ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレンと預言理解

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]

 延期された王国というタイトルの下で、Bassは次のように

この議論の特徴を説明しています。

-----------------------------------------------

 延期された王国の考え方は、神の王国がユダヤ的な概念である

ことに深く関係しており、ディスペンセーション主義が伝統的な

信仰と異なる点の一つです。

 延期された王国は、神の国がどのようなものであり、どのような

ものとなるべきなのか、ということから出てきている。イスラエル

の王国としての再建が文字通りなされることになるはずであり、現

在ダビデ王権の復権がなされていない以上、王国の実現はまだ延期

されていると理解されている。

 この復権した王国や王国は提示されたもののまだ確立していないと

いう強調は、キリストの十字架と復活したキリストの栄光の反映であ

る教会の栄光をかなり減ずるものとなる。イルラエル国家の回復への

強調は、信者がキリストの体の一部となる原因となった十字架の勝利

を弱めることとなる。

 千年王国主義者は、千年王国の中でイスラエルが神との関係を持つ

ことを信じてきたが、この関係はキリストの死を通しての恵みによっ

て確立されたものである。

------------------------------------------------

Bassの言いたいことは、分かりますが、おそらく、千年王国主義に立つ

人々の立場は、旧約聖書の世界の再現を目指す以上、ユダヤ人とキリス

ト者は別の論理に依拠することになるというのが、ディスペンセーショ

ン主義者の立場なので、Bassがいくら、キリストの栄光や十字架の意味

や価値をとりあげても、話は平行線をたどると思います。

 旧約聖書の重要性と新約聖書の重要性のバランスをどうとるのか、

といった問題とも関係しているように思います。旧約聖書は解釈自体が、

そう簡単ではないことが多いこともあり、話すほうとしては取り上げに

くい部分もあることへの反省として、旧約聖書のテキストも重視すべき

であり、それを定規を当てるように読んでいくべきという時代の雰囲気

がこのような解釈を生みだしたのではないか、と思います。

 あと、この延期された王国の概念が、クリスチャンシオニズム運動と

深く関係しているようです。延期された王国という理解に立つ人すべて

やすべてのブラザレン運動の関係者クリスチャン・シオニストではない

と言ってよいと思いますが、この理解をさらに展開し、進めてていくと、

クリスチャン・シオニズムにつながる可能性をもつように思います。

ミイラ取りがミイラ取りにならないようにしようとおもっていますが。

 ユダヤ的な意味での王国ということで、Bassは次のように

書いています。

----------------------------------------------

 千年王国主義者は、キリストが現実的に地上を支配をする

将来の王国があることを信じてた。この千年王国は、大激

変を伴う神の贖いの支配(神の恵みが続いている状態)の終焉

であり、千年王国の前に、目に見える形の文字通りの人格を

伴ったイエスの再臨があるとされてきた。

 ディスペンセーション主義では、将来の王国がイエスが

ユダヤ人に提供しようとしたとされるユダヤ王国の回復とし

てとらえており、イエスがユダヤ人に提供しようとした王国

の上に教会は設立されたとしている。この主張は、キリスト

が提示した王国は霊的な王国ではなく、アブラハムに約束し

た約束の文字通りの実現ということを意味する。(したがっ

て、ディスペンセーション主義では、アブラハムに約束され

た領土が実現すると考えられている。)

