ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレンと預言理解

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ディスペンセーションの定義をBassは彼の本の

19ページで、1917年版のScofield Reference

Bibleからの引用により明らかにしようとしています。

Scofieldの定義によれば、ディスペンセーション

とは、「神の意思の特定の啓示に関する従順という

観点からの試み(確認という性質を持つ)が行われる

時間的な期間」であり、別の本Rightly Dividing

the Word of truthでは、スコフィールドが

「これらの期間は、聖書の中における神の人類に対

する対応、罪と人間の責任という2つの問題につい

ての対応の変化によって区別される。それぞれの期

間(ディスペンセーション)は人に対する神の新しい

試み(確認)が行われる期間としてみることが可能だ

と考えうる。各期間は、その期間での人間の完全な

失敗による「さばき」で終わる。」

と書いた内容の引用がなされています。

この部分をBassの引用を再引用しておきます。

Scofield defines a dispensation as "a period
of time during which man is tested in respect
of obedience to some specific revelation of
the will of God." He adds further:
"These periods are marked off in Scripture by
some change in God's method of dealing with mankind,
in respect to two questions:of sin, and of man's
responsibility. Each of the dispensations may be
regarded as a new test of the natural man, and
each ends in judgment - making his utter failure
in every dispensation."(Rightly Dividing the
Word of truth)

Bassの同書21ページによれば、ダービーのDispensation

の考えを体系化したのは、この時期活躍していた

William Trotterであり、TrotterがScofieldに大きな影

響を与えたようです。ただ、この種の考え方は、初期の

ブラザレン運動の信者全てに受け入れられていたわけで

はないようで、Charles E. Brownという人のThe Reign

of Christの中で、Samuel Tregellesというブラザレン運

動の初期のリーダーの一人がこの考えについて、『ナン

センスな憶測のきわみ』と表現していますが、この

Tregrellesはダービーと大論争を起こして、ダービーか

ら関係を切られたニュートンのいとこなので、この発言

を若干割り引いて考える必要があると思います。

 とはいえ、聖書を素朴に読む、といいながら、ディス

ペンセーション説の視点から、私自身聖書を理解しよう

としていた部分があり、時代区分をあまりに厳密に考える

あまり、誤った聖書理解につながりかねなかった危険性

を感じます。私自身は、1980年代最初のころの再臨ブー

ムに感じた違和感とその影響を目の当たりにしたことが

原因になっています。預言書を個人としては学びますが、

公式には語らなくなりました。というのは、一つにはそ

の場所を学ぶことで、そこにのみ歓心を持つ人が生まれ

たり、学んだ結果を誤解して行動する人が現われる可能

性についての問題と、確実でないものに対して公式の場

で言及することによる悪影響があるからです。

 全ての信仰者が、相対視することができないわけです。

とりわけ、判断力や批判力に欠ける20歳以下の信者さん

に対する影響を考えると、慎重に語ることを検討すべき

かな、と思います。

とはいえ、将来に関する危機意識を燃料にしながら、伝

道を熱心にしてきた部分が、この議論の背景にもあり、

預言を積極的に学ぶ人から見れば、私なんかの立場は、

聖書をいい加減にしか学ばないと批判されるでしょう。

あるいは、聖書の学びに偏りがある、とされるでしょう。

ひどい場合は、福音をつたえていない、と言われる方も

あるかとは思いますが、信者に与える悪影響を慎重に考

えると、預言に関して聞かれれば、個人的見解として語

るけれども、聞かれない限りは、個人研究としてとどめ

ておくのが良いのかなぁ、と思っています。細かな預言

解釈に立ち入らずとも、福音を語ることはできるように

私はおもうのですが。

BassのBackgrounds to Dispensationalismの18ペー

ジにはディスペンセーション説のBassが考える特徴

として、次のことが挙げられています。詳細は、

それぞれについての部分のBassの見解を紹介しま

すが、ここでは、その特徴と注としてその概要を

紹介します。

(1)聖書の解釈における非常に厳密な字義通りの解釈
(注:象徴的表現と思われる部分でも、字義通りの
解釈の適用を求める態度)

(2)イスラエルと教会の間の二項対立的な考え方
(注:イスラエルと教会の間を、極端に対比的に
捉え、相互に対立概念とする考え方)

(3)王国に対するユダヤ的な概念
(注:聖書の王国(神の国)ということをユダヤ的な
理解を強調して捉える概念。イエスの神の国という
表現をユダヤ的王国概念との対比で理解する傾向)

(4)延期された神の王国
(注:神の王国は、イエスの段階で存在したのでは
なく、その到来は延期されているとする考え方。
(3)の概念から導かれる概念で、イエス以降ダービ
ーの時代まで、国民国家としてのユダヤ人国家が
建国されていない以上、神の王国は延期されてい
るという概念)

(5)律法と恵みの区別とそこから導かれる人間に対
 する神の関与の違い

(注:救いに関する見方の違いが律法時代(イエス
以前)と恵みの時代(イエス以降)では異なり、両
者を対比的に捕らえる考え方)

