ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

第1世代と第2世代の信者の違い

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

 で、愚痴ともつかぬご相談した第1世代のクリスチャン(クリスチャン

1世)が、私が2世クリスチャンで、劇的な信仰の経験がないことについ

て話してくれたことがあります。

 「私は、あなたたち2世がうらやましい。」一瞬、わが耳を疑いました。

お話をよく聞いてみると、「あなたたち2世には信仰に無理がない。信仰と

信仰に基づきあふれ出てくる行動そのものが自然なのがうらやましい。」

といわれました。個人的には、「これはこれは」という目からうろこの経

験でした。1世は1世で、劇的な信仰はあるものの、それ以前の生活との慣

性(慣れや当然のように染み付いてしまった思考経路)との戦いがあり、

生まれたときから(あるいは自我が完全に形成される以前の段階から)ク

リスチャンホームで育っている2世たちには理解できないものがあるようで

す。それを聞いたとき、『1世には2世に分からない苦労があるものなんだ

なぁ』と素直な感想を持った記憶があります。

 それと、言われたのは、『2世以降の信者には、神の身近さと聖書の知識

の豊かさがあり、1世はそれにどうしても追いつけない』ということでした。

門前の小僧ではありませんが、日曜学校から大人の集会まで、十数年かけて、

聖書知識を知ることとなり、聖書に関する知識は、かなりのものが蓄積され

ます。これは、非常に大きな資産だ、というのです。何の気なしに聞いた聖

書の言葉がぽんぽん出てくる(聖書の箇所はいえないとしても)というのは、

第1世代のクリスチャンにはうらやましいことのようです。これも、そのよ

うなものかなぁ、と思いました。

 2世信者は、いろんな話を聞いていることが多いこと、知識がどうしても

豊富である場合が多いので、聖書のお話についても、若干うるさいところが

あるのは否めないように思います。まぁ、クリスチャンホームには、とりあ

えずは一種生きている聖書辞書としても機能する親に当たる信者がいるとい

うことにおっている部分は大きい、とは思います。

 特に、集会の責任者やブラザレンの中で有名な説教者の信

徒の発言は、大きく影響を与えます。また、そのキリスト集

会の代表者が『聖書的である』と考えている内容が、その集

会の考え方として定着していく傾向にはあると思います。

これは、この運動に大きな影響を与えたジョン・ネルソン・

ダービーの時代からそのような傾向はあったようです。とい

うよりは、ダービーの聖書理解の影響は非常に強く、未だに

影響しているように思います。

 なお、本人は悪気なく、自分の解釈は多分そう考えたほう

が良い、と思っているので、自分の考えを『聖書的だ』とし

て話すと思います。それは悪いことではないと思います。私

もそんな風にして話しているかもしれない、と思うと説教者

の責任は重たいなぁ、と思っています。

 ところで、何が『聖書的』であると考えられる解釈が複数

並立して存在するだろうと思われるものの代表例として、日

曜日の服装、信徒の髪型、子供のしつけ(特に、子供のキリ

スト集会への参加のときのあり方(静かにおとなしくしてい

ることが良いとされる)、わかっても分からなくても親と一

緒に集会に参加することが望ましいとされる(これはかなり

子供にとっては負担が大きい)、子供への関与のありかた、

贅沢を極端に避けること、日曜日の扱い、日曜日における仕

事の扱い、町内会などや他の社会的グループのとの関係性の

あり方などがあげられます。個人的には、これらについては

自己の判断で動いていい内容だとは思いますし、他者がある

方の判断に何らかのことを言う必然性のないことだと思いま

す。

 ところで、2世信者の最大の『強み』は、キリスト集会に

子供のときから通っていることで、大人たちのないげない

会話、両親の会話、そこでメッセージされている内容を繰

り返し繰り返し聞くことで、集会一般として、そして参加

している集会では、何が『聖書的である』と判定されやす

いのか、何が『聖書的でない』と判定される可能性が高い

のか、結果としてどのように振舞うと、最も問題が少ない

のか、というナレッジベースをその人の中に作り上げてい

ることです。

 つまり、キリスト集会の中で、言ったり行ったりしたら

批判される可能性のある言動を熟知しているという側面は

あると思います。

 しかし、こんなナレッジベースは集会の外の教会や、よ

り広いキリスト教会の世界では、通用しないこともあると

いうことを、個人的には経験しました。(紹介状の件で)

