|
Wee as a Student in a University
大学生として茨城の山の中で まぁ、そうこうするうちに大学受験期となり、生徒会関連の実績を勲章代わりに、面接で猛アピールし、推薦試験を使って茨城の山(林)の中の大学に潜入することになったのであった。 大学に潜入できたことはありがたかったが、今度は、電車で行ける範囲に集会というものがない(後日、自転車で行けなくはない範囲にもともと吉祥寺キリスト集会の方がされていた集会があることが判明する。何度かはお伺いした)。当時は茨城県には常磐高速の様な気の利いたものはまったくなく、東京に簡単に出会られる千葉県がうらやましく見えたものである。 下館集会に通ってた そこで、県内でも栃木県境に近い県西の最大都市下館の集会に通うことになる。しかし、山の中の大学からは、30キロ以上ある。そうすると、通うのが問題である。神様というのは実に味のあることをなされるお方で、Fさんが現農研機構にお勤めであったので、Fさんご一家と、下館までご一緒させてもらったり、群馬から来られていて、現在筑波大学にお勤めのHさんに同乗させていったりしてもらいながら、いろいろお世話になっていた。 また、在学中は、下館の専心伝道者のK様ご夫妻やO家の皆様、I家の皆様、S様、U様、のご一家の皆様には、一方ならぬお世話をいただいた。この場をお借りして、こころより御礼申し上げます。 思い返してみると、この茨城の山の中の学校時代に下館までご一緒に移動手段をありがたくご提供いだいたFさんとHさんが現在の私のキリスト教研究の出発点の形成に大きく影響しているような気もする。特に年齢が近いということもあり、Hさんにはいろいろご教示いただいたことが多かった。Hさんからは、KGKもどきの聖書研究会(津村先生が関係しておられた模様)にも誘われたのだが、学業最優先(工学部系だったので)でまぁ、一応4年間は学業中心ですごしたが、この茨城県の山の中の大学は、津村俊夫先生がお勤めであった学校であったためか、やたらと、聖書関係の本が図書館にそろっていたのである。 大学生時代、大学の図書館で出会った衝撃的な本 なかでも、一番衝撃的だったのは、F.F.Bruceの本とこの山の中の大学の図書館で大学2年生の時に出会ったことである。その衝撃はいまだに忘れられない。「なぜ、この人は、聖書をここまで丹念に読むのだ、いや、読めるのだ?」と正直思った。自分がきいてきた聖書理解、自分が語ってきた聖書理解の彼我の差に鳥肌になる、あるいは血が泡立つのを感じたのだ。この本の中のギリシア語はわからなかったが、この本のすごさだけはわかった。この時はまだ、F.F.Bruceが集会の人であることなどは知る由もない。なぜ、知る由もないか?って。そりゃ、勉強不足だからである。 ところで、その山の中の大学は、結構のんきな所というのか、アメリカの学校風であったので、他の学部の講義を聞きに行ってもよかった。古典ギリシア語などの授業を3年生の時にとりに行ったが、途中で挫折して、試験は結局受けずじまい。まぁ、当時は、古典ギリシア語よりは、Fortran77 やら、JCL やら Basic TSPやSPSS、SAS などのプログラミング言語や統計解析言語の習得に忙しかった。 書籍で言うと衝撃を受けた忘れられない本は、J.I.Packerの「神について Knowing the God」の翻訳本である。神を「知る」ことの奥深さをこの本で学んだ。これも、当時図書館にあったと思うので、図書館で借りて読んだと思う。あまりに良かったので、結局奉職して間もなくして、自分で買った記憶がある。 思い出深い非常勤の先生方 なお、当時この学校には、実に愉快な非常勤講師の先生方がおられた。後に筑波大学教授になられる池田裕先生は、私が確か2年次のころから古代オリエント史を非常勤講師として講義を担当されていた。また法政大学教授の湯川禎一郎先生が哲学入門の非常勤講師として来ておられ、パスカルを中心に講義してくださった。人文学、哲学、西洋古典学の基礎知識はこの大学の基礎教育課程の科目をかなり好き勝手に履修させてもらえていたことに依拠している。また、こういう非常勤の面白い先生方に出会えたこと、さらには、大学、大学院時代の研究対象が都市であったことから、日本史、西洋史、東洋史をはじめとする幅広い研究分野がかかわっていることも現在のさまざまな側面から考えたくなる習慣にも影響していると思う。 大学院に進んでから ところで私が大学卒業し大学院に進んだころは、ちょうどバブルの真最中、1987年である。