ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレンと預言理解

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■これまでディスペンセーション論に明確に触れてこなかった理由
 確かに、ディスペンセーション論とブラザレンの聖書理解には密接なつながりがありますし、多くのこのグループの信徒は、この理論に強く影響を受けてきました。しかし、そうであってもこの理論に触れてこなかった理由は、いくつかあります。まず、前回、前前回と触れたように、理論であるが故の危険性があるからです。包丁が、おいしい料理を作るためにも使われるのと同様、人を傷つけるためにも利用できます。それと同じように、ディスペンセーション論も、人々を福音にひきつけることができるのと同様、人を不必要な不安に陥れることもできます。これが、最大の理由です。
 ただ、別に、ブラザレンからこの理論が出たことを恥じる必要はないと思っています。ダービーが活躍した当時の時代背景、社会の現実を考えれば、ある面当然のことだからです。しかし、その理論を当時の時代背景から切り離して、理論を現代の社会に一人歩きさせることは、まずいかなぁ、と思います。ですので、この理論に関する私なりの整理ができ、ブラザレンの信徒の方が、必要以上に悩まないため、それぞれの方の信仰に不必要な疑念を挟むような説明にならないような説明ができるまで、思索的冒険を少し繰り返してきた、ということがあります。ただ、Luceさんのようなコメントが出なければ、この私の思索的冒険の結果を文章化してみようと思うこともなかったろうと思います。
 これまでぐだぐだ書いてきたことは、私の思索的冒険の結果であり、一部事実に基づいているとはいえ、推測に基づく部分がかなりあります。ですから、皆さんも批判的に考えていただければ、と思います。特に陰謀史観などにコメントしていただいても、お答えできないことのほうが多いです。答えられないのは、一次資料、二次資料などの資料が手元にないし、日本国内でそれを探すことが困難だからです。それぞれの方が、ご自身で資料をお集めになって、お考えいただいて、できれば、どこかでご発言、ご発表いただき、情報提供いただければ、より多くの方の益となる、と確信しています。
同胞組合(http://www.geocities.jp/nozzon0602/)という『のっぞん』さんのサイトがものすごく有益なのは、私にとっては、だらだらと長いなぁ、と感じたブロードベントの本のポイントだけを抑え、独自の調査データを整理してご提示いただいている点です。いち早く自分たちのあり方を客観的に整理してみようという『のっぞん』さんの見識とそのための努力には、心から敬意を払っています。どうも、この背景には個人的に直面された出来事があったようですが。
 
 あと、いくつかこの理論に触れてこなかったことには理由があります。それは、まず、非常に個人的な体験があるからです。私自身、触れたくない過去があるからです。でも、正直にここもお話しておこうと思います。私は、中学生の時に、この理論に基づく宇野正美さんという方のお話をテープに録音したものを聴きました。この方の著書も1冊だけ読みました。山本杉広さんが書かれた、預言解釈の書籍も読みました。もともと、批判精神だけはあっても、批判するための知識とそのための思考訓練ができていないおばかな中学生のことです。今でも、そうかもしれません。なので、きっちり、この理論に高校生の1年生くらいまではまりました。でも、別の教会に通っていたオーストラリア人の留学生のクリスチャン(当時彼も私も同じ学校の高校生)から、そのような預言を理解するための聖書的根拠は何か、と聞かれたとき、私は返事ができませんでした。調べました。その結果、聖書のメインのテーマではなさそうだ、ということに気付きました。だとすれば、そちらのメインのテーマを十分考えてみることが重要かなぁ、と思うようになったのです。なので、このテーマを中心にすえることをやめてしまいました。