 ブラザレンの多くの信徒は、自分たちの考え方が望まし

い、聖書にしたがっていると正統な根拠を十分確かめずに

思っているので、自分たちの理解(聖書的であるとするこ

と)が通用しない状況やそういう信者に直面した時に、自

分たちにも課題があるかも、とは思わず、他に課題がある

のだ、と思い込みがちです。この他者への無理解による批

判は誰しも、やらかしてしまいやすいことですし、私もし

たことがあるので、他の方を批判できません。なお、この

ような行動については、私自身は反省することが多いです。

 このような他者に課題を押し付けるというあり方は、一

時期のアメリカ通商代表部のありように似ていると思いま

す。アメリカ製品が売れないのは、日本の不合理な流通慣

行にあるのでは、という思い込みにとらわれ、『海外製品

(その実アメリカ製品)』に対する市場開放すべきだ、な

んて議論がありましたが、アメリカ製品が売れないのは、

日本製品に比べて、品質や精度の面で問題が多いことがあ

るような感じもします。特に工業製品は、そう思います。

 信仰の面で、アメリカ通商代表部と同じようなことをし

ていないかどうかを自己反省する強さと考える力を大切に

したいと思っています。

 以前お聞きした学びでは、「伝統などに縛られているの

で、他のキリスト教会(教派)は間違っている、とはいわ

ないまでも、教派の教会では一部真理が抜け落ちている」

というお話を年長のある信者さんからお聞きしたことがあ

ります。ブラザレンの信徒の中には、こう信じておられる

方も少なからずおられるようなのですが、その批判は、ご

自身の経験に基づくものではないことが多く、伝聞情報や

文脈から切り離された他のキリスト者グループの信者の行

為の断片的観察の結果によることも多いと思います。個人

的には、ブラザレンだって、完璧ではないし、変わったと

ころがあるのだから、他人に対する寛容な目があってもい

いんじゃないかなぁ、と思っています。
 
 直接聖書が明言していない部分に関しては、個人にゆだ

ねられているといっても、所属しているキリスト教会の他

の人の大半がある考えの方向性に従っている場合、それと

違うことをするのは大変勇気がいることですが、この勇気

というのか、個人としてしっかり考える、ということが、

カルト化を防ぐ第1歩だと思います。

 カルトといえば、ブラザレンの群れから出たグループで

カルト化した信者のグループが少なくともひとつ、それ以

外にも、カルト化したと判定されるかどうかの境界線に近

いグループがいくつかあるように思うので、やはり、個人

個人が真剣に聖書に向かって取り組み、間違っててもいい

から、真剣に考え、間違っていると思ったら、権威という

ものを疑ってみること、闇雲に権威と呼ばれる人々に従う

のではなく、正しいと思うことを適切に主張することが大

切かなぁ、と思います。そのための発言する機会が教会内

(集会内)で確保されていることは、大切だと思います。

とは言いながら、女性には、発言を認めてめていないキリ

スト集会は多いので、個人的には、女性にも、もっと発言

の機会を保証してもいいのかなぁ、と思います(『聖書的』

出ないと批判される方も居られるでしょうが、私は、発言

をお控えいただく、ということが全て『聖書的』だとは思

っていません。。特に、クリスチャンカップルでない女性

の信者の方は、非公式の発言ルートすらない場合があるの

で、そのあたりの配慮というのは必要かなぁ、と思います。

 以前にも書いたとは思うのですが、ブラザレンが活動を

始めた生まれたのは、19世紀中庸、ビクトリア朝時代、非

常に倫理観、ドレスコード(服装や髪型のあり方)やしつ

けの厳しい時期でした。未だにこの影響はブラザレンの信

者の行動パターンの中に、残っています。個人的には、時

代の文化や特定の時代背景の中での行動パターンであり、

どのような行動を取るのかは、基本的には、信徒の判断に

ゆだねられている部分だとは思うのですが、それにしても

特定の行動パターンがあることは事実です。

 ブラザレンの信徒は、聖書を大切にします。聖書に書か

れていることを大切にします。ここまでは、議論の余地が

ないので、それを重視することは大事だと思います。適切

なあり方だと思います。しかし、聖書から読み取られるこ

とも『聖書的』と称して大切にします。何が『聖書的』で

あり、何が『聖書的でないか』の判断は、最終的には、個

人個人このクリスチャンの判断であり、それを第三者にあ

てはめることは、望ましくないと思います。

 しかし、学び会や福音集会の場で、前に立って、多くの

人々に対して自信たっぷりに話している信者(伝道者、宣

教師、説教者、長老、普通の信徒)から『○○であること

が聖書的である』と語られてしまうと、一般の信徒はそれ

に反する考えを持ってはまずいのかもしれない、という疑

問を持つ場合があります。実は、これが危険だと思うので

す。ある人にとって、特定のあり方が『聖書的』であると

思えるからといって、それが他の人にとっても思えない場

合もありえます。

