ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレンの分裂史

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オープンブラザレン(独立型ブラザレン)とエクスクルーシブブラザレン(連接型ブラザレン)がどのようにして別れることになったのかのイギリスでの昔話。
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ニュートンとダービーの間の分裂は、ニュートンがプリマスの集会を

離れるという形で決着していきました。プリマスの集会では、

ニュートンを受け入れる体制を継続してとりましたが、ニュートンは

別の道を行くこと荷したようです。

Tim GrassのGathering to His Nameの79ページには、次のような

記述が見られます。

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1847年12月8日、ニュートンはプリマスを離れました。同年12月13日他の

Ebrington集会の指導者たちは、信者に対する説明会を開き、指導者たち

が影響を受けてきた誤った考え方の影響を説明し、そのような考え方を以

後もたないということをその集会の信者に説明したのでした。Dyerは集会

の人々の考えを反映するような発言をしました。つまり、Dyer個人の最大

の罪(sin)は、ニュートンの考えの誤りに気付くことなくニュートンの誤り

を含む考えを受け入れたことであると発言しました。さらに、プリマスの

集会の指導者たちの問題は、群れを飼うよりは聖書的な真実の追求に情熱

を注いだことだったと発言したのでした。1848年1月10日EbringtonStreet

の集会は、宣言(指導者層がなくなった結果、そこでの責任を取る形とな

ったTregllesがおそらく草稿を書いたと思われる宣言)を発表し、ニュー

トンの誤りを否定し、その誤った考え方は集会の中からは削除するけれど

も、ニュートンがプリマスの集会に参加する際は受け入れるとする内容で

した。しかし、ダービーは、この宣言はニュートンの集会への参加を受け

入れるということは、ニュートンの(誤りを含むの)考えが幅広く述べ伝

えられる可能性を残すものであり、受け入れられないとしたのでした。ダ

ービーの目には、ニュートンとの繋がりをきらない集会は、この混乱の結

果、破たんしたものであると映っていたいたのでした。ダービーのところ

(おそらく、Raleigh Street集会やそれと関係する集会)に移籍した信者

の数を70人とダービーは記録しています。1848年夏、Ebrington

Street集会は、数が大幅に減少し、Compton Streetに移りました。そして

その教会は、カルバン派的であるということで、Bulteelがそこの責任を

取るようになったのでした。(中略)ニュートンは、Tregellesによって

支援されながら、預言研究を続け、1872年ごろまで、ロンドンのBaywater

の教会で牧会をしたのでした。

以上和訳終わり
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 ニュートンは、初期のブラザレンを導いた重要人物の一人だったのです