 私が大学に入ってからは、現実の複雑さを知れば知るにつけ、ディスペンセーション論そのものよりは、聖書の奥深さを知り、もっと言えば、聖書を通して神との交わりの奥深さを知りたいと思うようになったからです。大学時代に、ロイドジョンズ、パッカーなどの著作に触れ、こんな考え方の人々がいるのか、ということに気付いたからかもしれません。このディスペンセーション論を極めるより、もっと大事なことがありそうだと個人的に思うようになったこともあります。ロイドジョンズ、パッカーなどの信者のように、聖書そのものを通して、神ご自身を深く知りたい、と思うようになったこともあるかもしれません。彼らの著作に触れていく中で、陰謀史観的な要素を含んでいた70年代末から80年代半ばの日本で語られたディスペンセーション論に基づく社会事件の読み解きのお話や預言への関心そのものが私の中で急速に色あせてしまった、というほうが正確かもしれません。この25年余り、所属したキリスト集会での講壇に立ち、福音のお話しする機会(分かりにくい話を忍耐をもって聞いてくださった皆様には、感謝しています)がありましたが、1980年以降、現実社会の出来事や新聞の記事を導入として福音を語ることを避けてきました。それほどまでに、私の聖書理解に大きな影響を及ぼしたのが、このディスペンセーション論でした。最近、ようやく冒険ができるようになりましたが。

また、大学時代に、このディスペンセーション論のお話の被害者ともいうべき方からお話を伺う機会があったことも、このディスペンセーション論への否定的な視線を強めていった、と思います。お話をお伺いした方(関東の男性信徒)ご自身は、ご自身が被害者とは、これっぽっちも思っておられなかったようです。私より年代的には10歳くらい上の方でした。今50代の半ばの男性信徒の方です。その方が高校生のころに、オイルショックを背景にこの理論が日本のブラザレンの教会(キリスト集会)でも、かなり大きく取り上げられていたそうです。その中で、再臨が近いなら、進学の意味は、勉強する意味は、という疑念を持ち、なかなか勉強に手がつかないという状況に直面されたようです。心を騒がせないように、それがイエスの教えではなかったか、と思うのですが、どうもあの時代はそうでもなかったようで。
 
次回、最終回です。

 まず、毎日10人程度しかアクセスがなかったこの超マニアックなブログに、最近アクセスが増えています。預言を扱うからでしょうか。将来どうなるか、皆さん、知りたいんですね。でも、そんなこと、わかんない、というのが私の立場。そんなことを気にするより、神様との関係を深めてね、というのが私の考え。ただ、最近、この手の再臨についての話があったよぉ、って話がちらほら聞こえてくるので、全く問題のない説じゃないんですよ、ってことを説明しておいたほうがいいかな、と思っているので、触れているだけ。
このディスペンセーション論が完璧に間違っている、というつもりはありません。歴史的背景の中で生み出されてきたものだけに、いくつかの課題があることはいっておきたいというだけです。私にはこの理論が納得できかねる部分があるだけ、その理由を説明しているだけです。再臨と千年王国の時間的経緯の議論は、議論として面白いけど、結局、想像の域を出ない。実証できない以上、その日を楽しみにして待つほうがいいのかな、と思っています。

 前回も触れたように、かなり危険な要素が紛れ込む理論のような気がするので、この理論を批判的な意識を持たないで聞かれる方が多い場合、この理論が一人歩きすることの危険性を強く感じます。封印すべきとは思いませんが、個人の知的冒険のレベルにとどめおくほうが良いと思います。

■理論の持つ有用性とその怖さ
 ディスペンセーション論、ケインズの一般理論であれ、なんであれ、理論は、現実を単純化したモデルです。モデルは、私たちに現実の複雑さを取り除き、単純化したものですから、分かりやすいものですし、現実を分かりやすくして、分かったような気にさせてくれます。

 ○○論や○△説といったモデルが怖いのは、それが一見まともに見えれば、見えるほど、あるいは自分たちにとって都合がよければよいほど、それを無批判に受け入れる人々が出てくるところです。この○○論はあたっている、この○△説はあたっている。従ってすべてそれで読み解けるはずだ。という理解に立って、その上で聖書解釈やら、時代の解説やら、社会経済現象の理解を進めていこうとする人々がおられます。個人的には、一つの仮説に基づき、全てのものが体系的に理解できる、というのは人間がそもそも多様であり、世界が多様である以上、かなり無謀な論理だと思います。理論には、限界がある、ということを踏まえた上で理論を用いる人たちは知的冒険をしています。しかし、理論というものと、日常生活の一部として格闘することの少ない一般信徒に理論に限界があるということを知っておいてね、と求めることは、酷というものでしょう。だからこそ、確証のない説やモデルをあてはめることは避けたいと思っています。

 人は、いろんな意味で限界をもった存在なので、一旦、そのことが本当だと思えてしまうと、何でも、人は無批判にその理論にそった解釈を受け入れてしまいやすいこと、その論理に従って全てのものをみてしまう、という罠に陥りやすいことは事実なのかなぁ、と思います。

