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聖書理解の多様性について
ある面、現在のあるキリスト集会にある程度同じような人々が集まっていることはしょうがないと思うけれども、しかし、集会の構成メンバーの諸属性と、集会のありようそのものに多様性があまり尊重されないのは、個人として、少し困った問題だと思っている。 世の中が多様な人々から構成されるように、キリスト集会も多様な人々から構成されているといいなぁ、多様な考えを持つ人々から構成されているといいなぁ、と思う。逆に、同一集会内で同一の考えでなければならない、同一の考えを共有せねばならない、という同一性のトラップにとどまらないほうがいいなぁ、と思っている。そして、異なった雰囲気をもつキリスト集会同士がお付き合いできないこと、多様な教会群とキリスト集会がフランクにお付き合いできたりすることが妨げられたり、交流が妨げられるのは、かなわないなぁ、と思っている。 一致と同一は同じではないのでは? 個人的には、一致と同一であることは違うと思うし、真理や美しさの表現の仕方は人それぞれ違うのだ。より具体的には、真理に関して数学者ないし工学者は連立微分方程式として頭に描くであろうし、画家は2次元画像として頭に描くだろう。そして彫刻家は3次元画像として、計算機屋は、レイトレーシング型ソフトを使ったCG画像で表現するだろう。水墨画家は白黒のグレースケールで、そして、短歌作家は短歌で、小説家は文章表現で、そして俳句作家は臭くとして表現するだろう。同じものを見手、それが美しいと思ったとしても。 多様であることの意味 ところで、生物学的には、多様性がないと、外部からのショックが来た時にショックを吸収でききれないことが多いからである。そして、一気に全滅の道を走るからである。私が別の方向に向いているのも、個人的には、キリスト集会の精神を残すためだと思っている。それは理解されない方が多いでしょうけど。それはしょうがないと思っている。 人それぞれが別の方向から一つのものを見ている、それこそが多様性を喜ぶということではないか、と思うのだ。神ご自身は創造の御業を終えられ、実に多様な生物の住む姿をご覧になられ、「美しい」とおっしゃられた。そして、ノアの洪水の時も、多様な動物を残すべく、一見役に立たない私のようなどう考えても役に立ちそうもない動物ですら箱船の中、すなわち神の支配の中に入れられたのだと、思っている。無用の用というか、多様性の豊かさを喜ばれる神、ということは考えたほうがよいかもしれない。 神に代わって人間が判断することの恐ろしさ その意味で、「あの人が救われているのではないか」とか、「この人々は救われていないのではないか」とか、救いがはっきりしていないのではないか、というような発言はその言葉を向けようとしておられる方々に対して、失礼千万であるばかりか、それは自分自身を神の座に引き上げていることになるのではないか、と思う。わからないことは、無理にわかろうとせず、そこは、天においても、地においても神の御思いがなりますように、と祈ることが重要ではないだろうか。 伝道とは何か 最期に、伝道とは何か?ということを考えたい。伝道とは、自分が生きている間に自分がいるキリスト集会の信者として受け入れることだけだろうか。個人的にはそうではないと思う。キリスト集会でイエスを知り、バプテスト派の教会で洗礼を受ける人、キリスト集会でイエスを知り洗礼を受け、メソジスト派の教会人として生きる人、そして、キリスト集会の日曜学校で讃美歌をうたって、何十年か後にカトリック教会の信徒になる人、すべて、キリストというお方が、宣言あるいは伝道された結果である。 伝道を自分のところに来る信者の増加と近視眼的に直結させて考えてないだろうか。 新改訳聖書 第3版 ヨハネ福音書 ここで、蒔く人と刈るものは一つであり、共に喜ぶことになることが書かれてないだろうか。我々は神にあって一つだとパウロさんもいっておられるのではないだろうか。キリスト集会には、他のキリスト者がまいた種の結果として、神の民になった人が信者として加わっておられるだけかもしれない。 