が、ちょっとした表現の間違いが原因で、問題が大きくなってしまい、

収拾がつかなくなっていきました。また、ダービーの過剰な反応で、問題

がさらに深刻化し、非常に複雑な問題となって行きました。そして、キリ

ストの体として一つであろうとして始めた運動が、ニュートンとダービー

の間が引き裂かれていった結果を見ることができます。

 この部分は、集会の成立の歴史にとって、最も悲劇的な部分の一つなの

で、記事として触れるかどうかは迷ったのですが、記事として触れなけれ

ば、結果としてなぜ、異なる考え方や異なる集会運営のスタイルを持つグ

ループがキリスト集会内にあるのか、ということがわからなくなるので、

長くなりましたが触れることにしました。というのは、最初は些細な誤解

から始まって、両者の間でコミュニケーションが成立しなくなり、議論が

紛糾し、集会の分裂といった同様の分裂のが、この後の時代でも起きるか

らです。

 人は、自分と皆同じ考えを持っている、自分と同じ行動パターンを持っ

ている、という思い込みが、この種の不幸を生み出すように思います。最

近、久しぶりに見た、「砂と霧の家」という一軒の家をめぐる悲劇につい

ての映画をもう一度ゆっくりとみたのですが、この事件を見ながら、その

ことを思い出してしまいました。基本的にニュートンとダービーの考えが

違ったこと、ニュートンの書いた文書が不正確な形で回覧され、それをニ

ュートンが訂正したこと、ダービーとニュートンの二人の間で誤解が生じ

たこと、さらに、ニュートンの議論の趣旨を正確に伝えない文書が独り歩

きしたこと、それへの不正確な反論をしたこと、それを撤回したこと、な

どが重なって、不幸な出来事の連鎖の結果の混乱だと思います。意図しな

いことで、方向性のずれに弾みが付いてしまったようです。誤解の結果と

はいえ、悲しいけれど、現実に起きたこと、としてしっかり認識して、

同じことを繰り返しをしないように心がけるしかないのかなぁ、と思いま

す。

前回書いたお話の続きです。

 詩篇6篇からニュートンが行った聖書の注解で示した聖書理解

に問題があることが問題視され(ずいぶん前の記事でも、それを

もとに批判されたのですから、かなわないと思います。ダービー

は一貫性を重視した、ということなんでしょうが、一貫性も行き

過ぎると頑固さや偏りを生み出すように私は思うのです。

 信仰の成長とともに聖書理解も変わってある程度よいのでは、

と思うのですが、ダービーなんかにすると信仰がふらついてい

るとか、教えの風に吹かれている、ということになるのでしょう。

批判を受けたニュートンの対応について書いていきたいと思いま

す。

78ページ 続き

1847年の11月26日、ニュートンは、「聖書理解の誤っていたこと

とその指摘への感謝」と題するパンフレットを出版し、2つのパン

フレットを「再考する」ため、撤回することと彼の考えに誤りが

あったことを認めたのでした。ニュートンがこの書物を出版した

意図は、彼のアービン派の人々に向けた論文での「アダムの罪の

結果というよりはむしろ、キリストの義のゆえに人を罪なきもの

とする(imputation)ためキリストは来た」ということを主張す

るための表現の修正のため出版したとしていたのでした。撤回し

た2つのパンフレットは、ハリスの批判の手紙にこたえるために

書いたものでしたが、それ以降の論文で述べられているように

考えを深めたうえでの出版物にしたかったからのようです。

Tregellesは彼の反対者が、この新しい出版物が証拠とされてし

まうことを恐れ、ニュートンの二番目の妻マリアは、出版すべ

きではないとしたのですが、ニュートンのこの種のことに関す

る表現の正確性のなさの結果、公的な議論の場で間違いを認め

ざるを得なかったようです。

以上和訳終わり
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このことを読みながら、仲間がいた、という安心感を覚えまし

た。私も分かりやすい文章にしているつもりですが、正確さに

かけるんですねぇ。かなりいい加減に書いている。いい加減に

書かない人、間違いのない文章を書く人を見ると、尊敬してし

います。ニュートンの仲間だ、と主張する気はないですが、誤

りのない文章、誤字脱字のない文章、わかりやすい文章を書く

才能のある人というのは、本当に尊敬に値するなぁ、と思って

しまいます。もう、最近は正確に書く能力がないのでは、と自

信をなくしつつあって、自分の能力の限界を知りつつあります。

あまり望ましいことではありませんが。

 しかし、ニュートンは、真面目というのか、要領が悪いとい

うのか、そんな生き方をした人だったんでしょうねぇ。

今回は、ダービーとニュートンの間の分裂を決定づけたキリストと

その苦しみに関する考え方を原因とした議論についてご紹介したい

と思います。

 このあたりの議論の先鋭化に過去の議論や過去はなした内容の蒸

し返しが行われたことが大きな問題を生んでいったように思います。
 

Tim GrassのGathering to His Nameの77-78ページには、次のような

記述が見られます。77-78ページ
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1847年の早い時期に、キリストの苦しみについて詩篇6篇から講解した