 歴史的な解釈(カトリック以来の解釈)はイエスは、霊的な

王国を提示しようとしたし、提示した結果、霊的な王国が拒

否された、という解釈である。イスラエルにより、神の王国

(霊的な王国)が拒否された結果、伝統的な千年王国主義は

霊的なイスラエルは、設立された教会のなかに形作られ、教

会の完成は千年王国において実現するという考え方である。

教会は神の救済計画の縮図であることになる。

 厳密な字義通りの解釈主義と無条件の契約へのこだわりから、

ディスペンセーション説では、霊的なイスラエルというものは

ないことになり、アブラハムへの約束は現在も有効であるという

ことになる。

 時代区分説でなされる区別は教会と王国を厳密に区別するだけ

でなく、福音の内容も時代によって異なることになる。イエスの

福音は、王国に対して語らられた者で、恵の福音は教会ができる

まで語られなかったことになる。

 ディスペンセーション主義者は神の王国と天の王国を区別して

考える。神の王国は、人類の心を支配する神の普遍的な支配する

王国であり、天の国は神の地上の(筆者注:政治的な)支配の

ことであるとする。

 さらに、ディスペンセーション主義では、将来の王国は千年支

配の中で実現するもので、ユダヤ人についてのもので、ダビデ時

代の王国まで地域的に拡張され、神殿が再建され、犠牲がささげ

られることまで復元されることになっている。

 歴史的なキリスト者の聖書理解では、教会と王国は同一のもの

ではないがをそれらを明白に分離して考えるという考え方はなか

った。

----------------------------------------------

 以上がBassの神の王国に関する理解ですが、私自身は以前は

無批判に人の話を受け売りしていた部分があり、神の王国と

天の王国、ユダヤ王国と教会についての分離が聖書の理解とし

て適切ではないか、と思っていましたが、最近、神の王国や

天の王国ということを預言理解と離したうえで、考えれば考え

るほど、これらは別のものではなく、単に新約聖書に出てくる

表現からだけで厳密に考えないほうがいいのかなぁ、と思って

います。

 ギリシア語の聖書の重要性は疑うべきではありませんが、

もともとイエスがしゃべっていたのはギリシア語でない以上

(へブル語およびアラム語だとおもわれる)、へブル語また

はアラム語からギリシア語への移行過程で精霊の導きがあっ

たとはいえ、一つの語が、一つの意味しか持たないという解

釈ではなく、多様な解釈に対する柔軟性にたちながら、さま

ざまな観点から聖書から考える作業をしたいなぁ、と思いま

す。たとえば、神の国、天の御国、天の国といった語をを明

白に区別して、対比的、対立的に考えるなどがよいのかなぁ、

コンテキストに基づきながら、総合的に考えるという観点な

どを含めながら、考えたほうがいいのかなぁ、と思っています。

 逐語霊感説に立って聖書を理解することは大事だと思いま

すが、定規を機械的に当てながら読むような聖書理解がいい

のかな、と少し疑問に思う部分が最近はあります。

 後、ダビデの子孫によるユダヤ王国が実現するという考え

方が、後のクリスチャン・シオニズムにかなりの影響を与え

ていくことになります。

 ディスペンセーション説は、いろいろなところでこれ

がディスペンセーション説です、ということが説明され

ないまま、聖書の主張です、と主張されていることが多

いようですが、やはり、独特の聖書解釈の可能性があり

ます。

 特に北米の福音派の聖書学校でこの種の考え方の説が

20世紀初頭以来講義されてきたこともあり、北米の宣教

師の影響を受けた日本では、このような考え方がかな

り広がっています。中田重治も、この考え方の影響を

強く受けているようです。彼の特殊な聖書理解もこの説に

依存している部分があるように思います。

 Bassはディスペンセーション説における教会の理解に

ついて27ページ以降で次のように記載しています。

-------------------------------------------

 ディスペンセイション説でもっとも逆説的な理解は、

教会に対する見方です。現代のディスペンセーション説

では、ユダヤ人によって、イエスが提示した神の王国の

否定というイスラエルの状況により神の計画に割り込ん

だものとして、主張されます。この見方は、ダービーの

見方がその出発点にあります。ダービーの見方は、教会は

キリストの体であり、神の家であり、したがって、神

の当初の救済計画の一部ではなかったという理解して

いた。

アイアンサイドは、教会の役割を挟みこまれたようなもの

と言っています。
-------------------------------------------------
以上のようにBassは主張していますが、その根拠が示され

ていないので、もう少し検証が必要かなぁ、と思います。


つまり、ここでの考えを筆者なりに整理すると

ユダヤ(イスラエル) − イエス − ユダヤの滅亡

− [教会の時代] - ユダヤ王国(再興されたイスラエル)

