ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレンが目指した革新性

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 ブラザレンの組織を作らずに宣教活動していくあり方が、

多くの人々に影響を与えたこと、多くのクリスチャンに影響

を与えたことをお話してきました。また、聖書を分かりやす

くお話しすることが多いこともお話してきました。

 聖書を分かりやすく、誰にとっても分かりやすく理解でき

るようにする、ということは大切なんですが、分かりやすい

ということは、それだけ、その理解が広まりやすく、その影

響も大きいということはあると思います。

 それが、端的には、以前お話したディスペンセーション説

(別の言い方をすれば、天啓史観、時代区分説)に現れます。

この考え方は、ブラザレンの中でも連結型ブラザレン(コン

ネクシアル・ブラザレン、閉鎖型ブラザレン、エクスクルー

シブ・ブラザレン)と呼ばれるグループの初期リーダーの一

人のジョン・ネルソン・ダービーが主張し、それがスコフィ

ールド版聖書の解説として採用され、広まっていき、エマオ

聖書学院を作ったD・L・ムーディーやエーリッヒ・トゥーザ

ーやオズワルド・J・スミス等に影響を与えます。その意味

で、福音派に良くも悪くも多大な影響を与えた、という側

面はあると思います。

 この考え方は、今ではティム・ラヘイなど、宗教右派と

呼ばれる人たちの考え方に影を落としているようです。

 他のブログで、フランシス・シェーファー(なんと、懐

かしい名前だったことでしょう)の変容の話や、フランシ

ス・シェーファーの思想の変遷と福音派の中の一部の宗教

右派との関係が話題となったことがございますが、シェー

ファーにも、ごく限られた影響とはいえ、与えたことを思

うと、ちょっと複雑な気分になります。ブラザレンが福音

派の一部に与えたさまざまな影響の名残を色々な分野で発

見できることを思うと、かなり複雑な気持ちがします。こ

の宗教右派と呼ばれる人たちが、今のブッシュ政権(もうす

ぐ終わりですが)の支持基盤となり、イラクで現在もなお、

多くの不幸を生み出したとすると、ちょっと複雑な気分に

なっています。確かに福音伝道がその活動の中心にあり、

福音派にかなりの影響を与えたことは事実です。また、

その影響が、現在も尚、非常に広範囲に影響しているの

を感じます。

 とはいっても、現在のブラザレンの信者は、一部の福音

派の方々の変容に責任を感じる必要はなく、聖書を多くの

人に伝えるこれまでの取り組みのあり方とその意味をきち

んと捉え、その上で自らの長所、その特徴、その問題点、

課題などの反省を踏まえたうえで、現代に生きる多くの人

々にどのようにして「友なきものの友となろう」としたナ

ザレ人イエスを伝えていくのかという取り組みとその課題

を個人個人考えながら、その時代に応じた革新的な福音宣

教を考えていって欲しいと思っていますし、私自身、罪あ

る実存であることを意識しつつ、この課題を抱えて生きて

参りたいと思っています。

