ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレンと福音宣教

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先週金曜日、別のことで建てこんでいまして、またもやお休みしてしまいました。今回も、中村敏さんの

日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで

が新教出版社から出ていますので、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。

インドネシア宣教会との関連で、戦後の日本の集会で大きな働きをした山岸昇さん(以前にご紹介 http://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/34828286.html)が出てきましたので、ご紹介します。なお、本書のご紹介は、今回で終わりにしたいと思います。

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1965年に設立されたISK(インドネシア宣教会)は、1970年代前半において、初代宣教師の奥山実一家も含め、4組の宣教師をインドネシアに派遣した。しかしその後奥山は、インドネシアでの過労がたたって病気となり、治療のため帰国し、宣教師を退く、日本で渤海に復帰した。山岸昇は、1972年にインドネシア入りし、インドネシア語を学びつつ本格名伝導に備えていた。しかし結果的に現地の協力団体との関係がうまくいかず、帰国・辞任している。

同書 p.256

 モンゴル・ミッションは、1992年に大阪府堺市にある単立津久野キリスト恵み教会によってはじめられた海外宣教の働きである。この教会の牧師の山岸昇は、1970年代の初期にインドネシア宣教協力会から派遣され、短期間インドネシアで奉仕したことがあった。この宣教団体は、「キリスト教年鑑」によれば、モンゴルのウランバートル他で伝道と教会形成の働きをしている。また、モンゴルだけではなく、スペインのセビリヤ市郊外で麻薬中毒患者の厚生施設を運営している。さらには同じくスペインのあるからしやロシアのイルクーツクでも伝道しており、単一教会の働きとしては広範囲にわたるものである。

同書 pp.273-374
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山岸さんは、大阪のキリスト集会から伝道師として北陸方面の集会を立てあげていきます。北陸などでの働きやその働きの原点となった方です。この影響は、四国などでの伝道などに出て行かれた方に影響を与えた方ですし、津久野キリスト恵み教会と関係の深いエマオ出版(そういえば、最近、決定版終末論、というある意味スゴイ本が出ていた)のサイトを見る限り、CHMとして知られている本(モーセ五書註解を含む)の翻訳をされた方のようです。伝道出版社の本ですが、エマオ出版で山岸さんの翻訳書として紹介されております。

山岸さんの伝道の精神は、日本国内で、非常に伝道が困難な地に出て行き、インドネシアでの伝道を行い、さらに、日本各地で伝道をし、そして、モンゴルに伝道し、スペインに伝道している姿を見るにつけ、このグループに内在した伝道のエネルギーのようなものの存在ということを感じます。


連休期間中でしたので、1週間お休みをいただきましたが、本日からまた再開させていただきます。

中村敏さんの


日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで


が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。

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(熱河での)プロテスタント宣教は、1872年以来イギリスの3つの長老教会のミッションが着手した。1897年にはプリマス・ブレズレンの宣教師が宣教を開始し、まもなく前記の長老教会から熱河省における伝道をすべて委譲された。福井が熱河省に入った1935年には省内の10ヵ所以上にこの群れの教会が存在し、23人の宣教師と数百人の信徒がいた。なおプリマス・ブレズレンは本書1章で取り上げた乗松雅休が所属した群れであり、中国では「弟兄会」と呼ばれた。後にこの群れは、東亜伝道会の教会と合同した。
                   同書 pp. 130-131.
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うえに示したような表現がありますが、現在調査できた範囲では以下のような記述を見つけることができました。

The first missionary to arrive in China was Mr. R.Stephens, who began in 1889 in Shidao in easternmost Shandong. In 1897 Stephens began a new work to thenorth of the Great Wall. Another group commenced missionary activities in Jiangxi in 1889.