 基本的に、『聖書的である』というのは価値判断の問題

であるので、並存しうるものではないか、と私は個人的に

は考えています。それをある特定の考え方が『聖書的』で

あるということで、その考え方一色で塗りつぶしていくこ

とは、聖書の基本的な立場でもある多様性の原則に反する

ように思います。旧約聖書自体は、実に多様性を謳歌して

いるなぁ、と個人的には思っています。

 ただ、人間は弱いものです。権威と称される地位を持っ

ている人や自分よりも聖書を知っていそうな人から、集会

の中でも有名な方から『○○であることが聖書的である』

といわれてしまうと、そうかなぁ、と思い込み、それにあ

っさりと従うことが少なくないようです。

 つまり、なんとなく、そのキリスト集会の責任者の考え

やその集会で話した説教者(伝道者や宣教師、または別の

集会の信徒)が、話した内容がその集会の構成員にとって

『聖書的』であるということで、広く受け入れられていく

傾向はまったくないとは言えないと思います。

 1890年代から始まった日本のブラザレン運動の伝道は、それから

およそ120年たつわけですから、現在本来的であれば、第4世代から

第5世代のクリスチャンが育っている時期でもあります。とはいえ、

本格的な宣教が始まったのは1950年代以降ですから、第3世代ない

し第4世代のクリスチャンがようやく生まれ、第2世代のクリスチャ

ンは、未だに少数派だろうと思います。


 だからこそ、その辺の対応が十分でないキリスト集会、そのあた

りの対応に戸惑っているキリスト集会の責任者の方も少なくないの

では、と感じています。

 正確な統計を取ったわけではないので、数は明確化できませんが、

おそらく第1世代が約60-70%、残りが第2世代の信者だと思います。

まだまだ、圧倒的に第1世代の信者さんが多く、その方々の信仰のス

タイルが主流派を占めているという意味でも、日本におけるブラザ

レン運動は、まだまだ発展途上のような気がします。イギリスのブ

ラザレン運動が始まって160年ほど、ブラザレン研究のイギリスで

の中心でもあるNeil Dicksonがかいているところによれば、彼で第

5世代のクリスチャン。日本での本格的な活動が始まって、約50年。

それを考えると、第3世代が生まれていることは確認しているので、

第4世代までさかのぼることができるクリスチャン家族が出始めそう

かなぁ、という環境だろうと思います。


 クリスチャン世界の新参者として、どのように第2世代以降の信徒

の成長を考えていくのか、ということは考えたほうがいいかなぁ、

と個人的には思っています。

 なお、この辺に関しては、千葉の石濱義信さんが子育てと教会と

のかかわりに関する本をご出版されておられます。

本日から読みやすさを考えて、少し、スタイルを変えてみました。

 あるとき、信仰の劇的な信仰上の体験がないことを私自身、どうしたものかと思っていました。そこで、親しかったある第1世代のクリスチャンの方に、「実は、私自身、他のクリスチャン1世たちが、キャンプとか集会で証をするような劇的な体験ってしていないんですよ。信仰生活が10年以上あるにもかかわらず。なので、信仰経験の証について、どうしたら、と思うことが未だにあるんですよぉ。」というような愚痴ともつかぬ相談をしていたことがあります。もちろん、このような悩みを抱えながらも、その当時、皆さんに福音や学びのお話しもしていましたけれども。

 実は、これは多くのクリスチャン2世に見られる悩みのようです。第1世代のクリスチャンの持つ鮮烈な神をいつ信じたという経験がない、ということです。つまり、記憶にのこるような強い経験がない2世信者が多いようです。もちろん、そうでない方もおられますが、私や私の家内も、同じような印象だった、ようです。そして、劇的な証ができる1世をうらやましく思い、自分もそうなれたらよいが、そうした経験はもてなかったので、自分自身が不完全な信者、1世に比べると劣っているのでは、というちょっと変な劣等感にとらわれたこともありましたし、自分は本当は信じているといえるのか、という疑問をもったものです。

 それを1世の親に話しても、この辺の2世が抱える微妙な感覚は、どうも分かってもらえないことも多いようです。1世は自分の劇的な経験があり、それを基準に物事を捉えがちですので、そんなことはありえない、という思いがある方が意外と多いようなので、いつ信じたかよく分からない、という2世信者が存在するという現実を理解するのは困難なようです。ともすれば、自分の信仰を持ったときの印象に比べ、まともに「いつ信じたか分からない」という告白をする2世信者への対応に困っている第1世代の信者や「信仰を持ったときの確実な経験はないのか」という第1世代の信者の質問に困っている第2世代の信者からなるクリスチャン家庭が、少なからずあるような気がいたします。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
kaw*muk*ih
kaw*muk*ih
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事