同時期に卒業した同期生が、就職翌年に年収1000万円に達するとか達しないとか、目の前を10億円単位の小切手が右から左に流れるのを見たとか、いっていた。時はちょうど、就職予定者が逃げ出さないように、ハワイ旅行に会社が新入社員予定者を連れて行った時代である。 彼らが、人買い(リクルーター)として後輩に職業をあっせんに来た時には、彼らに学食の昼飯位をおごってもらった経験がある。当時は、日本育英会の奨学金月額5万円前後で、指導教員の先生方から頼まれたアルバイト(論文の入力、組版作業、論文の英文の下訳)やら、地形図にメッシュをペンで引く作業やら、その上に公示地価のポイントを落とす作業やら、TAとしてレポートの採点などをしながら、暮らしていたのである。なお、10年ほど前に、日本育英会からは、返済の必要がなくなった旨のご連絡をいただいた。奨学金は貸与いただいたが、特例を利用して返済は全くしていない。 逃避として大学図書館で神学書を 大学院時代には、世俗の論文を書き始めることになる。また、この論文を書くために、連立方程式体系やら、連立微分方程式体系を使った立地モデルみたいな頭がおかしくなりそうな論文を書いていたもので(今は、もうこういう分野にはついていけないが、このころは、こういうことが学会でも流行っていたので、その流行には一応乗った)。飽きっぽい、という私個人の性質もあるのだが、そのストレス発散というか、気分転換というか、逃避として、図書館にこもってはキリスト教書を片っ端から読み始めたのものこの時期である。その意味で、この茨城の山の中にある大学図書館には本当にお世話になった。この図書館には聖書図書刊行会の本、ヨセフスのユダヤ戦記、ユダヤ古代史などがなぜかそろっていたので(まぁ、津村俊夫先生がお買いになったものだと思うが)、勉強させてもらえた。大学のころには、津村先生の謦咳に触れることはついぞなかったが、津村先生がその大学で奉職しておられた恩恵をば十分以上に享受できたと思う。先日、長野で念願の津村先生に直接お会いできて、非常に感激しつつも、在職時に貴重な図書をそろえてくださったことに関しては、直接御礼を申し上げることができた。 バブルだったので、お仕事にありつけました そんなこんなで勉強しているよりは逃避していることが多かったので、半年遅れで修士論文のようなものを書いて、中途退学と同時に修士号を拝受した。今では、もうちょっと頑張って博士論文を買いときゃよかったと思っている。ちょうどそのころは、バブルの余韻がまだ続くころで、今みたいに大学にOD(Over Doctor博士号をとったけど就職先がなくて大学院にいるみなさん)がいなかったころなので、まともでない私でも出身地の大学での教職にありつけた。ありがたい限りである。今では、到底無理だと思う。 オウム真理教登場と自分の教理の比較 また、この大学院の時期には、当時オウム真理教がその奇矯な行動からテレビ的な面白さもあり、テレビに度々登場してご発言するのが流れることになった。1987年ごろから、オウム真理教が言う言葉の中に一種のキリスト教的な終末思想の断片が流れ始めて、彼らが終末を畏れて石垣島でセミナーをしてみたりしていることが報道されてきた。そして、そうこうするうちに、信徒さんの中からハルマゲドンという言葉が漏れ始めた。「ん?ハルマゲドン」どっかで聞いた言葉なぁ、と思っていたら、「世界の破滅」だの、「世界救済」とか「人類救済計画」とか言い出した。これを聞きながら、「仏教的でなくキリスト教的だなぁ」と思っていた。なお、これが宇野正美氏の影響だとは、約25年後の2014年に確証を得ることになる。ただ同時、「ハルマゲドン」とか、「世界救済計画」とか言い出した段階で、自分自身が高校生頃に通ったものと同じだ、と直感的に思ったのである。 オウムの話を聞きながら、これってひょっとして、 「麻原尊師」を「イエス・キリスト」に、 「救済」ないし「ポア」を「救い」に、 「瞑想」を「聖書」に 「修行」を「奉仕」に 変更すれば、まさに自分が福音としてあるいは聖書理解として語っていたものと、構造がそっくりになることのではないか、となんとなくぼぉ〜〜〜と思っていた。その予感は、およそ25年後、確証される。彼らがキリスト教を換骨奪胎してオウム真理教の教義の一部、ヴァジラヤーナの教理とし、キリスト教と仏教を習合させた特殊な教義を形成していたことを、地下鉄サリン事件から20年後に知る。 そして、カルト研究の入門書的関連資料を1989年ごろから集め始めた。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]