Tiedemann, R.G. (2009), Reference guide to Christian Missionary Societies in China, p.141, M.E.Sharpe, Inc. Armonk New York

1900年ごろに、中国の内陸に入り込んで伝道していたことを見ることができます。そして、英国系の長老派の開拓のあとを引き受けて、10箇所以上の教会があったものを引き受けたということや、この英文の記述に見る限り、かなりのグループが中国で伝道していることの記述がありました。

こういう記述を見ていると、ブラザレンは、あるいはキリスト集会の人々の伝道熱心さと、ほとんど支援の期待できない中国の内陸部で、このグループの伝道熱心さを見る思いがします。


中村敏さんの

日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで


が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。

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1919(大正9)年3月1日、朝鮮人はこうした過酷な植民地支配に抗して、ついに立ちあがった。この運動は多方面の朝鮮人民による独立運動であったが、その中核はキリスト教会であった。事実、同区立宣言に署名した過半数はキリスト者であった。そのため総督府が徹底した弾圧に乗り出して行ったとき、その矛先は当然ながらキリスト教会に向けられた。
乗松は、この3・1独立運動の勃発直前の2月中旬から3月下旬まで、運動の最も激しかった形状と水原の間を往来していた。3月6日付の彼の書簡に、次のような言葉が書きされている。

李大王殿下の穀倉前後に、朝鮮人の中に不穏葬場のことなければよいがとは、だれしも思いしようであったが、1日に大漢門前、そのほかのところにて、独立万歳などと叫び、不謹慎の軽挙妄動をなす群れありて官憲のほうに手も心を労し、鎮撫に従事せられし状態ゆえ。
(中略)
こうした乗松の見かたはやはり植民地支配をしている日本人の側に立ったものといえ、総督府の鎮圧による多くの朝鮮人の死傷や彼が長年いた水原で起きた虐殺事件についての言及は全くない。  (中略)  いかに朝鮮民衆の中に入り込み、そのために尽くしてきても、やはり当時の日本人としての限界は免れなかった。過酷な総督府の植民地支配や日本人の差別構造に対する洞察を欠き、同情を示しつつもこの運動を不穏な暴動としか見ることができなかったのである。どんなにその民族の懐近くまで入っていたように見えても、ぎりぎりのところで外国人としての限界があらわされたと言える。

同書 p21-P22
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とかかれていますが、乗松が否定的な視線を向けたのは、喪失というか喪の中でのこのような行動についての忌避感が、軽挙妄動と騒擾に対する否定的な視点ではないか、と思うのです。ブラザレンは、聖書理解や教会運営の点では、従来の枠組みを全く無視した行動をとり、その点では、非常にラディカルなのですが、社会秩序については、異様に保守的という二面性を持ちます。なぜ、このような二面性を持つのか、について自己反省的にとらえようとしているのですが、いまだにまともな答えが出てきません。

おそらく、この集団が社会秩序を重視する時代であった、英国ビクトリア朝時代に生まれたことと関係があるのだと思います。非常に社会的秩序というか、国家とか、国民統合の象徴を異様に大事にする時代背景があったものと思います。その国家なり、国民なりの理解は、ここで中村さんがご指摘なさるように制限的なものであったにせよ。実際、この時期で有名な作品として知られているコナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズに出てくるシャーロック・ホームズという人物は、アヘンは吸うわ、まともな社会生活をしない自由人として描かれていますが、ビクトリア女王に対する崇拝だけは異常で、壁の壁面にリボルバーでVの字を描いているシーンが描かれたりしています。また、この時期の児童文学作品で有名なドリトル先生シリーズでも、女王陛下に関する尊敬、あるいは崇敬は、現代人には理解しかねるものがあります。


とはいえ、アニメ版のMr.Beanでも同様で、結構むちゃくちゃなことをしでかすMr.Beanも女王の肖像の入ったマグカップを異様に大事にしたりするあたりのことを見せています。ただ、実写版のMr.Beanでは、チャールズ皇太子の写真を首のところで切り取るようなきわどいことをして見せたりしているので、このあたりが実に微妙ですが。チャールズは、もともと、イギリス人にも人気のない人物なので、このあたりの反感が、このような映像化につながっているかもしれませんが。

さて、ブラザレン派での、あるいは、同心会の進行における権威性への重視は、ブラントさんやそのほかのイギリス系伝道者や宣教師がもっていたイギリス人の精神性が分離せずに、伝わったとも考えることができるかもしれません。国教会系(日本では聖公会系)でみられるイギリス皇室への尊敬が、日本の皇室への尊敬や、韓国国王家への尊敬に移り変わりつつ、日本のブラザレン派や、キリスト集会へ継承されたのかなぁ、とも思います。