ニュートンの説教のメモが回覧された。このニュートンの説教は、1835

年に彼がChristian Witnessに書いた記事にもと基づくもので、ブラザ

レン運動は、キリストが完全に人となられたということを必ずしも正当

化しようとするものでないということに関する記事に関連する説教でし

た。この説教自体は、アーバイン派の人たちへの対応を試みるものであ

した。キリストの苦しみの問題は、特に新しい論点ではなく、1836年の

預言についての大会での議論のテーマの一つであり、その大会の参加者

たちは、キリストがユダヤ人(ダービーにとっては、文字どおりの意味

と、霊的なクリスチャンの違いがその考え中にあったのですが)と霊的

に残されたもの(レムナント)の両方のため苦しまれたのかどうかに関し

ての考えに関するものでした。

 論点は、キリストの苦しみのいくばくかは、彼が罪人の身代わりとし

て苦しまれたり、彼自身が罪深かったからではなく、イスラエルの民と

して罪人共に自ら歩もうとした行動によるものかどうか、ということで

した。別の言い方をすれば、キリストは、罪の結果を受ける必要はなか

ったのだけれども、罪の結果苦しみを受けるべき人々とともにいたこと

をどう考えるのか、ということが論点とした説教でした。

 ニュートンに、回覧された文章が彼の主張の正確な要約であるのかど

うかを確かめることなく、このメモは、ハリスという人物から、マクア

ダムというエクスター在住のダービーの支持者に送付されました。ハリ

スは、批判の手紙を含めて、マクアダムにこのノートを出版することを

認め、1847年に詩篇6編からのキリストの苦しみに関する講解として、出

版されました。(訳注:以前問題となったニュートンが以前に出版したト

ラクトに加えた)トラクトの修正を行ったことを批判したダービーは、

この詩篇の講解についても批判し、ニュートンは、この考え方をアービ

ン派の人たちと同様の方法で悪魔(Satan)から得た、とダービーは非難

したのでした。

以上和訳終わり
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悪魔がすぐ出てくるのは、ダービーの癖らしいですが、以前にも書いたよ

うにいまだにその影響は、キリスト集会の中で出てきているものと思います。

すぐに自分と異なる考え方の人をサタンと呼ぶのはいかがかと思います。

同じキリストの体をなす人々に対して、軽々しくサタンの影響を受けている

とかいうのは、本当にどうかなぁ、と私は思います。特に、自分の立場と違

う人を悪魔の影響だ、と言って軽々しく切って捨てる態度というのは、適切

なのだろうか、と思います。人間は完全でない以上、自分たちが間違ってい

るかもしれない、という神の前の恐れを持つことの大切さを感じます。

 それから、まぁ、著作権の概念がない社会というのは、本当に恐ろしいも

ので、本人の了解のないところで、怪文書がこんな風にどんどん印刷された

のだろうと思います。似たようなことは、現在のカルト化した教会の内部に

も、それと同じ傾向はあるようです。自分自身の考えと違う人々に対して、

指導者の考え方を批判する人々に対して、自らのあり方を省みることなく

すぐにサタンだ、サタンの影響をうけているとして、対話することなく切

り捨てていく、態度というのは、カルト化した集団の中にみられるようです。

どことは言いませんが、カルト化した教会に関しては、かなり機微に触れる

ような内部情報が、カルト化した教会の被害者の方から流される場合もあり、

それを見ている限りはサタンであるとか、サタンの影響を受けているなど、

指導者を批判する人々(内部も外部も含め)に向けて言われることがあるよ

うです。

 ブラザレンは、全体として反社会行動を起こした事はありませんし(一部

には、不健全な動きとして捉えられた1960年代のテイラーブラザレンのよう

なグループもありますが)、ブラザレン自体がカルト教団やカルト集団では

ありません。ただ、単独の教会(キリスト集会)を見ていると、カルト化しか

ねない要素を内部に持っているところもところによってはあるように思いま

す。

 悪霊の働きを強く主張し、他人からいわれなき攻撃をあたかも受けてい

るかのような精神構造は、どうもカルト集団に共通するもので、ブランチ・

ダビディアンのグループや、他のキリスト教系カルト、サリン事件を起こし

た某仏教系新興宗教団体も自分達は真理を語るからこそいわれなき攻撃され

るのだ、として自分を批判するものからの攻撃がある、と主張する点は構造

的によく似ていると思います。このあたり、カルト宗教の共通性を感じます。

 ある集団がカルトであるかどうか、ウェブ上の情報だけでは、客観的に判

断がつかない場合の方が多いです。また、現実にその教団を数回訪れただけ

では判断がつかない場合もあります。サリン事件を起こした某仏教系新興宗

教団体の場合も、最初の段階でカルトであると判断できた人はほとんどいな

かったし、マスコミも当初は変わった集団として、取り上げていましたし、

かなり後期になっても、その本質を見誤っていた方も少なくなかったですか

ら、結局、何が正しくて、何が間違っているのか、という判断は、難しいな

ぁ、と思います。

もちろん、民事であれ、刑事であれ、宗教団体が絡んだ問題については裁判

で一定の見解は出るとはいうものの、裁判とて完全ではなく(世間的には一

定の拘束力や影響力をもつのの)、裁判で敗訴したからといって、適切でな

い行動をとっているキリスト教会の指導者やキリスト教会自体が自らを省み

るということをするわけでもなく、かえって、社会からの言われなき批判を

受けているとして、内部の統制構造を強める場合もあるので、カルト問題の

根深さを感じます。

 
 繰り返しますが、ブラザレンは全体としてカルト集団ではない、というのが

当ブログの主張ですし、それぞれのキリスト集会が自己のカルト化の問題を他

のキリスト教会もしているような重要な課題の一つとして、聖書を基にしつつ

常に考えていく、という姿勢を維持することが大切かなぁ、と思います。


参考文献
Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes,
Paternoster. ISBN 1842272209