 わが国において、言論は、自由です。何を言ってもかまいません。でも、人を不安にするようなこと、人を不幸に陥れること、福音伝道で語るべき要素であるとはいえ、福音伝道のための手段と受け取られかねないような方法で、いろいろな受け取り方ができる預言に関する部分について言及し、その解釈を述べることは、私としては、厳しく謹もう、と思っています。もちろん、この理論は、世の終りは近い、だから、福音を伝えるべきだ、という理解を与え、福音伝道をする意義を、この理論が出てきた当時のブラザレンとその周辺の人々に非常に強く印象付け、福音を熱心に語っていった、ということは、重要だと思います。ただ、福音宣教のためというカンバンのもと、人々を不必要に不安に陥れるようなアプローチは、本当に適切だろうか、と思います。

 人は、将来が見えない。だから将来が気になる。それを解き明かすかに見える理論のように見えるものがあるとすると、それにすぐ飛びつきたくなる。それは人間の素直な性質だと思います。だからこそ、注意しなければならないし、興味を引きそうな理論であればあるほど、その理論に批判的に考え、慎重に考える習慣を持つべきだと思うのです。できたら、普通の信徒の方も。そのような、信徒の方を育て、集会全体が成長するよう取り計らう長老などの指導者たちの役割は重たいのだなぁ、と改めて感じます。

以下は、ディスペンセーション論全般に言えることではありませんが、ブラザレンの中で作り上げられていった、また、1980年代に日本のキリスト集会の中で伝えられたディスペンセーション論には、かなり当てはまると思います。なお、ディスペンセーション論の全てがカルト的な要素を持つ訳ではありませんし、ディスペンセーション論は、一種の聖書理解の方法論だと思います。私は、単純な適応に批判的ですけど。

■シオニズムのにおいが強すぎる点
 旧約聖書の預言を扱う関係もあり、時代背景もあるのでしょうが、イスラエル国家の再建、ユダヤ人への異様な関心がこのディスペンセーション論の背景の一部をなしています。ユダヤ人は、確かに神の選民、それは間違いないでしょう。出エジプト記で、モーセに対しても、アブラハム、イサク、ヤコブの神と名乗っておられるのですから。ただ、イスラエル(ユダヤ人)への約束を根拠としたイスラエル(ユダヤ人)への優位性について、必要以上に焦点を当てるのはいかがなものかと思います。
 シオニズムへの関心や傾倒が進んでいくと、どうしても、ユダヤ陰謀史観との関連性が強くなってしまうようです。となると、推測が推測を呼んでいく世界になりやすいように思います。シオニズムの問題は議論が紛糾するので、これ以上は触れるのはできないとおもいます。仮に、コメント、ご質問いただいても、私には答える能力がありませんし、そのつもりもありません。私はシオニズムの研究者ではないので、信頼できる1次資料、2次資料が私の手元に資料がなさ過ぎて、分からないというのが実情です。この話を考えるとき、存在するか否かだけではなくて、資料そのものの歴史的信頼性(捏造の可能性)を含めて検討しないといけないので、それは私の手には負いかねます。お好きな方で、ご検討いただければ、と存じます。

■間主観的に証明不能な陰謀史観に結びつきやすい点
 シオニズムのにおいが強すぎることのところでも触れましたが、シオニズムは、ユダヤ陰謀史観と結びつきやすいようです。
 19世紀においても、社会的な地位は低くても、経済的な地位が高いユダヤ人コミュニティに対して、反感的なものが当時のイギリス社会には、あったようです。この辺は、Chariot of Fire(炎のランナー)の雰囲気を伝えてくれています。いまひとつ、日本人には、ぴんと来ないでしょうけれども。
 特に、ユダヤ人コミュニティは、比較的閉鎖的だったようです。ビジネス上の利益を守る、ということもあったようです。このコミュニティには、経済的に裕福であっても、民主主義制度下にあっても政治的関与がなかなか認められない当時のユダヤ人の扱いがあったようです。イギリスにおいても、ユダヤ人コミュニティは、社会の外延部にあるコミュニティでしたから、一般の人には、その内部の様子が分からない。したがって、何かしらまずいことがあるのでは、という疑念を人々が勝手に想像したのだとは思います。確証はありません。シオニズム運動が、政治的な運動でもある以上、何かしらの陰謀があるのかも、という当てこすりに近い憶測を人々は持ったことでしょう。なんとなく、このディスペンセーション論の立場の方のお話を聞いたたびに、そのような印象が拭い去れないところがあります。
 閉鎖的な集団が誤解を生みやすいといえば、エクスクルーシブブラザレン(コンネクシアルブラザレンとも呼ばれます)と呼ばれるグループの一派であるテイラー派ブラザレン(ダービー派の関係がもっとも深い、Stoney, Raven, James Taylor Snr, James Taylor Jnr, と続いていったグループ)も閉鎖性が強いこともあり、不必要な憶測を生み、また、それが他者からの批判を生み出す要因ともなっているようです。