という視点で見ると、ユダヤの滅亡からユダヤの再興の中に

挟みこまれた教会として見えるというのがこの議論の特徴な

わけです。しかし、教会と並行する形で、イエス時代の

ユダヤ王権は存続しましたし、捕囚の復帰後からイエス時代

までは、かなり政治的に不安定だったようですし、この図式

はかなり単純化されており、かなり無理があると思うのですが。

Bassの議論に戻りましょう。

----------------------------------------------

 歴史的なキリスト者集団は、イスラエルと教会の間に明確な

区別があるという考えを否定してきました。歴史的な前千年王

国主義者の間では、十字架は、ユダヤ人と異邦人を神の前に神

の恵が必要であるという点で、一つのものとして立たせるとい

う考えが有力でしたし、イスラエルは、千年王国と関係がある

ものの、しかしこの関係は、教会は恵によってキリストの体の

再建であり、その目的や基礎という完全に別のものとしてとら

えられてきたのでした。

 その意味で、伝統的には、教会は神の計画の自然な展開とし

て発達してきたと見られているといわれていますが、ディスペ

ンセーション説で言われているような、合間にあるものや挿入

されたものというディスペンセーション説での位置づけでは

ありません。しかし、キリストの花嫁としての教会という

ことをディスペンセーション説では強調していることと、その

ことに価値を見出していることについては、高く評価されるべ

きであろう。

-----------------------------------------

以上がBassの主張です。ディスペンセーション説以外の立場か

らの教会の位置づけについて、再考すべきではないか、という

立場のようです。


 Luceさんから以前、ご指摘をいただきました(ご指摘あり

がとうございました)が、確かに、カトリックや一部のプロテ

スタントのような立場では、連続性を重視する考え方が行き

すぎ、置換神学(イスラエルの立場を教会の立場として置き換

えて考える考え方)に移行していった結果、聖書理解がひずん

だ様に思います。そして、それが、イスラエルの存在を否定し、

教会を背景とする国民国家が千年王国の実現という理解に

つながったように思います。ナチズムと千年王国との関係も

ありそうですが、このあたりの思想的背景は、第三帝国と

宗教―ヒットラーを指示した神学者たち―にも若干示されて

いたようにおもいますが、もう少しだれか整理してわかりやす

く提示してくれたらいいのになぁ、と思います。

 ユダヤ人問題とシオニズムの問題は、ナチズムやディスペン

セーション説などの聖書理解など、19世紀から20世紀の様々な

社会の局面に影響したように思います。

文字通りの解釈の結果生まれてくる解釈について、

Bassの24ページ以下には次のような記述があります。


文字通りの厳密な聖書解釈の結果、アブラハムへの

約束がイスラエルの建国という形で与えられ、イス

ラエルに対する約束が文字通り実現すると同時に、

未来で実現するキリストの地上での支配は、イスラ

エルに対する約束の実現というために起こるもので

あり、現在のキリストの教会との関係とは明白に異

なるものであるという聖書解釈となります。つまり、

イスラエルという国家との約束との関係で神を捉え

る一方で、教会との関係でキリストとの関係を捉え

ることとなるため(イスラエル⇔神:教会⇔キリスト

という対比関係で分離的、対比させて捉えるため)

