ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレンと福音宣教

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 ブラザレンだけではないとは思うのですが、新しい方がこられた
ときには、2種類の対応に分かれてしまうと思います。

パターン1 遠ざけて個人的に話しかけないケース

 新しい方がこられたときには、よく分からないので、確かに恐怖

心というのではないですが、一体なぜ来られたんでしょう、という

疑問を持つ場合があるかもしれません。

 それで、挙句の果てに『触らぬ神にたたりなし』という事で遠ざけ

てしまって、お帰りいただくのをひたすら待つ。2度目に来られるか

どうかの様子を見る、というのは一つのパターンであると思われます。


 確かに、キリスト教会やキリスト集会にはいろんな方がこられます

し、それらの方に門戸を開いているのがキリスト者の集会や教会なの

で、どうしても、どう対応してよいのか分からず、腰が引けてしまう

部分というのがあるのは、分からなくはないです。

パターン2 接近してしまって、境界線を踏み越えるケース

 新しい方に興味があり、『どこから来たのか?なぜ来たのか?どこ

で知ったのか?仕事は何をしているのか?』と真で行かないまでも、

ちょっと職務質問と?と感じさせる質問いうのか、かなりプライバシ

ーに関係しそうなところまで踏み込んでしまう事例というのはあるか

もしれません。

 その時に、教会の人やキリスト集会の信者から自己紹介することっ

て、あんまりないので、聞かれる方にしてみれば、「何で職務質問み

たいな質問を受けるんだ?不審者に見えるのかな?」ということはあ

るかもしれません。特に、若い信者が異性の新しい来会者を連れてき

たときには、こうなる場合も少なくないようです。

 警察官の世界では、職務質問の技術を競う大会というのがある、と

お聞きしたことがあります。ベテランになるとオイコラ式の恫喝型で

聞くのではなくて、世間話をしながら、チョコチョコ職務質問で聞き

だすべき質問を混ぜて聞き出すという技術があるんだそうですが、そ

こら辺も学ぶことが必要かもしれない、と思ったりしています。

時々、あるブログにコメントを入れておられるブラザレンの方と

思しき方(確信はありますが、確証はないので)が、教会に新し

い方(未信者・求道者と呼ばれることが多い)がこられたときに、

ブラザレンの教会(キリスト集会)だと、「聖書開いて、ばっ

さり答えだけ言っちゃう傾向」があくまで一部であるとはいえ、

「傾向としてある」のではないか、と指摘しておられました。

 確かに「そういわれれば、あるよなぁ」と思います。福音を

剣道にたとえれば、正面から大上段で切り込んで面を取りにい

くようなところ。柔道で言えば、巴投げ一本を狙うようなとこ

ろ。相手に参りましたといわせちゃうようにしてしまうところ。

有無を言わせず聞かせてしまうようなところ。傾向としては、

あるように思うのです。全ての方がそういう宣教をしている、

というわけではありません。

 イギリスでも、福音宣教では、そういったところはあったよ

うです。ダービーは、そうだった見たいですね。だからこそ、

各地に集会ができ、時代の波に乗りながら、ブラザレンが広が

っていった部分もあるとは思います。聞いている方も、はっき

り断言されると「聞いてすっきり、納得!」ということがお好き

な方も居られるわけですから。明確で、歯切れのよい伝道が

何を言っているのかわからない伝道より、わかりやすく、この

種の方法が成立したように思います。

 しかし、人それぞれなので、こような直接的な伝道で聖書の

言う神と出会い、イエスを神とする信仰を持つに至る人もいれ

ば、この方法に違和感を感じる人がいらっしゃるように思いま

す。でも、ブラザレン以外の違う教会を薦めないので(積極的

に薦めることをしない、できない。なぜかというと、既存の教

会に対して、J.N.ダービー以来の伝統で、否定的な視線を向け

ているから)、とりあえず集会のあり方がいいと思える人たち

と、そうでない人たちに分けてしまって、それで終わっている

部分というのはあるかもしれないなぁ、と思います。個人的に

は、合わないなら他の教会にいってみられたら、と薦めてあげ

るほうが親切ではないかと思います。とはいえ、あまり他の教

会のことを知らない、付き合いが無いので、ブラザレンの信徒

は他の教会を勧めにくいのは、実際問題としてあるのですけれ

ども。

あと、Mutenda氏が結婚のカウンセリングをしている、という話を聞いた時に、なぜ、キリスト教の伝道が100年以上前から起こり、キリスト教徒が80%以上を占めている国で、何で必要なんだろうと素朴に思いました。日本では、未だに続いている祖霊崇拝が、キリスト者がその祖霊崇拝をしないことでほとんど従来いわれていたような悪いことが発生しないことを経験的に学んだ結果、祖霊崇拝なくなったような国で、どんな結婚カウンセリングが必要なのか、とちょっと疑問に思いました。

 で、聞いてみると、男性のドメスティック・バイオレンス(DV 家庭内暴力)の問題が、文化にかなり強固にロックインされており、信徒であるといえども、その文化的な影響からDVの問題を持つ可能性があることを事前にカウンセリングをしておいて、その問題の予防をする必要性がある、ということでした。

 多分、DVの問題とも関連するのでしょうが、家父長制を中心としたコミュニティ概念が生きており、結婚や結婚後の生活、あるいは強制的な離婚の形で家父長(夫婦の父親や、叔父)が介入することがままあるらしく、キリスト信徒同士で結婚したあと、無理やりに離婚させようとするような介入が行われるような事例もあり、それが聖書の根本原理とはずれがあるということを説明し、必要なカウンセリングをすることの重要性を話してくれました。

