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阪神大震災
しかし、人生というのは不思議なものである。第1子が生まれ1年ほどたったころに、阪神大震災に巻き込まれる。親族に生命の被害があったわけではないし、また、住宅など家財がなくなったわけではないが、自分の眼前で大震災に苦しむ人々を見せつけられた(神様から見せられた、のだと思っている)のである。 この震災の中での人々の苦しみを目前にし、連立方程式をガシガシ解き、モデルをいくら精緻化したところで、人の営みでもある商業集積などは地震で一瞬にして吹き飛んでしまうし、連立方程式体系は全くの無力であった。この分野の研究は、好きではあったが学問的には行き詰まりを感じていて論文が書けない時期が数年続いた。そこに地震が到来である。まぁ、煮詰まっていたのもあって、地震を機に、これ幸いと、この種の理論モデルの研究をきれいさっぱりやめてしまった。理論研究家としての言い知れぬ無力感に襲われたのである。そして、このまま研究を続けていいのか?という疑念が生まれた。 地理情報学への転身 ところで、1990年以前から、興味があったコンピュータサイエンス分野に地理情報学というのがあった。平たく言ってしまうと、定量的なデータを地図化するためのコンピュータアプリケーションの世界である。1990年ころに実用化されていたが、その頃は、UNIX上でしか動かないような代物で、何かさせようと思うと、コマンドラインでプログラムを書くような代物であった。 しかし、Windows3.1の登場で、Windows環境下で動く地理情報ソフトウェアが登場していたこと、さらにWindows95でグラフィカルインターフェースとOSの基本性能が少し向上し、Windows95のOSで動く地理情報システムが発売され始めていたところであった。 そこに地震である。いまここで、飢え、苦しみ、渇きを持つ人々を助けられる、あるいは、今は無理でも将来災害が発生した時にそのような人々をわずかばかりでも助けられるとすればこれではないか、と素直に思った。こういう経緯から、学問上は、こちらに相当注力し、実際にシステム開発やデータベースの整備に取り組んだ。また、わずかではあるが、神戸市の某区でのお手伝いなどもさせてもらった。そして、ここでも地に足をつけて考えることの大切さ、現実に立つことの重要性を学んだように思う。 震災の年の忘れがたきこと この年は、センター試験の翌々日、卒業論文審査会当日の早朝に阪神大震災が発生した。本学関係者には、震災を直接原因とする死亡者はなかった。なお、この年は歴年の単位不足で卒業できなかった留年学生も一気に卒業した年で、卒業率が一気に上昇した特異年ともなった。また、学内にも、学生向けの仮設住宅が建設された。 そして、この時入試担当者でもあったので、入試でも被災者特例などの検討や、西宮神戸間のJR・阪神・阪急がバス輸送になるため、試験をどうするか、ということで、大阪の予備校を試験会場で借りて、最初で最後の2会場同時入試を実施した。また、受験者からの電話問い合わせも非常に多く、そんなことをしたこともない我々にも、その業務が回ってきた。 この震災の年は、結構いろいろ社会的に事件が起きたのだ。以前から関心を持っていたオウム真理教が地下鉄でサリンを撒いてくれた。そして、一気に彼らの言っているハルマゲドン的なるものの実態が見えてきた。 被災地の両端で 地震の被災地の中で、集会生活も変わった。自分の住んでいる地域(被災地のほぼ西端)と集会のある地域(被災地のほぼ東端)にあったため、その間の経路が被災の一番激しかった地域であったため、教会と自宅の間が空間的に分断されてしまった。わずか3か月ばかりの断絶であったとはいうものの、まぁ、実質的には1月半という感じであったが。 震災後、当初1回災害後の週だったか、翌週だったか、被災地を抜け、普段であれば自動車で30分の道のりを、2時間半以上かけて大渋滞の中集会に行ったが、渋滞中の車内から見る惨状は目を覆うばかりであった。渋滞の中運転中、被災地で食料など救援物資を待つ人を押しのけてまで、自らの信仰の表現である礼拝を守るために、わざわざ被災地を通っていく、ということはどういうことか、という問題は問われた。 現実の個人の信仰と倫理の問題として。それはナイーブすぎるかもしれない、と読者の皆さんはおっしゃるかもしれない。そんなことより礼拝が大事だ。それはそうかもしれない、と思う。しかし、当時の私には、無理をしてまで、そして他人の不幸につながりかねない状況を悪化させつつ集まる意味は本当にあるのか、という問題を問われた。そして、ある面、痛む人を押しのけてまで、そして、神の名を唱えつつ神の名のもとに自己を正当化してまで、わざわざ被災地を抜けて集会に集う意味を見いだせなかった。 そこで、その当時の責任者に少なくとも緊急避難的に家庭での聖餐式を開かせてくれ、とお願いして、被災地を抜けて集会に行きにくい人たちだけで集まった。責任者の方が渋い顔をしておられるのはわかったが、期限付きということでなかば無理やりに了解を取り付け、家庭での聖餐式を一時的に始めた。交通断絶のため、数名の通うのが困難な方々が集まってくださって、数度にわたって聖餐式を持った。4から5回くらいであっただろうか。 4月には、公共交通機関が復旧したので、また、元通り集会に集まることになったが、まだ、以前使わせてもらっていた公共の会館は被災者の方がおられたので、独自に場所を借りることになり、経済的な負担は非常に大きかったが、集会として占有の場所を持ったのもこの時からである。95年の5月くらいだと記憶している。また、集会の方で、家屋の被災があったご一家(このご一家の方が「白骨の御文書が・・・」のKさんである)もあり、ご一家は京都に一時的に移られた。家庭集会もお休みにした。そして、Kさんは移転後1年ほどされた後京都で故人になられた。 震災後、第1回アメリカでの交換教員生活の前まで 震災後は、世俗の仕事では、学生諸氏と外書購読や、講義の中で論理的に考えることの研さんに励むと同時に、地理情報学関連の研究分野をすすめていく。まぁ、それが可能であったのも、わが国での地理情報学が始まって間がなく、参入障壁が異様に低かったこと、また、計算機環境もどんどん改善していく時代であったからである。 また、1997年は、奉職先の学校の近所でサカキバラセイト君が職場の近所で連続殺傷事件を起こすような、ろくでもない年であった。この時3年生向けの選択必修科目担当のA4で5〜10ページのレポートの提出を求めるような科目担当のちょっとおっかない教員(また、30〜40人分の考えぬいてきたレポートをちゃんと読んで、評価をつけて、コメントをつけて返さないといけない担当者としても結構きつい科目)だったのが、塾講師のバイトをしている学生がこの事件を口実に毎週の提出物を出さないという暴挙に出て、「この事件で自分の塾講師をしている生徒がおびえているので、休んだ、ついては公欠扱いにしろ」とねじ込んできたので、「公欠にはできない、なぜならば、事件で大学が閉鎖になったわけではない。本学の学生であるからアルバイトができているのであって、アルバイトの代償として大学生として資格が与えられているわけではないため、貴君の論理は逆立ちしておる」とご指摘申し上げ、この学生には、「事情を斟酌するので、その時の課題は学期終了までに特例で提出してもよいが、但し、評価はCとする」と伝えたら、半分くらいは後日出してきたので、C判定を進呈した。まぁ、この科目をとらないと、就職活動をしながら、この科目を受けることになるので、下手をすると卒業までに5年確定といわれた科目を当時は担当していた。 明日、基本的な集会の文化とコンフリクトを起こし始める第1回アメリカでの滞在を振り返る。 |
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