 この1年が、このブログをお読みの皆様にとって、よい

1年となりますよう、祈っております。

 ブラザレンが目指した革新性は、組織のパワーによらない海外宣教と

国内宣教です。この運動に大きな影響を与え、他の信徒に大きな影響を

与えた人物の一人に、アンソニー・ノリス・グローブスという歯医者さ

んがおります。彼は、自分で資金を用意して、いまのイラン(イスラム

圏!!英国統治下といえ、無謀のような気が・・・。それだけ熱心だっ

たようです)に伝道して行きます。このグローブスの考え方は、のちに

孤児院を運営するジョージ・ミューラー(オープン・ブレズレンの出発

時に影響を与えた人物)に影響を与えました。

 ジョージ・ミューラーは必要ならば神が与えられるという確信に基づ

きほとんど資金を持たずに産業革命が信仰した社会の中で捨てられてい

た孤児たちのための孤児院運営をし、多くの孤児たちを救っていきます。

 このジョージ・ミューラーの行動は、さらに飛び火し、いまのOMF

(オーバーシーズ・ミッション・フェローシップ)の前身であるチャイ

ナ・インランド・ミッションの最初となったハドソン・テーラーに影響

を与えます。そういえば、同志社大学の知り合いに聞くと、ジョージ・

ミューラーを同志社は招いたそうで、ジョージ・ミューラーは同志社大

学で、講演した記録があるそうです。

 このハドソン・テーラーの運動は、TEAM(ゼ・エバンジェリカル・ア

ライアンス・ミッション)という米国系の宣教団体やリーベンゼラミッ

ションというドイツ系の宣教団体に影響を与え、TEAMの活動としては、

いのちのことば社が設立されたり、太平洋放送協会PBAが立ち上ったり、

キャンプ場の運営もあるようです。

 「信仰だけに立ち、信仰によって進む、必要なものはすべて神が与え

られる」という信仰、というのは非常に革新的で、すばらしいものだっ

た、とは思いますが、これも程度問題だと思います。場合によっては、

革新性を通り越して、狂信になりかねないものを持ちかねない、という

ことを思っています。

 とくに、独断的なリーダーの下、この概念が振り回された場合、カル

ト化の要因となりやすい、と思います。特に、開拓伝道で、家族以外の

信者がいないところに、伝道していく場合、その指導者の責任が重たく

なること、また、多くの信者がその指導者に依存しやすい日本の精神性

があいまって、どうしても、責任者の信者の影響力がどうしても強くな

りがちのように思います。責任者の信者の影響力がつよくなった結果、

責任者の信仰に偏りが生じた場合、信者の信仰に偏りが生じるケースも

あるように思います。最悪の場合、信者の思考停止がおき、この場合、

責任者への責任と権威の一極集中構造というカルトが持つ構造と同様の

構造を持ちやすいと思います。

 革新的であるが故の過激な方向への走りやすさをどう防いでいくのか、

ということは重要な考え方かもしれません。

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 早いもので、このブログを始めてから、約1年半。あまり着目されることも