(6)聖書の分断化
(注:時代属性により、聖書が示唆している対象が
限定されること。ある特定の聖書の部分は、特定
の人間(ユダヤ人)にしか意味を持たない、という
考え方。このことが明白に意識されていないことが
多い。)

(7)艱難前携挙説
(注:艱難前に信者が空中に引き上げられる、それ
が地上に戻るという説)

(8)大艱難時代の存在理由に関する見方
(注:大艱難は、キリスト信者が取り去られ、
王国の福音(ユダヤ人向けの福音)が語られ、キリ
ストが戻る王国となるという説)

(9)キリストの千年支配の性質に関する見方
(注:千年王国は、神権的な政府が確立され、
旧約時代の預言が実現し、ユダヤ王国の復権が
成されるという説)

(10)永遠の状態に関する見方
(注:黙示録21・22章に預言された文字通りのエ
ルサレムは物理的空間を持つ実際の都市であり、
そこに境界をなすものが全て永住するという説)

(11)キリスト者全体の使徒としての性質に
  ついての見方

(注:本当の信者(使徒としての特質を持つ)だ
けが真の教会を形成し、それ以外の本当に改心
していない人からなるキリスト教会はありえな
いという説)

(6)の聖書の分断化など、一部には、強調され

ない考え方もありますが、基本的には、現在

語られているディスペンセーション説には、

これらの仮説のいくつかを取り上げ、それに

独自の解釈が付与されたり、一部が削減されつ

つ、基本的にこの聖書理解に乗ったテーマで、

聖書からの理解や解釈が語られていることが

時にあります。特に、預言や天国の話をする

ときには、かなりこの路線に乗った線で語ら

れていたことが多かったなぁ、と思います。

預言解釈をしてはならない、あるいは黙示録

を学ぶ必要はない、ということではありませ

んが、分からない、態度保留という態度を

持つ勇気が重要かなぁ、私自身はと思います。

なんでも解釈できる、何でもあるやり方で理

解できるというものではないと思いますし、

特定の見方で聖書を見て、聖書に忠実という

主張には、無理があるかなぁ、と思います。

次回以降、この概念についてBassの議論を

追いながら、考えてまいりたいと思います。

 Bassの本 Backgrounds to Dispensationalism から

紹介していきたいとおもいます。ディスペンセーション仮

説の一つの特徴は、ユダヤ人社会とキリスト教の社会の

明確な区別です。

 艱難前説に立つ人々は、キリストが実際に地上で支配

する王国があるものだという立場に立ってきました。

 ディスペンセーション説では、将来の王国は、ユダヤ人

の王国(ダビデの王国)の再興であり、それはキリストに

よってユダヤ人に与えられたものであるけれども、ユダヤ

人が拒否したために、その王国の上に教会があるという立

場がとられるようです。

 その結果、ユダヤ人の王国と教会の間に際立った対比関

係を置くと同時に、教会とユダヤ人に語られる福音に対比

関係を置くことになります。具体的には、イエスの語った

福音は、王国(神の国)に関するもので、恵の福音は、

パウロに対して明らかにされるまで教会では語られること

がなかったとされるようです。また、ディスペンセーショ

ン説では、神の国と天の国が違うものとしてとらえます。

神の国は、人の心の中にある神の永遠の支配のことであり、

天の国は、神の地上における支配のことだ、とされていま

す。また、律法と恵と救いの基礎に関する違いも対立的に

捉えられます。

 (個人的には、この様な神の国と天の国を区別したり、

ユダヤ人と教会、律法と恵を対立的にとらえる考え方に

は、疑問を覚えるので、そのあたりが、私がディスペン

セーション説に否定的な理由かもしれません。)

Harry A. Ironsideは、この考えに立っているようです。

この考え方は、Ironside(1940),The Lamp of Prophecy

の40ページにこれにかかわる文章を見ることができます。

 もう一つの特徴は、時代区分のシャープさです。この

明白な時代区分のあり方は、ディスペンセーション説の

大きな特徴なのですが、キリスト者の信仰の伝統のなか、

過去の信仰者の考えの中にはないもので、この説以前の

前千年王国主義の中にも見られないものだ、とBassは

その著書の中で主張しています。

たぶん、このようにシャープに区切っていこうとした背

景には、啓蒙時代というか、産業革命時代を経て近代社

会に向かっていく中で、わかりやすさというのか、理論

の切れが、理性の時代の中で、求められたのだろうと思

います。その意味で、この考え方も、時代の子という雰

囲気を免れないように思います。言い方は悪いですが、

学習参考書的なわかりやすさ、インパクトの強さが求め

られた結果の仮説だと思います。

 そもそも、聖書って、そんなにわかりやすいものでは

ないし、そこが聖書の味だと思うのですけれども。

 この仮説には、19世紀のアメリカ人スコウフィールドと

いう人が注釈をつけた聖書(オックスフォード大学出版

から出版されたKing James Version)が20世紀にアメリカ

の伝道熱心な福音派の人々の間で、広まりました。特に、

巡回牧師(大草原の小さな家のオルデン牧師も巡回牧師)

