|
自分の位置を定めるために遠くのものが必要では?
私にとっての広いネットワークが急速に広がったのは、FacebookやTwitterを使いだしてからである。特に、キリスト者の幅広いネットワークを持つ方々とFacebookでお付き合いするうちに、かなり情報が集まってきた。それを後は、地図のように空間(2次元ないし3次元 これくらいが、人間の理解の範囲)に配置し直し、その地図の精度がどれほどであるかを検討する作業をしないといけないかなぁ、と思っている。 位置特定と地図表記の精度 地図には、相対的な位置関係の正確性と絶対的な位置関係の二つの正確性の概念がある。相対的な位置関係の精度は、大阪は、名古屋より西の方に配置されないという位置関係の相対性や、日本は、アメリカから、相対的に西方に配置されていなければならないという相対的な関係性である。もう一つ、絶対的な位置関係の精度は、大阪は、東京から、XXX㎞西方にあり、方向は**度の方向に配置されなければならない、という正確性である。 現在は測量でも、GPS測量という方法がとられることが一般的で、GPSデータを使って、調査した一店の位置を高精度で定めることができる。もっと制度を求めようと思ったら、より遠方にある電波星からの電波を使って求めることができる。測定は大変だが、精度は非常に高い(細かなことを言うとジオイド高とかというのもあるのだが、これはまぁ、いいだろう)。より遠方にある(つまりかなり自分からはかけ離れたもの)を使って測定する方が、より近くにある(より自分と似たもの)ものを使うより、より高精度に相対位置にしても絶対位置にしても特定可能なのである。 遠望も大事かも 近くばかり見ていると、違いの区別ができにくくなる(細部にこだわりすぎる)ため、いったん遠く離れてバランスをとった方が、正確な画面構成が取れるのと同じである。これが、なぜ私が、同じキリスト教でもより遠く離れたグループと思われている方々の著作やお考えを拝聴する理由である。 つまり自分の所在地を、これらの方々の位置を参考にしながら、自分の位置は大体このあたりか、というのを定めているのである。自分を中心に相手の位置関係を定めるのではなく、相手を基準に自分の位置関係を定めている、といった方がよいであろうか。丁度、関東平野で迷子になったら、富士山なり、筑波山なり、榛名山なりの目立つ山を使いながら、太陽の位置とこれらの山の関係をつかんで、移動すれば目的地に着く(カーナビがない時代に運転を覚えたので、今でもこれで不自由はしない)のと同じである。 自分の位置を他者とのかかわりでとらえる まぁ、現在最新の研究の一環として、Open Linked Dataというところで使われた図か方法(リンク数とリンクとがつながりかたを用いて分類する)などの方法もあるので、そのうち自分のリンクとかでやってみようかなぁと思っている。 Linked Dataのマッピングの例 混乱が生じた時には 筑波山の中で彷徨しはじめたときには、筑波山そのものを基準にしたら迷うのである。いくら、平野の中の単峰といっても。筑波山で迷ったら、どこかの尾根に出て、筑波山以外の確認しやすいもの、たとえば霞ケ浦か、少し離れた大きな町(たとえば下妻とか石岡とか)を探して、位置を特定しないと、迷ったままである。全員が全員、遠望する必要はないが、集会のリーダーの方は、集会の人々(登山で言うところのパーティ)を率いるリーダーとして迷わさないためにも、時に遠望する必要があるのではないかと思っている。 関東平野にそびえる筑波山 なお、余談であるが、東京駅の少し東側にある日本橋で、北方向に向かう道路は、この筑波山を向いており、西方向に向かう道路の先には富士山がある。したがって、日本橋付近で、旧水戸街道と旧東海道は直線ではなく屈折する形で一本の道路してつながっている。 つまり、それは、自己とかけ離れた聖書理解(あえて神学といおう)を理解することで、自分たちがどっち向いては知るべきかを間違わないためにも、そして、自分たちの立ち位置がどこにあるのか、ということをある程度正確に知るという意味でも。その意味で、人が作ったものかもしれないが、神学ということ、あるいはより広い「キリストのからだ」の持つ聖書理解の多様性への理解が必要なのだと個人的には思っている。 ただ、全員が同じようにする必要もないと思っている。なぜならば、パウロさんもエペソ書でこう書いているからである。 4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 神学、あるいは聖書理解なしの キリスト者は存在するか? そして、これが、集会に関する成り行き上の弁証家(accidental Apologist たまたま他者に自己や自己の聖書理解の特徴を説明しようとする立場に置かれたもの)の一人として、開かれているキリストのからだ、即ち、多様なキリスト教を持つ様々な教派教団、グループや個人から形成されるキリスト教界に向かって、自己を相手の方がたにわかりやすい形で説明するための必要悪として、他者の聖書理解(神学)を学ぶ意味があるのではないか、とこの20年余り(特にこの5年)の経験を通して思っている。なお、聖書を読むこと、キリスト教徒として生きることは、個人的には神学の一部を形成していると思う。その意味で、神学なしのキリスト者とは、聖書理解なしのキリスト者、あるいは聖書を読まないキリスト者であり、それをキリスト者といえるかどうか、ということは考えたほうがよいかもしれない。 他者に説明する、すなわち、 他者に伝道するために キリスト集会の人々は伝道熱心な人々である。それは非常によい美点だと思っている。そして、いうなれば、伝道熱心であるということは、他者に対して弁証家であることを求められるのだと思っている。つまり、他者の言葉を理解したうえで、他者に理解可能な形で、他者に心を開いて説明する、語る、伝道することが重要なのだと思っている。 つまり、対話者の信仰上の立場を踏まえ、相手の方が理解可能な形で、聖書の重要性と聖書の主張を丁寧にそしてより正確に語るためにも、仏教研究者の方や、仏教者の方、神道研究家の方々、ムスリムの方々、現代政治史や思想史の研究者の方々などの書かれたものを読むことや、こういう異分野の方との尊敬をもっての交流やその人たちとの対話の技術をつけていくこと、すなわち学ぶということ、知恵と知識を蓄えることは無意味でないと自己弁証をしておこう。 ここで新改訳聖書第3版 Ⅰコリント 14章から以下の部分を引用しておきたい。 14:9 それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。 もちろん、他者へと、開かれた手を差し向けることは、厳しい。他者が何を手を開いて迎え入れる人に対するか、その他者の動きの予想や予測が困難だからである。しかし、恐れる必要がないのではないか、と思っている。傷つけられることを恐れずに、他者に向けて開かれた手を出していくこと、一方的な言いっぱなし型の伝道ではなく、他者に向かって他者が理解可能な形で対話をしていくことに、霊的な視線を向けていっていただきたいと思う。なぜなら、復活のイエスはその開かれた手を弟子たちに示すことで、御自身を豊かに弁証されているように思うのだ。そして、開かれた手でハンセン氏病者をいやし、開かれた心で、律法学者と対話しておられるのではないかなぁ、と思っている。閉じた手のゲンコツを向けるのではなく。 新改訳聖書第3版 ヨハネの福音書ある面、一方的に自分たちの主張を言い募ることは、現代における異言なのかもしれない。なぜならば、相手が理解不可能だ、ということでは異言と似ているかもしれない。それを相手が理解可能な形にいいかえること、それが解き明かしであり、弁証であるという意味において、我々は自分たちの理解を解き明かすこと、すなわち弁証家であることが求められているのではないか、と思う。 あと2回続きます。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2015年03月16日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]