ないだろうと思っていたら、この1年半の間に延べ8880ビューいただきました。

ありがとうございます。ヤフーアドレスをお持ちの方だけで、この数ですから、

実際には、この数倍のビュー数があるのかなぁ、と思っております。

 このブログは、ぼちぼちと気長に書いていきたいと思います。コメントを拝

見・頂戴しながら、抜けている部分について、書いている部分もございますの

で、コメントを頂戴できたら、それにあわせて(すぐにとは参りませんが)考え

て行きたいと存じております。

 どうも、お目汚しに耐えてくださった皆さん、ありがとうございます。来年

ものんびりとマイペースで、個人目線で書いていくつもりでございます。

 ナザレのイエスという人物を日本という文化の中で伝えようとしたブラザレ

ン運動の中にいるものとして、そのよい点と課題となる点を冷静に見つめなが

ら。

 ブラザレン運動の革新性は、神学教育を受けていない普通の人が聖書

について語るところにありました。福音を語る上では、確かに神学的な

知識のバックグラウンドがあまりなくてもそう問題はないのですが、よ

り深い聖書の学びをする上では、それまでの時代に発生した聖書の誤解

への対応の中で構築されてきた神学的バックグラウンドが有益であろう

とおもいます。

 ところで、ブラザレンは、産業革命の中で、神を知らずに失われ行く

人々への対応として、福音を語るということを最優先課題としたために、

聖書の学びをするということに重点が置かれたものの、福音の緊急性に

比べて信者の霊的な成長の推進は2次的な重要度とされてきたような気

がします。

 その結果、ある面、聖書に書かれた文言に文字通り厳密に忠実であろ

うとし、パウロやペテロが活躍した時代のキリスト集会のあり方を理想

とし、そのあり方を追求することを目指した結果、パウロやペテロが活

躍した時代の直後に起きた聖書理解の混乱も自らに引き受けることにな

ってしまったように思います。その後、聖書理解の混乱について、その

対応の結果、神学と呼ばれる体系が構築されていきましたが、ブラザレ

ンが生まれた当時主流であった啓蒙時代の理神論的な聖書理解や、自由

主義神学、文献批判的な立場の聖書研究の問題点、あるいはスコラ神学

のような極端な議論の存在のため、神学自体にアレルギー反応を示し、

本来の神学が目指そうとしたもの(聖書の正統な理解の追求)をみず、神

学そのものを無視してしまったところに、問題があるように思います。

 ブラザレン運動が生まれた当時は、そのようなあり方はアンチテーゼ

として革新的であったものの、その後150年を経て、神学自体が多様化し、

そのありようがさまざまに変化しているにもかかわらず、当時の革新的

な思考に固執し、場合によってはそのまま固定化(化石化)してしまった

ために、周辺環境の変化に気付かず、自分たち自身のあり方が化石化し

てしまっている可能性に気付かなくなっていることがあるのかもしれま

せん(すべてのブラザレンがそうだというわけではないと思っております

が、一部には、そう考えた方がよいかなぁ、という印象をもたれてもい

たしかないご発言をされる方々もおられるように思います)。

 時代に合わせてキリスト教会のあり方を変化させようとした運動であ

っても、その運動の出発点でのあり方を維持することを重視するあまり、

時代の変化に合わなくなり、時代から取り残されてしまっているとした

ら、悲劇というのか、喜劇に見えるのではないか、と思わなくもありま

せん。

 神学教育を受けていない普通の信者が聖書を話し、学ぶと

いうことは、ブラザレンと他の多くのキリスト教会との違い

の一つです。この考え方は、ブラザレン運動が始まった当時、

非常に画期的な、革新的な考え方でした。当時の多くの教会

では(今でもそうですが)、牧師、神父と呼ばれる方々がお話

しするのが、普通だからです。なぜ、牧師、神父と呼ばれる

方だけが聖書から話す教会が多いのか、には理由があります。

キリスト教会が成立していく時代の中で、聖書は貴重なもの

でしたし、聖書の文字や聖書に関して書かれている書物の文

字を読ンで、理解できるというのは、特殊な才能でした。

特殊な才能だからこそ、その才能を持つ人だけが、比較的正

確にその意味を提示できる、ということから牧師とか神父と

呼ばれる方が、聖書からお話しすることになったといえます。

丁度、今で言うと、通訳者となれるのは英語をしゃべれる人

である必要がある、といったような意味で、聖書の専門家で

ある専門家としての教役者が求められたといえます。ただ、

フランス史に関する歴史書を読んでいると、神学教育を受け

たとされる人たちのラテン語能力はかなりあやしく、教会の

奉仕者の社会的地位は、乞食より増し、という程度だった

ことが記載されていたように記憶しています。

 一般人が聖書のお話をするといったあり方をとったのは、

ブラザレンが初めてではありません。ウェスレー主義また

はメソジスト系教会でも初期の段階では、普通の信者さん

が聖書のお話をしています。なお、メソジスト教会につい

ても、これまたジョン・ネルソン・ダービーがその考え方

を批判というよりは、私からすれば攻撃と評したほうがい

いような印象を与える書物が残っています。この書物を

日本語に翻訳した方から、送っていただいて読んだ記憶が

あります。ダービーという人は優秀な方かもしれませんが、

その後の影響を考えると、良い面、悪い面を含めて、影響

力の大きい人物だったと思います。)

 また、フレンド派(クエーカーとも言われる)でも、神

学教育を受けた牧師は特に必要とされていませんし、無教

会派でも神学教育を受けていない方がお話しするところが

多いようです。

 実際、ブラザレンの初期のころには、ブラザレンのグル

ープにクエーカーと呼ばれる人が活動した記録が確認され

ています。詳しくは、The Growth of the Brethren Movement:

National and International Experiencesの中に出てきま

す。

 神学教育を経験していない普通の信者が、聖書の解釈を

する考え方は、ブラザレンだけの行動ではありません。

まぁ、ブロードベントの信徒の諸教会には、そういうグル

ープの歴史が書かれているので、そのことは記憶した方が

よい、とは思いますいます。ただ、もともとは聖職者と呼

ばれる人たちを置かない運動をしたキリスト者のグループ

の中にも、ある段階から、神学教育を受けていない信徒に

よる聖書解釈や説教というあり方をやめ、神学教育を受け

た牧会者をおくところが増えてきました。アメリカやイギ

リスのブラザレンでは、神学教育を受けたpastor(牧師と

いうよりは牧会者)をおくところも増えてきました。そし

て、日本のブラザレンでも、神学教育を受けたpasterに

あたる責任者をおいたりするところも増えてきました。

イギリスやアメリカでも、信者が集る建物の呼び方を伝統

的なGospel Hall(福音館)やChristian Asseblyなどから、

Churchに変更するところも見られるようです。

 個人的には、そのほうがいいかなぁ、と思っています。

なぜか?ブラザレン運動が始まった時代と、いまとでは

社会環境(英国国教会のような政治と一体化した教会が

ないこと)がことなること、神学教育には、マイナス面も

あると同時に、プラス面もあり、プラス面まで否定する

のはどうか、と思っているからです。また、高学歴化し

た社会に対応していく中で、これまで多くの信者たちが

培ってきた聖書理解について、整理された背景を持つ教

役者の必要性があると考えるからです。異端化を防ぐ

ブレーキ役として。

 神学が不必要とされた背景には、聖書の各国語訳が確立し、

各国語訳されたものを読むかぎり、普通の文章を読める感覚が

あれば、ある程度の理解に達することができる。それで、福音

を語ることにそう問題はない(時には問題が起きますが)。そ

の通りです。福音の中核部分を語るのに神学はいらない。これ

また事実。神学的背景がない素人ならではの感覚を大切にしな

がら、普通に人に向けた福音を分かりやすく語ることができる。

不必要に神学的知識に振り回されることがない。また、その分、

初めて聖書に触れる方に不必要に神学用語を振り回して、不必

要な混乱を生み出すこともないからです。その意味で、神学は

福音宣教に必要ないという発見とそれをもとに、教会運営を考

える上では、革新的な動きだったといえると思います。この聖

書をもとに一人一人が考えるという立場は大事だと思います。

そして、素人っぽいを視点から、福音を分かりやすく、不必要

な概念に振り回さずに素朴な信仰を語ること、これは大事だと

思います。これを追求した結果、神学に対して否定的な視線を

もってしまった、という逆効果ももったようです。

 このブラザレン運動の一番の革新性は、「普通の社会人が普

通に話して、牧師と呼ばれる偉い人がラテン語やギリシア語な

どを多用し、普通の人の感覚からずれた話を延々語る教会では

なく、普通の人にわかりやすい、抵抗感のないスタイルで聖書

から神についての話を聞ける」ことを目指したところだろうと

思います。そして、日本のブラザレンでは、現在でも、この一

般信徒による宣教と聖書研究という方法をとっておられるとこ

ろが多いです。高等教育が普及する以前の経済発展途上の社会

であれば(職能の高度専門化が進む以前の社会であれば)、神

学教育の不在は大きな問題を持ち得なかったかもしれませんが、

現代の社会のような職能の高度化、分離化が進む社会の中にお

いて、神学教育の不在の欠点をなんらかカバーすることの必要

性を少し感じています。

 また、ブラザレンの信徒のグループでは、福音館、伝道所、

キリスト集会所、という名前を堅持しておられるところも多い

ようです。それはそれで、一つの見識と存じます。一度、公的

に看板を出している以上、軽々しく名称を変更することはしに

くいのも事実ですし。それと同時に、最近では教会を名乗ると

ころも、出始めたようです。それはそれで一つの見識だと思い

ます。こういうキリスト集会もぼちぼち出てきていますが。

キリスト集会と自らを呼ぶことで、他のキリスト者の方々のグ