の方々や、めったに巡回牧師が来ないが地域が多かった

開拓時代の中西部では、自分たちで聖書を読み、語らな

ければならなかった地域も少なくありませんし、そもそも、

教会に行くのに何十キロも行かないといけない地域もあり

ましたから、その時代では、家庭集会が教会の代用であり、

そういう時代のそういう地域で、大変重宝された書物です。

この時代、註解書を持つことが困難な人たち、特に、開

拓民に奉仕する巡回牧師には、一冊である程度処理でき

るお便利聖書として愛用されたし、そういう奉仕に当た

る牧師を教育する機関では、この聖書を進めたのも、

無理ないかなぁ、と思います。今であれば、キンドル

(アマゾンが最近出した電子ブックのリーダー)が一

つあり、そしてインターネットさえつながっていれば、

かなりの聖書に関連する情報に質は別としてアクセスで

きるわけですが、馬に乗って、荒野をいく牧師にとって

みれば、スコフィールド版聖書は強い味方だったでしょ

うし、近くの町まで、30キロ以上、馬車で移動しなけれ

ばならないため、家庭で礼拝をすることを選択せざるを

得ない開拓民にとっては、この聖書は便利であったと思

います。

 新聞と一緒に開拓していった、とも称されるアメリカ

人(アメリカでは、郵便で都市部の一流誌をとることが

いまだに一般的)でもありますから、聖書と鍬や鋤と銃

を馬車に乗せて、開拓に行く移民たちの支えとしてこの

スコフィールド版聖書は、有効だったのだと思います。

 ところで、C.I.スコウフィールド(またはスコフィー

ルド)という方の書かれたものが、日本語に翻訳されて

伝道出版社から出ています。その名もずばり、「聖書を

正しく学びましょう」。ほとんど、ちびまる子ちゃんに

出てくる丸尾末夫君の乗りですね。Scofieldの「聖書を

正しく学びましょう」という翻訳書の、21ページ

には、『聖書では、アダムの創造から…通常、「時代」

と呼ばれる七つの、お互いに長さの同じでない期間に

分けられている。』という表現がありますが、聖書自体

には明確に7区分が分けらる理解があるともとれる表現

となっていますが、このような7区分があると聖書自体

が主張しているわけではないようにおもうのですが、

この本を素直に読んでいると、7つの区分に分けられて

いるような気になった人が出ても、おかしくありません。

オリジナルの英文テキストを見てないので、何とも言え

ませんが、なんともまずい表現だと思います。

 とりあえず、ディスペンセーションの考えを広める

ことに影響が大きかった人物であるScofieldの聖書理

解を知るうえでは、大変参考になる本だと思います。

このディスペンセーション仮説と聖著の逐語霊感主義、

聖書中心主義、あるいは象徴的解釈を否定した聖書字

義解釈主義(literalism)は密接に結びついています。

 普通の福音書や書簡類はそのやり方でもある程度理

解を進めていけますが、極端な聖書字義解釈主義にた

った場合、パウロ書簡などで非常に偏った解釈を生み

だしかねない問題を含みます。もちろん、翻訳の問題

もありますが。

 とりわけ、黙示録解釈において、この聖書字義解

釈主義は大きな問題を生み出します。もともと、黙

示として象徴的に書かれたテキストを字義的解釈主

義に立って理解した場合、かなり無理のある解釈が

生まれやすくなります。

 特に、時間経過の理解が黙示録の表示順だとして

理解するような極端な聖書字義的解釈主義であると、

聖書の理解に破綻を生じてしまうことがあり、それ

を回避するために、かなり無理な論理構成となるこ

とがおこります。

 黙示として書かれたことは、黙示として、象徴と

して語られたことは象徴として理解すべきだろうと

おもいますが、象徴的解釈も、行き過ぎると変な解

釈になることが多いので、その点での留意は必要で

すが、いずれにせよ、伝統的には、極端に至らない

字義的解釈主義と極端に至らない象徴的解釈主義の

中道を行くような(これは革新的ではないものの、

伝統的に取られてきた聖書解釈の立場だと思いま

す)聖書解釈の必要性を感じます。中庸の精神の

大切さを感じるのは、筆者のおじさん化が進んで

いる証拠かもしれません。

 おおむね、日本のキリスト集会では、極端な字義的

解釈主義に立つ方は、比較的少ないのですが、やや

偏った字義的解釈した結果、結果として象徴的解釈

?と考えたくなるお話しをときどきお聞きしますの

で、あれ、っと思うことがあります。

 それらを包摂できるのも、キリスト集会の美点な

のだと思いますし、それを受け止める精神的な鷹揚

さ、聖書理解に関する鷹揚さを持てればいいなぁ、

とはおもいます。そもそも、キリストの体である

教会は、さまざまな考えを持つ信者全体を包摂して

いるので、キリスト集会がそういう考えの方を包摂

するのは、むしろ当然と言えるかもしれません。

その意味で、神学理解としても多様だと、思いま

すし、そうあってほしいものだ、と思います。だ

からこそ、ディスペンセーション説にやや否定的

な視線を持つ私が、このグループでもしぶとく生

き延びていられるのかも、しれません。

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