 ダービーの神秘主義は話す内容はもちろんのこと、書いたもの

にも現われたようです。そのため、解説者が必要だったほどだっ

たようです。後にダービーと袂を分かつことになるKellyという方

がよく解説をされたようです。

 以前にもここで書いたと思いますが、プリマス・ブラザレン系の

キリスト教会(キリスト集会)では聖霊の導きを重要視します。

以前、この欄でミカタロウさんがコメントしてくださったように、

福音を語るのも聖霊によって導かれた兄弟によってですし、聖書

研究で話すのも聖霊によって導かれた兄弟とされています。福音

や学びを準備する過程でも聖霊によって導かれて準備する、とい

う理解になっています。確かにそういう側面もあり、その重要性

は否定しませんが、行きすぎも困ったものではないかと思います。

昔、アマデウスという映画を見たときに、サリエリが作曲してい

るシーンをみながら、この人もブラザレンか、と一瞬思ってしま

いました。ちなみに、サリエリの時代にブラザレン運動はまだあ

りません。

Tim GrassのGathering to His Nameの77ページには、次のような

記述が見られます。
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 ダービーの行動は、彼の書いたものがそうであるように、事

前にかなり練られたものであるというよりは、特定の状況に対

して反応するようなものでした。彼が重視したのは、どのよう

にきちんと対処するのか、ではなく、聖霊によってたてられた

教会が重要であり、それを汚す(impugning)ものと彼が思った

ものに対しては、何が何でも反対しようとしたのでした。彼に

とって、対処の仕方というよりは、彼自身の心情としての一貫

性を重視したのでした。

 このプリマスでの混乱の結果は、あるブラザレンの著作者た

ちにとって重要な意味をもつことになりました。ある著作者た

ちが言うところのサタン論(Satanology)が述べられるように

なったのでした。サタン論(Satanology)とは、反対する相手

の言動をサタンによって導かれたものとする傾向です。サタン

論というこの二極化した考え方(聖霊かサタンか)の傾向の結

果、個人的な理解で一致がない側面があるばあい、他者を(訳

注:サタンの働きの結果として)弾き飛ばしてしまうことに

なったのでした。

以上和訳終わり
---------------------------------------------------------------

 サタン論の影響は、いまだに、ブラザレンの集会の中でご

くまれにこだましているように思います。集会の議論が白熱

したり、異なる立場が出てきたり、意見の対立が起きたり、

分裂騒動になりそうなことが起きたり、集会の中で違った考

え方の人々が出てくると、それを悪魔の働きではないかと疑

う傾向は、いまだに根強くあります。(このブログもサタンの

働きといっている人がいるかもしれません。聖霊に導かれた

と私は主張するつもりはなく、単に自分達の問題の原因が

どこかにあるかもしれない、その起こりはいつかが知りたい

だけですが、それもサタンの働きなんでしょうかねぇ。サタ

ンの働きと主張される自由もあるし、調べて考える自由もあ

る、というのが多元主義者の私の主張です。)聖霊の働きの

重視と、長老のある種の権威性、そしてサタン論がいわれる

結果、伝道者や長老がバランスを欠いた言動をとり始めた場

合、それを防止するのは、ある程度難しい場合もあるように

おもいます。それをとめることができるのは、信徒に許され

た発言の自由と長老と信徒の間の対話だと私は思っています。

善(聖霊)と悪(サタン)の二元論的な立場というのは、構造的

に単純で、誰でもわかりやすくてよいのですけれども(水戸黄

門もそうなっているし時代劇や西部劇はたいていそう)、対立

する両者ともが、自分が善という立場を崩さず、そのために聖

書のあちこちをひっかきまわして、自分の主張に近い聖書の語

句を探してくるので、それに巻き込まれた新とは非常に悲しい

思いをすることが少なくないように思います。聖書は、いろん

な考え方が含まれた書物なので、自説に近い聖句を見つけるの

は難しくないので、この種の問題が起きるのだろうなぁ、と思

います。

 今、所属している集会は、長老の権威性がかなり抑えられて

いて、信徒の自由な発言と、信徒と長老の間の対話の姿勢が確

保されているので、私としては非常に居心地がよく、このままで

あって欲しいなぁ、と思っています。


参考文献
Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes,
Paternoster. ISBN 1842272209

