ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレンと儀式

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 お葬式が終わると、とりあえず、儀式としては終りです。あとは、お墓を持っている教会(キリスト集会)の場合、「お墓をどうされますか。教会(キリスト集会)のお墓でお預かりすることもできますが」とお話をします。

 個人のお墓をご用意されている場合、あるいはご家族が既にお墓をお持ちで、お墓の管理をしておられる場合、そちらに安置されることもあります。また、ご家族の希望で、教会のお墓に安置する場合もあります。それぞれです。

 ご家族でお墓で安置される場合、その安置するための儀式を行うこともありますし、「そこまでしていただかなくても」といわれる場合は、教会(キリスト集会)としてはタッチしないこともあります。

 何らかの儀式を依頼されたら、日程を調整し、家族の方を慰めるために安置のための儀式(といっても賛美歌を歌って、聖書を読み、祈る程度)を行います。

 教会(キリスト集会)のお墓に安置する場合も同様に、何人かの信者が参加し(全員の場合も、希望者のみの場合もあります)、同様に安置のための儀式(賛美歌を歌って、聖書を読み、祈る程度)をする場合があります。お墓を空けて、安置して、終り、ではあまりに味気がないこともあるので。雰囲気があまりよくないですし。

 仏教式のように、49日だとか、1周忌、3周忌なんかの記念式は原則ありませんが、亡くなったかつてのメンバーであった信徒全体を思い出す記念式をする場合もあります。また、特にご家族からのご要望がある場合、その方のことを覚えるためにも、特別の記念式を挙行することがありますが、休みがとりやすいということもあり、8月15日前後の旧暦のお盆の時期に希望されることもあり、その場合、お盆と誤解されないような工夫が必要になるので、これまた辛いところがあります。

 個人的には、何かの時に(聖書を読んだり、賛美歌を歌ったりするときに)なくなられた方を懐かしく思い出すので、特に儀式は教会(キリスト集会)としては必要ないもの個人の家族を慰めるためには、なんらかの行事があっても良いのかなぁ、とも最近は思っています。

 直接葬儀とは関係ありませんが、『死と悲しみ』について書いておきたいと思います。これは、正直なある信徒の方の告白だったので、書いておきたいと思います。

 その方は、独身の方で、高校生の時にイエスを信じ、それから熱心に教会(キリスト集会)に通い、仕事をし、一生懸命に生きられた方でした。ちょっとユニークなご発言をされる方でもありましたが、明るく、楽しい方でした。結婚はされなかった方でしたねぇ。50歳を過ぎて、がんにかかられ、いくつかの病院で入退院され、余命があまりないということを医師から宣言されて、病院での最後の日々を過ごしておられました。明るかった方なのですが、病気と闘ったためもあるのでしょう。弱気になられることもおありになったようで、時に正直な気持ちをお話くださいました。もともと、正直に思ったことを素直に話される方だったこともあるとは思います。

 あるとき、その方をお見舞いしたときのことです。その方は、こんなことを私に話してくれました。「私は、まだ、もっと生きたい。もっと生きていろんなことがしたい。でもそれは不可能なことは分かっているけれども、もっと生きたいのです。」その方の魂の叫びを聞いたような気がしました。そのあと、その方は、こんなこともお話くださいました。「信者の方がお見舞いに来てくださるのはうれしいのです。きついこともあるが、楽しくなることもあるのです。でも、いくら信者だからといっても、『○○さん、もうすぐ天国だからよかったじゃない、神様と会えるのだから』といわれると無性に腹が立つんですよ。そういってくる人もいるんです。確かに頭ではそうだと分かるのだけれども、私はもっとこの地上で生きて生きたい。そんな信者は駄目なのだろうか・・・。」返す言葉がなかったです。ただ、その方のやせ細った手を握って、一緒に「もしできるのであれば、この苦しみを取り除いてください。あなたが○○さんと共にいてください。」としか祈れなかったです。
 
 自分自身の「神の国と苦しみ」の理解を問い直されるような経験でした。自分たちが信じていることがおそらく聖書から言って間違いがないから、といって、それを他人に押し付けるようなことをして良いのだろうか。悲しんでいる人や苦しんでいる人に、天国にいけるんだから良いではないか、といいかねない自分の無責任さ、無慈悲さ、配慮のたらなさを突きつけられた言葉でした。

 その後、義母をなくし、実父をなくし(両方ともクリスチャン)、その中で、悲しみや苦しみを思う中で、どう考えたらよいのかを模索してきました。いまもなお、模索していますが、ヘンリ・ナウエン(ブラザレンにとっては間違っている対象であるとされているカトリック教会の方なのですが)という人の著作を読んでから、少しづつ、その辺の整理がついてきました。悲しみと共にあるイエス、勝利主義だけでは語れないイエスの理解に達することの重要性を少しだけ学んだ気がします(ブラザレンチックではないですが)。

 他のキリスト教会のグループ関係の方のご葬儀はよく分からないのですが、ブラザレンの信徒のご葬儀では、時にびっくりするような弔電やレタックスが来ることがあります。どんな内容かというと、「○○さんの天への帰還を賛美します。」とか「○○さんが神の栄光のうちに入れられたことを確信します。」「○○さんへの天への凱旋を賛美します」といったような内容のものが時に送付されてくることがあります。時に、その内容を見たり、弔電として読まれるのを聞いたりしながら、私個人は、違和感を感じることが多いのは事実です。