この後、中村さんの本では、乗松死後の動きなどが触れられているのですが、それは同書をお読みいただくことにお任せし、それ以外のブラザレン派と中村さんが分類された方々の動きを、同書から拾っていきたいと思っています。

中村敏さんの


日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで


が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。
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1909(明治42)年9月、朝鮮人信徒の捧げ物によって、水原に新しい集会所が与えられた。土地は1朝鮮人信徒がささげ、必要な金銭、物資、労働力のすべても朝鮮の信徒が捧げて完成した。この集会所を拠点として大きな集会がしばしば開かれた。1912年の報告では、水原で400人近い参加者による大集会が開かれた。そしてこの集会のときに49人が洗礼を受けた。洗礼は夕方から始まり、終わったのが真夜中の12時過ぎであった。

同書 p20
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乗松さんが韓国に乗り込んだのが、1896年ですから12年ちょっとで、ここまで大きくなったということは、非常に驚くべきことだと思います。1回で50人弱の洗礼、というのも、すごいと思います。

ところで、集会所の建物を朝鮮半島の信者の総力を挙げて、という側面はあったにせよ自力で立上げていったというのは非常に印象深いです。日本のキリスト集会でも、そういうところは少なくないとは思いますが、外国からの支援を受けて作られた集会の会堂もある程度はあるように思います。

日本では会堂をどう維持するのか、ということをぼちぼち考えないといけないところが出始めているようです。こういう記事を見るにつけ、会堂と会衆、礼拝ということをどう考えるのか、ということを考えさせられてしまいます。


中村敏さんの


日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで


が新教出版社から出ていますが、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。

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しかしながら、乗松一家の経済的困窮は実に厳しい者であった。プリマス・ブレズレンは、職業的な教職制度を認めない。しかし信徒の中から、一般の職業を捨てて伝道に専心する伝道者が次々と起こされていった。「おしもべさん」と呼ばれた彼らの生活は、独立自給が原則であったが、他の信徒が自発的にささげる定期の「お交わり金」も支えとなっていた。四人の幼い子供を抱えた乗松家は常に貧乏のどん底にあり、その日の食べ物に事欠くこともしばしばであった。おからで飢えをしのぐこともあった。1904年、妻の常子は4人の子供を残して召天するが、その死は貧困と無関係でなかったといわれる。常子との結婚生活は9年という短いものであったが、彼女は貧しい生活の中で4人の子供を育て、夫によく仕えた。常子の召天は、朝鮮伝道のための尊い犠牲と言えよう。

同書     p.19
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中村さんがご指摘の通り、わがキリスト者集団(同信会そのものでなくても、過去に交流のあった経緯から基本、プリマス・ブレズレン、ないしはプリマス・ブラザレンだとするほうが、私は適切だと思いますが。事実、横やりに近い形で、三浦さんのときにはその所属に関して交流がありましたが)、職業的な教職制度を認めてはいないものの、現在では退職された方、退職されるまじかな方を含め、職業的な教職制度ではないものの、ほぼ専属的に教会(集会)のことをご対応しておられる、教職に実態的に近い方々も最近は増えてきています。定年まじかな方々が教職としての役割を担ってきている背景には、1960年代ごろに一気に信者が増え、その方々が退職期を迎えてきていること、従来、多くを依存してきていた外国人宣教師の方が、ほとんどおられなくなったこと、これらが現在のような状況を生み出している原因と思われます。

群馬県下で信望を集めているご高齢の信者さん、1950年ごろからすでにご活躍であった信者さんの1960年ごろの生活も、ここに書かれた乗松さんと同様であったですし、石浜さんが神戸に移られてすぐの1950年から1960年ころ前までの生活状況も、ほぼ同様であったと思われます。奥様が和服を売りながら生活費をねん出しておられたようですから。お子さんたちもお父さんに相談しようにも、お父さんは伝道で、日本各地を移動中で、いつ帰ってくるかわからない。トンボとりに行った子供のようなところがあったようです。

乗松さんや奥様は、どう思われていたのかはよく分かりませんが、尊い犠牲、で片づけられないようなものがあるように思います。とくにお子さんたちにとっては。

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