幅ひろいキリストのからだと生きる その点で、自分たちを中心に考えたり、自分たちを正統的で唯一の真理の保有者と思うのではなく、幅ひろいキリストの体とのキリストという中心に目を向けながら相互のかかわりと関連を大事にすべきではないだろうか。 ナウエンというオランダ生まれのカトリックの司祭で、米国を中心とした所謂リベラル派から、がちがちの福音派の人々の間で非常に高い作家がおられる。ナウエンはその作品の「いまここに生きる」(あめんどう刊)中で、次のように言っている。 このような車輪は、人生をその中心から生きることの大切さを理解させてくれます。外輪に沿ってたどっていくと、スポークには一本づつした触れることができませんが、中心の車軸にいれば、すべてのスポークに同時に触れることができます。 祈るとは、あらゆるいのちとすべての愛の中心に向かうことです。祈ることでいのちの中心に近づけば近づくほど、力と活力を受け取ることの全ての近づきます。(中略)私の注意をいのちの中心部に向けるようにすれば、中心にとどまりながら、人生の豊かな多様性に触れることができます。 木製のワゴンの車輪 名著 いま、ここに生きる 神の前に心を静まり、祈り、そして、神とともに生きる人々ともに生きること、ちょうど古いワゴンの車輪が、木製のスポークだけでも、車輪のリム部分の一部だけでも存在しないように、我々は他の車輪のリムやスポークを必要とするのではないだろうか。そして、神の車輪を構成しているのかもしれない。さらにいえば何より、神というお方、イエスというお方が動いておられないように見えたとしても、着実に神ご自身の意図をもって存在しつつ、神に心を向ける祈りをもって、他のキリストの車軸を尊敬しながら生きたいと思っている。 そして、上の引用の中で思うのは、我々は、ともすれば聖書の話だけを一生懸命語ることを伝道と呼んでいないか、という反省である。”もっとも観想的なこと(訳注・沈黙の中に神の臨在を求めること)は最も活動的である””神にあっては、あらゆる活動と休息は一つなのです。祈りもまた同じです。”という部分を読みながら、伝道とは、感想的なことの側面が大きいのではないか、祈るあるいは神の御思いを求めること、神の御思いがなることを求めることを、望むことではないかと思っている。 結びにかえて まぁ、この連載で、自分のキリスト教徒としての歩みをざっと振り返ってみたが、まぁ、いろいろあったし、面白いことも、、悲しいことも、楽しいことも、苦しいこともあったが、その中で、インマヌエル、神我等と共にあり、と命名された方がともにおられたことの一端を体験できた人生であったと思う。24時間時計で、現在午後3時頃を迎えていく中で、そして、闇に向かっていく準備をする中で、こういう機会はある面でありがたかったかもしれない。この機会を作ってくれた、敬愛してやまない年下の畏友NT氏にこころから感謝の意を表したい。 しかし、このブログも、休眠中であったが、この記事の連載以来、アクセス数が増えている。どうも、御要望があるようなので、ブラザレン関係の記事も、あまりハイペースでなく公開していきたいとは想っている。 こちらのブログともう一つのブログは、研究書や専門書を出版しにくいし、信徒が買いにくい現状において、個人的な研究成果の公開と社会への還元(最近、東京にある某役所がこれでうるさい)の一環としてやっている。現代のテント集会であるし、野外学び会(のら学び会)としてやっている。 キリスト者ならこんな個人研究に現をぬかさず、信徒でない方向けの福音を語るべし、という向きもあろうが、そんなサイトはごまんとあるし、そちらの方がよいことが多いので、特段私が書いたところで社会的貢献にもならないし、社会に還元したことにならないと思っているから、途中からやめた。 さて、本日で最後になるこの連載記事も、キリスト集会の人よりも、案外とキリスト集会以外の方が結構読まれておられたようである。読んでいただいた方にこころからの御礼を申し上げ、このシリーズはいったん休筆とし、暫時、観想の時を持ちたい。 おしまい |
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2015年03月18日
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