 先にも書きましたが、旧約聖書は、アブラハムの神、イサクの神、イスラエルの神という表現があり、アブラハムの子孫への神の祝福は約束されたものなので、イスラエルの祝福の約束と陰謀史観がくっつくと、いろんな想像がめぐらされやすいことになります。個人の頭の中で空想しているだけなら、知的冒険で済むのですが、その空想が責任者や評価を受けている人物の口から発言され、聞いている人々に自然に定着すると、それが事実として印象付けらる聞き手がでてくる可能性が大です。そして、聞き手は、聞きかじった知識を可能性として捉えず、それが真理と思い込み、適当なことを知り合いに伝える可能性が大です。その理解が一つの考え方でしかなく、その真実性の検証が十分されていない、ということはすっかり忘れて。

 聞きかじりの知識を元に話すことの危険性についての実話をお話しましょう。10年以上前、自衛隊を国連の治安維持活動に参加させるかどうかの議論が国会でなされていたころのことです。駅で電車を待っていたときのことです。ある中年女性が、その友人と思しき女性に向かって、「今PLOとかいう組織があって、とにかく日本の自衛隊がそれに参加できるようにしなきゃ・・・」と大声でご発言されているのが聞こえてきました。一瞬過激派か、と思いましたが、聞こえてくるお話を耳にする限り、どうも、公明党の関係者の方のようでした。しかし、自衛隊がPLOに参加するなんて発想は、怖くって。「PLO(Palestine Liberation Organization)」と「PKO(Peace Keeping Operation 平和維持活動)」と「PKF(Peace Keeping Force平和維持活動に当たる国連軍)」とがごっちゃになった例ですね。

 さて、人の記憶は、都合の良いこと、印象が深いことだけを記憶するという性質があります。ディスペンセーション論は、聖書の歴史について、分かりやすい理解のしかたを提示するというところに最大の特徴があると思います。しかし、それは、単純化されたモデルにすぎないと思います。理解の容易さを確保するために歴史を大幅に単純化したモデルです。聖書を分かりやすく理解する為の非常に単純化されたモデルということがおき去られ、モデルそのものとその周辺であるべき終末への関心だけが残る、ということの危険性を感じます。

とはいえ、手段の目的化は私も時々してしまうので、そうなってしまっている方々を非難して終わり、というつもりはありません。世の終りが近いかも、という気持ちを持つのは大切。だから福音を伝えたい、ということも大切。でも、普通の人たちの危機感を不必要にあおって伝道する、という発想は、「手段が目的化してるんじゃないかなぁ。」と思うと同時に、「危ないなぁ」と思います。

もうちょっと続きます。

ディスペンセーション論に批判的な理由

 で、ディスペンセーション論は、ある面、聖書とその周辺について、そして、予言解釈について、聖書全体を見渡す、非常に単純化された、従って、わかりやすい整理のしかたです。ただ、欠点もいくつかあると思います。全ての理論に欠点があるように。個人的に、ディスペンセーション論は、聖書理解の一つのあり方だけれども、という立場で受け止めています。ただ、この理論に対して、個人的にやや批判的な理由には、いくつかあります。ただ、この論に立つ人々への批判ではなく、論そのもの自体になじめないところがある、ということです。

■その神秘性
 基本、多様な解釈がありえる預言を対象にしているのだから、その解釈は、どうしても霊的、あるいは神秘的にならざるを得ないところがあると思います。ただ、それ以上に、いろんなところでダービーがもっていた神秘主義の影響が見られるところです。