 まぁ、確かに、クリスチャン的な概念からすれば、天への帰還は神のもとに帰ることですからよいことでしょう。天への凱旋と呼べるでしょう。栄光のうちに入る、これも間違いとは言い切れないことだと思います。クリスチャンの目から見れば、死は希望につながっていることは間違いありません。死後の世界を確信しているからです。天にはいることはイエスの約束だからです。
 
 しかし、現実の世界で生きている人間にとって、肉親を失うことは、悲しい、厳しい、腸がねじ切れるような精神的な痛みとも言うべき痛みなわけですから、他の方から上記のような弔電を受け取られた親族の方の痛みを思うと、辛いだろうなぁ、と心からご同情してしまいます。私だけかもしれませんが。そんな弱いことでどうする。イエスはしに勝利した方である。これもまた事実ですが、それは私たちの言い分であって、ご家族がどう思われるのか、ということにもう少し配慮があってもいいかなぁ、と思った(思っている)こともまた事実です。

 で、私はどんな弔電を出すのか、ということについては、「愛されていたご家族を失われた痛みに心よりのご同情を申し上げます。皆様の上に、天よりの豊かな慰めがありますように。」といった内容のものをお出しするようにしています。

 信者さんのお葬式の場合は、これでよいのですが、信者さんのご家族で、信者さんでない方がなくなったとき、意外と対応が困難です。
 
 バプテスマを受けていなくても、病床で信仰告白をした方の場合は、信者さんとしての扱いで、教会(キリスト集会)で葬儀を行います。バプテスマを受けていなくて、信仰告白をしていなくても、子供さんの場合は、信者さんの保護者の方の希望により教会(キリスト集会)でする場合もあります。罪についての正当な判断力がない状態で死亡されたので、キリストを受け入れる必要がない、という理解からです。

 信者さんの親の方がなくなられたときが、実は一番問題で、なくなられた方の喪主に当たる方が信者さんの場合、大きく分けて3つの方法があります。

1)信者ではなかったが、遺族がクリスチャンであるのでキリスト教式で実施
2)無宗教式で家族層のような形で実施(キリスト集会は関与せず)
3)喪主を他の親族に交代させ、他のご遺族の希望する方式(主に仏式)で実施

 1)は信者でないのに、とキリスト教式で葬儀を行うことに若干信者の側でも疑問を持つ方が出る場合もありますし、他のご遺族についても、違和感が残ることもあるようです。まぁ、そのことでもめることはあまりないとは思います。ご葬儀の場合、どうしても時間が限られるのと、遺族はなくなられた事実に打ちのめされていることも多いので、多少のごたごたは吸収されることがおおいので。

 2)が一番、どこにも影響が及ばないかもしれません。

 3)は喪主に当たる方の心に、なくなった方をキリストとであわすことができなかったという信仰上での傷や、当然喪主であるものが喪主とはならなかったというような家族間関係での傷を残すことが多く、これもまた奨めかねる部分があります。


 その意味で、都市部では最近多く行われているような2)の無宗教式の葬儀が実施できれば良いのですが、地方では、葬儀=仏教式というイメージがある葬儀社が多い、キリスト教式の葬儀をしたことがないし、ましてやむ宗教式などはどうしてよいか分からないという葬儀社も少なくない、また、ご近所の方が出てきて葬儀を差配されるときの常識などもあり、なかなか難しいようです。

 召天式(昇天式とはしないことが多い)についてですが、基本的に記念式と同様ですすが、親族にとってはこれが肉親の遺体と対面する最後の時間ともなるので、公式の式部分と家族のための時間に大きく2分されます。というのは、献花の扱いが問題になるからです。献花を礼拝行為と取るか、個人との惜別の気持ちを表現する行為ととるかで対応が異なるからです。
 とくに、イエスを信じていない参会者(未信者)の場合、通常の日本人の習慣的な行為である遺体への礼拝行為としての献花(仏教式のお焼香の代わり)、という意識も強い場合があり、多くの参会者による献花はキリスト集会では避けられているようです。亡くなられた方のご遺族が個人を失った悲しみを覚えるために、献花するのは素直な気持ちとして致し方ないものの、他の方までに、偶像礼拝と捉えられかねない献花をさせない、という理解にたってのことのようだと思います。

開式の言葉
賛美
祈り
聖書から(聖書の死と復活に関する福音メッセージ)
故人の思い出(省略される場合や上の聖書からの中で触れる場合もあります)
祈り
参会者への家族からの挨拶と諸連絡
賛美
閉式の言葉(一応、参会者はここまでとされる)

家族による献花と遺体との最後の対面
 (棺に花を哀悼の意の表現として捧げる場合が多い 葬儀社もそれを奨める)
出棺

斎場への移動と火葬
 火葬の前に、祈りと賛美がある場合もあります。

といった感じでしょうか。ところで、ヨーロッパ系宣教師(主流派は英国系)や伝道者は火葬を嫌がりますね。これはほぼ文化的なものと思います。英国では、異端者を生きたまま火あぶりにして殺した伝統(アングロサクソンの残忍さを感じさせる歴史ですが)があるため、火葬はそれを連想させるらしく、忌避されます。

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