 
 以前にも書いたと思いますが、ニュートンとダービーの議論は

どうもかみ合っていないように思います。ダービーは、ニュート

ンのやり方を批判を倫理的でないと批判し、ニュートンは聖書理解

の問題として捉えていたようです。ボタンの賭け違いというのか、

これでは、議論がかみ合わなかったろうと思います。


Tim GrassのGathering to His Nameの76ページには、次のような記述が見られます。
---------------------------------------------------------------


ダービーとニュートンの議論の対象となった問題の視点の違いは、

彼らの信仰における真理の役割の理解の違いに根差しているよ

うです。ダービーにとってみれば、信仰上の真理の倫理的な影響

力は、もっとも重要なものであり、プリマスでの問題を、倫理的な

問題としてとらえていたようです。この観点から、どちらの考え方が

聖書的であるかどうか、で混乱が生じたというよりは、ニュートンが

彼のものの見方を変更したやり方にダービーは焦点を当てて議論

を展開しようとしたのでした。(中略)

 Tregllesはこの問題は、預言解釈がこの問題の根源にあるとみ

ていたようですが、Tregllesは次のように書いています。「ニュートン

は、ダービーの予言についての考え方と調和のある考え方をしたこ

とがあるのだろうか?ニュートンが教会の秩序や牧会について反対

したということを聞くことがあるだろうか」と書いている。(中略)しかし、

ダービーは、預言についての理解の違いの結果、あるいは、(訳注

集会の)リーダーシップに関する考え方の違いと個人的な感情的

対立がこのようなことになった原因であるということを否定しました。

(訳注 要するに、ニュートンが勝手に文章を変えたことが倫理的

でないという点に絞ってダービーはニュートンを攻撃しようとしたとい

うことのようです。)

 ダービーのニュートンとの問題に対する理解は、ニュートンの知的

なエリート主義の問題が原因であると考えました。ダービーは、この

問題に先立つ数年前、ニュートンにあまり洗練されていない話し手

に話させないようにしむけるのはどうか、ということを忠告していたとし

ています(訳注 もっと洗練されていない話し手もはなせるようにしたら

どうかとすすめていたようです)ダービーは、プリマスでは堂々と、無学

なペテロのような人物を神は用いず、パウロのような学のある人物を

用いるということが教えられていた、と非難していたのでした。ダービー

にとっては、プリマスでは、ニュートンの独特の分離派的な考え方の結

果、福音を語ることの重要性がやや軽んじられていたように感じていた

のでした。

以上和訳終わり
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 庶民性というのか、平信徒主義を重視したダービーときちんとした

メッセージを語る上での洗練を重視した貴族主義的な側面があったニ

ュートン、この辺の違いが2人の関係をまずくしていったとおもいます。

ダービーは、神秘主義的な人物であり、分かりにくいこともよしとした

部分があるようで、この辺の違いというのがあるようです。

 日本のキリスト集会は最近は、分かりやすいお話が増えているように

思います。この背景には、日本の平均的な教育水準が向上したことも

あるように思います。

 ちなみに「無学なペテロのような人物」といったのは、ダービー

であって、私ではありません。まぁ、確かに使徒の働きではペテロの

形容詞として用いられていますが、普通の人ということですが、聖書

(旧約)の知識については、日本人である私達よりははるかに多かっ

たとおもうのですが。

 現代の日本は、初等教育及び中等教育が普及し、高等教育のレベルは

別としてかなり普及しているので、ダービーの時代の普通の人といった

ときに、現代の日本の普通の人、ということを考えない方が良いかも

しれません。

 現代は、ありがたいことにネットでいろんな方のお話をお聞きする

ことができ、読める時代になりました。私もお話するときに、参考に

なる点があるなぁ、と思うことも少なくありません。ただ、ある教会

で語られるときには、その教会の信徒を前提として、語られている

はずなので、そのあたりの注意は必要かなぁ、と思います。

 特にロイドジョンズの説教集を読むときには、かなり気をつけてお

かないといけないかなぁ、と思います。

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