学的思惟ないし神学ががまずいがゆえに、その神学の一種の行き過ぎに対して「自分はこう思う」という聖書理解と聖書理解に基づく疑義として出来上がってきたものではないか、と思っている。

 ところで、本来ブレーキであるものを、アクセルとして利用すると、ろくなことが起こらない。その代表例が、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」ではなかろうか、と思う。この書簡の作成では、自分たちの聖書理解(神学)をアクセルとして使ったような気がしている。神学あるいは自分たちの聖書理解をアクセルとしていたのは、彼らだけではない。キリスト集会も自分たちの聖書理解をアクセルにしていた部分があるように思う。

イメージ 1
ペースを落としましょう の交通標識



行きすぎた理性的信仰への反動としての
キリスト集会独自の神学
 キリスト集会もそうであるように思うのだ。そもそも、集会の終末理解やディスペンセイション神学は集会が成立した前後の数十年間にみられた当時の行き過ぎたユニテリアン的(人間中心型の理性重視型)聖書理解や、理性的聖書理解、合理的に理解可能な部分だけを切り出して受け止めるような聖書理解や、聖書批評学などへの反動として起きたように思うのだ。つまり行き過ぎた理性主義的な聖書理解を否定しようとしたブレーキをかけようとして、ブレーキを必死になって踏んで、行き過ぎを止めようとした結果、ディスペンセイション的な聖書理解が生まれたのではないか、と思うのだ。

ブレーキであることが忘れられた神学
 当初ディスペンセイショナルな聖書理解(神学)を主張した人々は、それがブレーキであることを知っていた、と思われる。しかし、世代が変わっていくうちに、それを次第にアクセルとして使うようになる。つまり、前々回ご紹介したアウグスティヌス先生の「性交渉を経由して罪は次の世代に引き継がれる」が「罪とは性交渉のことである」となってしまったと同じようなことが起きたと思うのだ。

 「このままいくと地獄行きだから、はやく、イエス様信じなさい」と。

 そしてそのための素材として、終末理解やディスペンセイション主義が使われ、それが、聖書と同等の位置を占め、聖書そのものの理解をまとめたもののようにしてお話ししてしまう人々もいないわけではなかったろう。それはまずいと思うから、キリスト集会の一員の弁証家の一人として、「それ、まずくないですかねぇ」って申し上げているだけである。

聖書を読むこと、即ち、神学的行為
 そして、個人としては、聖書はバランスよく読むそして、丁寧に読むことが必要だと思っている。あなたの聖書を閉じて、聖書の横側、聖書のページをめくる部分を見てほしい。特定の場所が手垢で黒くなっていたり、金箔がはがれていないだろうか、そうなっていたら少し注意が必要かもしれない。

 こんな風に聖書の特定の部分だけが手あかで黒くなっていたりするのは、あなたが、そこを中心に読んでいるからである。あるいは、聖書の特定の部分だけがちょっと波打ちながら、外にはみ出てないだろうか。それは、もうちょっと危険である。そこだけをかなり集中的に読むと聖書はそうなる。それは、聖書を片寄って読んでいることに他ならなないのだ。こういう読みをすると、基礎が弱い聖書理解になるような気がする。

 まぁ、新改訳聖書は、装丁が弱いので、何度もそこを開くと、その部分だけアンコが飛び出したようになりやすいが。そこは翻訳と同じくらい改良してほしい、とはおもっている。

未来も大事だけど、過去も大事

 集会の方の一部には、非常に過去への理解が薄く、現在と未来に関する理解にかんして、極めて理解が深い方々がおられる。この場合、足腰が細くて、腕と胸と頭だけが異様に発達しておられるのではないか、と思われるような方々も一部におられる。キリスト集会の過去にもキリスト教の過去にも興味がなく、キリスト集会の現在とキリスト集会の未来だけの理解が非常に深い方々である。

 それって、バランスが悪いようにも思うのだ。そう思う私の方がバランス悪いのだろうけど。

 我々の聖書理解は、東方教会の聖書理解、カトリックの聖書理解、ルター派、カルヴァン派、アナバプテスト派、ウェスレー派など様々な広いキリスト教の体の影響を受けて作り出され、つむぎ続けられている、建てあげられ続けているような聖書理解の存在、というその側面を忘れてはならないと思うし、そこは尊重しないといけないのではないか、と思うのだ。三位一体は、キリスト集会の発明ではなく、東方教会、カトリック教会が成立していく背景の中で結晶化した過去の遺産であることを我々は見つめたほうがよいのではないだろうか。

聖書をじっくりゆっくり落ち着いて読むこと
 聖書を読むというときに、聖書の速読競争に走ってないだろうか。一語一語の意味をじっくりと思いめぐらしながら、かみしめながら読んでいるだろうか。それをしてないのであれば、あなたは聖書を十分読んでいるといえるだろうか。それをしてないのであれば、とりあえず「はんこ」を押すためだけに紙をまくっているのとあまりかわらないのであり、ナンセンスではないかなぁ、と思う。

 まぁ、5年たっても、10年たっても新品同様の同じ聖書をお持ちの方は、違う意味で問題をお持ちでないか、と思う。最近は、キンドルで読む人が増えているので、紙版聖書も、キンドル版聖書も新品同様のままかもしれないが。

 最近は、アプリで聖書を読んでいることも多い。だって、重いんだもん。

次回、最終回まとめ3 へ

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