ループとの差別化(違いを明確化)を図るための方法論の一つ

としている部分もあるため、結果として、社会のある程度の人

々には、不必要な誤解を生んでいるように思います。ラベルは、

分かりやすさと印象が重要。正確でも一般の方に分かりにくい

ラベルは、いかがかと思います。内的なこだわりは大事にしな

がら、キリスト集会も社会にある存在であることを、私は忘れ

ないようにしたいと思います。社会におもねるのではなく。

 明治期にキリスト教が定着し始めて、150年前後(琉球で

はもう少し前から)。戦後、様々な教会のグループの活動がは

じまって40年前後。個人的には、もう、日本社会に、キリス

ト教会という概念がある程度定着し始めた現段階では、教会を

名乗ってもいいかなぁ、と思っています。これは、所属キリス

ト集会の公式見解ではありません。個人的感想です。ブラザレ

ンの信徒の方にしてみれば、ほとんど、革新的な感想かもしれ

ませんが。

 ブラザレン運動は、「神を求める敬虔な信者が純粋に

神を求めるためのイエスを中心とした教会を作ろう。教

会のための信者ではなくて」が出発点であったように思

います。

 ブラザレンの教会(集会)でも、時々、「信者なら奉

仕するのが当たり前、奉仕しない信者は、問題がある」

と思い込んでおられる一部の信者の方がおられるところ

がつらいところですが。

 奉仕は、ささげもの。神から与えられたものから、そ

のごく一部しか返せないけど、神に自主的に返したいと

思って返すもの。与えられていないものを無理やり吐き

出させるものではないはず。そんなことを思う私は、ち

ょっといい加減な信者なのかも知れない、と思うものの、

ないものは出せないし、人それぞれ与えられているもの

は同じじゃないんだから、と思ったりします。

 奉仕も、献金も結局、同信会(日本の諸集会とは独立

に始まったブラントさんというイギリス人エクスクルー

シブブラザレンの伝道によって生まれたキリスト集会と

ほぼ同じ信仰スタイルを持つキリスト集会)の週報復刻



http://www3.point.ne.jp/~doushin/SHUHOU/SHUHOU2.html#P9

http://www3.point.ne.jp/~doushin/SHUHOU/SHUHOU2.html#P11

のなかで、かいておられるように、集会は収奪するもの

で満たされるのではなくて、「あふれ」であってもらい

たいもの、と最近強く感じます。あふれるためには、神

の恵みを受け止める心、神の前に向いた心がまず重要で

すが。「あふれ」の強要は、「あふれ」ではなく神の名

を用いた「収奪」だと私は個人的には思います。神は、

与えられる方であり、収奪される方ではないと思ってい

ます。



 しかし、同信会さんのサイトを見る限り、同信会さん

でも、地方集会では、高齢化が進んでいるようです。高

齢化がすすんで行き、高齢者が独立してご自身お一人で

の移動が困難になった時、コミュニオンをどう考えるか、

ということは、これから高齢化が進み行くであろう諸集

会としてどう考えるのか、ということはひとつの大きな

課題と思います。ロスアンゼルスの北側の地域では、

オープンブラザレン系のキリスト集会(教会)のいくつ

かがすでに高齢化の信仰と、若年の信者がいなくなった

結果、維持できなくなって、閉鎖された後、近所の類似

性の高い他のキリスト教会に移籍されたことが実際に発

生したとお聞きしたので、伝道を進めていくと同時に、

他のキリスト者の信仰とそのスタイルも尊重しつつ、他

のキリスト者の方々と幅広く、フランクな関係のありか

たを構築していくことも、重要だと思います。(石濱さ

んの自伝や雲の如くを読んでいると、鉄道関係者への伝

道グループとの関係が見え隠れするなど、結構広範なお

付き合いがあったことが分かるので、日本でのブラザレ

ン活動も、もともとは他のキリスト者のグループとかな

りフランクな関係が構築できており、今のようにかなり

孤立的な立場ではなかったような印象を受けます。事実

を指摘しているだけで、石濱さんを理想化したり、過度

に重要視しているわけではありません。一応念のため。)



 

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