 日本では、若年層の性規範の崩壊の問題があることを考えるときに、国により、結婚や性にまつわる問題は、非常に重要なのだなぁ、ということを考えさせられた会話でした。

 せっかく、アフリカからこられたので、アフリカ人自体が持っていた本来の霊性Spritualityってどんなもの?と聞いたところ、次のような答えが返ってきました。

 霊性自体は深いものがある。特に、伝統的な社会の中でも、唯一の絶対者であり、宇宙の創造主は唯一の存在あるが非常に遠い存在であるということでした。その遠くにいた神が、イエスであり、それが今地上に来たのだ、という説明で福音が語られていったようです。ちょうど、アレオパゴスで、パウロが語ったように。

 でも、アフリカでは、地域の霊的な存在はあると聞いたが、と聞いたところ、それは、アニミズムに近い先祖崇拝だ、というおはなしでした。

 へぇ、日本とよく似ているんだ、ということを思いました。よく聞いてみると、日本では、それが鎮守の森みたいな形で、森や山などが神として考えられているものの、ザンビアでは、先祖が住んでいると考えられている木というのが、村ごとにある(あった)、と聞きました。

 もうちょっと言うと、ザンビアでは、この機の中に先祖の精霊が宿っており、死者の弔いなどや伝統に従わない形での埋葬などがあると、それが病気や不幸などの原因と結び付けられて考えられていると祟り的な信仰形態ということだったのです。ただし、植民地化に伴い福音宣教が進められていく中、クリスチャンが伝統的な社会の方法論と違う形で葬儀などを行う中で、祖霊崇拝などをしなくても、実際には不幸が起きないことなどを経験を通して学ぶなかで、この種の祖霊崇拝がなくなっていったということだそうです。
 
 日本では、教育水準が上昇しているものの、祖霊崇拝の問題が存在している背景には、日本の祖霊がある面、ザンビアのように呪う存在として存在するのではなく、一種善をもたらす保護者としての存在という理解があることがあるのでは、ということを考えました。

 ただ、重要な問題として、現在も尚呪術的な医療者Witch Doctorの問題がある、という話でした。つまり、医療者へのアクセシビリティが非常に限られるため、身近にいるWitch Doctorに依存していることがあるようです。

これについては、また改めて書いていこうと思います。

 最後にザンビアの教会は、海外の宣教師に物質的にも聖書の学び、福音宣教の面でも強く依存してきたが、これまでと同様に依存することはできないし、これからは、地元のザンビア人たちがその役割を担うべきような時期に来ているというお話がされていました。今、そのための聖書学校などの教育機関や奉仕者を支援するための働きが必要になっていること、それから、CRCが来年で20年になるので、この20年記念の集いをする予定などがあることなどをお話されていました。
 お話の中でも出てきていたのですが、ザンビア人の奉仕者が少ない、それを現地の信者たちが、十分にサポートしていない、ということが出てきていました。たまたま、ブラザレンの歴史を追うため買った本

The Growth of the Brethren Movement: National and International Experiences: Essays in Honor of Harold H. Rowdon (Studies in Evangelical History and Thought) Neil T. R. Dickson Tim Grass, Paternoster(Wipf & Stock Publishers) (2006/12) ,ISBN10: 1556351178

をよんでいると、その中に

Some Missiological Issues from the Past Facing the Christian Brethren Assemblies in Zambia Today

という解説記事というか論文を Kovina Mutendaさんは、書いていたのを発見していました。この論文のなかでも、ザンビアの集会の人がもう少し献金をしたらザンビア人の奉仕者が働けるのにということが記されてありました。ただ、なぜ、ザンビア人が献金しないのか、その原因は何か、ということが論文ではあまり書いてなかったようだし、論文からは、私にはあまりピンと来なかったので、そのあたりの説明を聞いてみました。

 すると、これまでの宣教師中心で伝道が進められていく段階では、ザンビア人自体が「あなたがは貧しい、貧しいのだから、必要なことは伝道師の方でするから」と言い続けられ、必要なものはすべて宣教師から、会堂であれ、薬であれ、霊的な学びであれ与えられて経験の結果、自分達でささげる必要性がきちんと教えられてこなかった、というお話がありました。

 まさしく、植民地宣教の問題点が今になって出てきている感じだと思います。その意味で、宣教師と信者との間に共依存の関係が存在しているのかもしれない、ということを思いました。というは、現地信者は、さまざまな良いものをただでくれる宣教者に物質的、霊的に依存する。宣教師は、現地信者から物質的・霊的な協力を求められることで、自分の存在意義、宣教団体と宣教自体が必要とされるという現地信者によって必要とされている関係性に対する依存があるのかなぁ、と思いました。

 日本のブラザレンの場合、かなりに多様な部分がありますが、外国(カリフォルニア、サクラメント)帰りの笠松さんという日本人が最初のブラザレン運動の定着にある程度大きな役割を果たしていること、日本人の活動を中心としてそれを支援する形で宣教師の活動が行われていた面があること、日本が朝鮮戦争、その後の高度経済成長の中で経済的に発展する中で経済的な面では自立的であったことから、ここまでの状態になっていないように思います。とはいえ、聖書の理解に関しては、未だに海外からの宣教師の聖書理解に依存している部分がまだ残っているように思います。

 とはいえ、現在のブラザレン運動は平信徒運動の特性を強く残しているので(というよりは、それそのものなので)、聖書理解に偏りが出る可能性が高く、下手をすると、メード・イン・ジャパンのキリスト教になりかねない部分を持っているように思います。何が本当に聖書的で、何が文化的なのかをきちんと理解するような必要があると思います。そのためには、ブラザレンの成立過程と、そのなかで作り上げられていったさまざまな運営にまつわる形式論(紹介状制度や聖餐式論)、他のキリスト者の様々な聖書理解の特性とその意味、そこから導かれるものをある程度知っておく必要があると個人としては思っています。

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