に、イスラエルとキリスト教会が完全に別物として

理解されることになります。この教会とイスラエル

との分離傾向は、教会とイスラエルで神との関係が

異なるという理解に至ることになりかねません。こ

のような考え方は、この概念が登場するまでにみら

れなかったものであり、ダービーもこの考え方は新

しい真理として捉えていたのでした。

と表現されています。

 今日の日本の教会で、ここまで極端に教会とイス

ラエルとの関係を分離して考える人は少ないでしょ

うが、この概念が生み出された19世紀には、イスラ

エル建国運動がその当時パレスティナを支配してい

たイギリスでも話題とされていたという歴史的背景

が影響しているものと思います。その意味で、イス

ラエル国家建国はアブラハムへの約束の実現という

側面があり、その意味で、深い関心事になっていた

可能性があります。

 伝統的に、イスラエルへの関心ということが薄か

った背景には、そもそも、聖書研究が進められてき

たローマ・中世・近世を通して、イスラエル建国が現

実味を帯びていなかったという歴史的現実があり、

たまたま、それが時代背景的に国民国家の建設と

国際政治のパワーバランスの中、イスラエル再建が

現実味を帯びてくる中で、イスラエル建国の実現は、

キリスト再臨の前後に発生することであると想定さ

れるだけに、イスラエルの建国とイエスの2度目の

地上での登場(いわゆる再臨)への期待と、それに

伴う危機感があり、この種の議論がまき起こった可

能性があります。

 イスラエルが建国してある程度安定し、現実国

家として存在するがゆえに、この歴史観に火がつ

いたのが1970年代、であるとすれば、このイスラ

エル建国が、キリスト再臨が近いことの象徴とし

て理解され、折からのオイルショックともあいま

って、特殊な形の預言研究への関心の高まり、と

いうことにつながっていったのだと思います。

 個人的には、預言の歴史的実現には、重層性

があり、単一の預言が複数のイベントに対する

成就として理解されうることからも、イスラエ

ルに対する預言、教会に対する預言という形で、

2分割して対立的にとらえることはまずいかもし

れない、と思っています。基本的に、明確に表

現されていないことにたいして、何らかの解釈

を加えるところまでは、よしとすべきでしょう

が、それをもとに特定のことが事実であると主

張することは控えたいなぁ、と思っています。

聖書の文字通りの解釈について

 Bassの本と同様、ここでのお話は、ディスペンセーション

説に立つ人々やその議論そのものを貶めるための批判や、問

題視したりするためのものではなく、客観的にみて、一度そ

の考えを離れて少し客観的に考えてみる(自己反省的な面での

批判)という機会をもたれては、というご提案の趣旨で書い

ています。その上で、ディスペンセーション的な理解が重要

だ、というのであれば、その見識は尊重されるべきだ、とい

うのが私の立場です。

聖書の文字通りの解釈には良い面と負の面の二つの側面が

あります。

まず、良い面からいえば、素直な聖書解釈の道を開いたこと、

素朴な聖書解釈の可能性を開き、聖職者の独占的あるいは学問的

である結果、人々に届かなくなってしまった聖書解釈に対する

疑問を提出することを可能にしたことがあります。また、当時

最先端であると考えられていた神学議論の方向性である自由主義

神学(実態としては人間中心的な神学というやや矛盾した概念)へ

の疑義を提出したことです。

 ただ、負の側面としては、解釈する対象が、いわゆるギリシア

語や古ヘブル語(あるいは、アラム語)によるものではなく、英訳

聖書(欽定訳聖書)をもとにしたものとなりかねなかったという

ことです。そこで英訳された聖書の文言の翻訳の正当性(妥当性)

が問われることとなります。

 このディスペンセーション説は、近代社会の原理と考えられた

19世紀科学とそれを背景とした自由主義神学(人間中心主義神学)

に対する疑義として、聖書の真正性を擁護するというのか、

近代社会における聖書の有効性を主張する視点から、聖書は神の

ことばである以上、その言葉通り(ただ、下手をすると翻訳どお

り)に理解する必要がある、という視点から出てきたわけです。

これについて、Bassの本では、21ページにおおむね次のような

趣旨の主張がのべられています。

 この説の拡大は、合理性の観点から聖書の権威に関する疑問が

出されたことと深く関連しており、聖書が文字通り神のことばと

して理解されなければならなず、その意味の霊的解釈がなされて

はならない、という強固な主張が文字通りの解釈ということが

大きく影響しています。その結果、文字通りの解釈以外の解釈

法は、聖書のことばの有効性を否定する自由主義的な(人間中

心的な)聖書解釈と同義として捉えられたのでした。

ただ、この文字通りの解釈は、実際には聖書の解釈を歪ませる

可能性を持ちかねない側面があります。

 伝統的には、文字通りの解釈(文法的かつ歴史的解釈)と

象徴的解釈(文字よりやや深い意味を読み込んでいく解釈)

との二つが利用されてきたのですが、ディスペンセーション

主義の解釈に立つ場合、象徴的解釈が軽視され、文字通りの

解釈が強く主張されることとなってしまいます(ここまで、

極端な方は少ないです)。イスラエルと教会について、その

間の相互の類似関係は無視されることになります。

 特にこのことは預言解釈で顕著になります。預言に関し

て重層的な実現として理解されるのではなく、1対1対応

するような事実として、理解されることとなります。その

結果、象徴的に書かれた記載が、象徴的に解釈されないと

いう問題がでてきます。ここでの目的は、ディスペンセー

ション主義に反論することではなく、この文字通りの1対1

対応の解釈が、その時代までの他のグループに見られない

ものであったという意味で、非常に特徴的なものです。

 まず、字義的解釈を試みてみて、その上で、象徴論的解

釈などに進んでいくということが歴史的には、聖書理解とし

て試みられてきた、ということです。

 もちろん、文字通りの解釈は有効ですし、文字通りの解

釈は、重要ですが、それをあまりに強調しすぎると、問題

が発生する可能性がある、ということに気をつける必要が

あるのではないか。

 以上が、Bassの主張です。この主張は重要だと思います

し、バランスを欠いた行き過ぎが問題を生み出すように思

います。こういう行き過ぎた解釈に至ったのには、ダービ

ーのおかれた時代特有の環境、つまり行き過ぎた合理主義

的聖書解釈の弊害があったことを理解しておくことは案外

重要かもしれません。

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
kaw*muk*ih
kaw*muk*ih
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事