 例えば、時代を7区分していますが、これは、おそらく7が完全数(7日目が安息日で、1週間が7日で構成されることなどが根拠かと)であるという意識から、それに依拠して7区分しているようです。確かに、7というのは、ユダヤ人にとって独特の意味をもつようですが、7が完全数であるといったような聖書の明白な言及はないので、この完全数という考え方も、かなり象徴主義的な解釈が入り込む余地があるという意味で、グレーなものを感じます。この辺の神秘主義的なところが、まず、どうもねぇ、と思うところです。7区分以外のディスペンセーション説もあるし、作りうるでしょうけれども、キリスト集会で以前語られていた説明は、7区分による説明が多かったように思います。

 この前の記事でも書きましたが、ダービーは、神秘主義的なところがあったらしく、なぞめかして(この時代の雰囲気としてもそうだったようです)書いたり、話したりした事が少なくなかったようです。それと、ダービー自身、聖書翻訳家(欧州言語での聖書の翻訳をしている)という性質も持っているので、聖書風の表現をしようとして、神秘主義的な表現を好んだのではないか、という説もあるようです。

■歴史観といいつつも、終末論との強固な結びつき
 前回も書きましたが、終末が強く意識される時代背景の中で、終末への期待を持って書かれた理論であることから、どうしても、聖書全体の歴史理解、というよりは終末を聖書中でどう位置づけるか、ということに関心が行きがちです。そういう意味で、歴史のものの見方よりも、預言理解といったほうがよさそうです。将来の天の国を想像する自由はあると思いますが、それとても、多様な解釈がありえるので、明白にこうだ、と複数の聖書箇所から指示されない限り、天国の予測としてはグレーかな、と思います。その意味で、歴史におけるキリストの十字架の独自性という点の議論よりも、終末についての考えが中心で、永遠のいのちそのものへの関心はおまけみたいなところが薄いことがあります。もちろん、キリスト者に向けての聖書理解ですから、いたし方のない部分があるのですけれども。

■預言の多重的解釈の可能性への軽視
 聖書の預言の、一つの預言の箇所が、歴史的な様々の事件の度に、その箇所が成就したと理解されてきました。としたときに、ディスペンセーション論のような単純化した考え方で、説明してしまってよいのだろうか、ということがあります。様々な時代の人が、様々の預言の箇所を、自分たちの時代で発生したことと理解できる、と思ったようです。例は、いちいち挙げませんが。
 だとしたら、聖書の一部の箇所をとって、このことは、今のこの事象に対応した預言の成就であって、という個人の解釈を考えることは自由ですし、それを公表することも言論の自由が許されている国では、して良いと思いますが、本当にそのことが預言の成就であると、かなりの長期間はなれた人々の間で間主観的に認定することが、非常に困難である以上、グレーな部分が含まれてしまう危険性を持っていると思います。

■旧約聖書についての時代区分の単純さ
 確かに、神様側からは律法が与えられている、とは言うものの、預言者も与えられたし、王制への移行もあったし、永続建造物としての神殿の存在、破壊、再建なんかを考えると、もういくつか、時代区分を入れてもよさそうに思います。歴史に関する理解のあり方だとすると。士師記のような時代と、王制以降の時代は、随分雰囲気が違うように感じるのですが。また、バビロン捕囚以降もそうです。ただ、そうすると、7以外の数となってしまうので、無理やり一本にしている感じがするあたりも、ディスペンセーション論に違和感を覚えます。歴史学者が作った理論でないものに、文句を言うべきではないという批判があるのは理解いたしますが。

ここまでは、多分、ご納得いただけるでしょう。ここからは、議論が分かれます。

 ここからはダービーの思想展開に関する個人的な想像ですが、『教会が世俗化し、堕落し、経済社会は当時の資本主義社会の問題点が非常に大きなものとなり、社会不安が増している中で、今が教会時代、恵みの時代であるとすると、これは終末が近いに違いない。今はまるで、ノアが箱舟を作った時代のようではないか。終末が近いとすれば、再臨と千年王国は近いはずだ、だとしたら、本当に救われるべき人たちに福音をもっと熱心に伝えるべきだ、今は世の終りなのだから』、ということで熱心に福音を語るエネルギー源にしたのだろうと思います。

 以下も個人的な推測です。ジョン・ネルソン・ダービーは、19世紀の困難な時代とそこからの神の救済として、自分がまもなく発生すると考えた再臨を歴史的に位置づけるためにディスペンセーション論というアイディアを得たのだろうとおもいます。おそらく、第2コリント6章2節の今は「今は恵みの時、今は救いの日です」という聖句から、時代を区分することを思いついたのだと思います。それを何とか、分かりやすく、そして、聖書的だ、と自分が信じる形で説明できないか、それを考えていった結果、ディスペンセーション論になってしまった、ということだろうと思います。(でも、当時の時代環境で、ダービーと同じ環境におかれたら、私も同じように考えないとはいい切れないところが、怖いところです。その意味で、個人的にダービーを非難できないかな、と思っています。)

 そのような意味で、ジョン・ネルソン・ダービー自身、再臨が近いという確信を持っていて(これも、Coadにも書いてあります)、彼が生きている時代に再臨がありそうだ、とかなりまじめに思っていたようです。少なくとも19世紀後半には、再臨がおきると思っていたようです。こういう再臨が近いと考えている思索家が現実に直面し、思索を深めていく中で、ディスペンセーション論という時代区分説が生まれてきた、という背景をある程度理解して、この説を考えたほうがよいかなぁ、と思っています。つまり、このディスペンセーション論も時代の申し子だと、考えています。時代と理論を切り離して考えるのは、個人的には危うさを感じます。

 で、このディスペンセーション論が普及していくために大きな影響を与えたのが、スコフィールド版聖書(欽定訳、KJVに簡単な解説のついた版の聖書、オズワルド・J・スミスの本にこの版の聖書を読んでいるという記述があったような気がします。)ですが、この聖書がでたのが1909年。第1時世界大戦のちょっと前。この聖書が出た直後に発生した世界大戦は悲惨なものでした。第1次世界大戦までは、馬と人による戦いの時代。第1次世界大戦では、戦車、毒ガス、飛行機といった新兵器が登場し、最初数週間で終わる、とピクニック気分で始まったこの戦争も、新兵器による被害の拡大と悲惨な塹壕戦が数年も続く形で、延々と続いたわけです。ハルマゲドンとは、この戦争のことか、と思った人々もいたでしょう。終末がここでも強く意識された可能性は大だと思います。そして、その後、ヨーロッパでは、敗戦国ドイツでは、深刻な経済不況があった時代でした(だからナチスドイツが生まれたのですが)。

 続く1920年代は、アメリカでは、ゴールデンエイジを迎え、人々の経済は活性化し、豊かさは増して行くものの、経済的繁栄を誇る都市部では、人々の教会に関する意識が薄れ、世俗的な豊かさに焦点が当たっていく時代となります。都市部での世俗的な反映の中で、聖書が忘れられていくことも少なくなかったのだろうと思います。それと同時に1920年代は、大恐慌が起こる直前。都市部の経済的繁栄からやや取り残される形でバイブルベルトと呼ばれる南部、中西部の人々の中では、聖書を中心とした敬虔主義が色濃く残っており、それらの人々に、このスコフィールド聖書の世界観は影響を与えたといえるでしょう。このあたりのことは、小原 克博他著 『原理主義から世界の動きが見える 』(PHP新書)に説明されています。中西部、南部のバイブルベルトで一種の社会の豊かさから置き去りにされた農業社会に住むの人々の聖書中心とした生き方が、1920年代のキリスト教原理主義を形作り、それを支えた聖書がスコフィールド聖書であり、それに記載されていた預言の聖書理解がディスペンセーション論だったということだろうとおもいます。

 いずれにせよ、ディスペンセーション論は、社会不安や将来への不安を持つ時代の人々へ強いインパクトを与えたことは間違いないと思います。
 
 ディスペンセーション論については、いろんなサイトがあるので、まぁ、適当に読んで概要をつかんでください。読んでいけばいくほど、訳が分からなくなるとは思いますが。再臨のあり方と千年王国との関係などについては、いろんなバリエーションやいろんな考え方、批判的なものも、肯定的なものも、並存しておりますので。それをいちいち整理して、評論することは、このブログの趣旨からは少し外れるので。

明日は、批判的な理由をある程度詳しくお話します。

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