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Tim GrassのGathering in His Nameの中pp. 154‐5から、定期刊行物に ついて述べた部分から、ご紹介しながら、考えてみたいと思います。 -------------------------------------------- オープンブラザレン派の異なった雰囲気は、いくつかの定期刊行物によ って急速に同一化が進んだ。定期購読者と書き手は、読者層以外の部 分にも広がっていた。The WitnessとThe Believer's Magazineには、非 常に長期間担当した安定的な編集者がいたことで、読者と寄稿者に対 して、政党的な関係性(Party Line)とも言ってよいほどの、非常に強固 な関係性を気付いて行った。編集者は、本人たちはそうであることを否 定したであろうが、権威性といってよい程の立場を持ち始め、彼らは、こ の権威性を、寄稿者や記事の選択を通してだけでなく、(聖書解釈上の 疑問、教理的、教会論的、倫理的問題に関する疑問についての)読者 からの質問とその回答を通しても行使することができた。 ---------------------------------------------------- 定期刊行物を通した考え方が、あるグループでの意見や考え方に多大 な影響を与えたことは、近代の特徴かもしれません。特に、文字が読め る人が急速に増え、そして文字、とりわけ、比較的早く情報伝達ができる メディアである定期刊行物がもつ影響力は非常に大きなものではなかっ たか、と思います。 インターネットもない時代、当時の最新メディアであった定期刊行物は ブラザレンの考え方を形成する上で、一つの役割を果たしたであろうこ とは、想像に難くありません。 しばらくして、大会について触れますが、大会も、同様な役割を果た すのですが、大会は多くの人に情報を伝達できるというものの、定期 刊行物は、それ以上のものであったように思います。 ブラザレンの分裂事件が、神学的な教理上の論争からといえ、 その論争に海賊版の講演録が影響したことを考えると、印刷物とブラ ザレン運動の深い関係を考え猿を得ないように思います。 |
ブラザレンの発展史
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Tim GrassのGathering in His Nameの中pp. 153‐4から、定期刊行物 について述べた部分から、ご紹介しながら、考えてみたいと思います。 -------------------------------------------------- 1890年代から1910年代までの時期に出版された定期刊行物としては、 1891年にRitchieによってはじめられたThe Believer's Magazineがある。 北東スコットランドでRitchieは回心し、その後彼はブラザレン運動に身を 投じ、The Witnessという雑誌の前身を創設することとなった。彼は、この 雑誌にたびたび記事を投稿し、ブラザレン運動に対して教会から向けられ た否定的視点に対して反論を提示した。その意味で、RitchieはRossと同 様に、その出発の時点から、分離主義的であった。彼の視点からしてみる と、オープンブラザレン派の定期刊行物は、その当初の目的から離れてお り、人々が必要としているにもかかわらず満たされていない、と彼が考えた ものを満たすことをこころみた。 いくつかの牧会関係に重点を置いた雑誌が廃刊になり、残ったものは、 The Witnessを含め、その雑誌の性質と編集上の立場を変えていった。 Ritchieが明言したわけではないし、彼の考え方は大きく影響したというも のの、The WitnessはRitchieが想定した以上に非常に開放的なものであ った。彼が希望したのは、より狭い立場に立つ1888年創刊のNeeded Truthとその中間にあるようなのスコットランドの運動の中間層を狙ったよ うなものであった。 -------------------------------------------------- Ritchieという人物は、このように見るときに、ブラザレン運動が他の教会群 との比較の中で、ブラザレン運動の優れた点を強調するあまり、他の教会 群〜分離的になっていった傾向を生み出すことに、一定の影響を与えたも のと思います。ブラザレン運動の護教的行動の結果とはいえ、残念な結果 と言わざるをえません。ただ、Witnessがある程度開放的な立場をとった、と いうGrassの記述は、オープンブラザレンが、基本的には開放的な性質をも っていたことを思い起こす上で、非常に重要だと思います。 雑誌が、その編集方針を変えていくのは、社会の要請に合わせていくこと、 さらに、読者の必要が時間の経過とともに変わっていくことからも、ある程度 当然とはいえ、廃刊が多いというのも、この時代の特徴かもしれません。 創刊してすぐ廃刊というのはなかったにせよ、このあたりが少数派であった ブラザレン運動の実情を反映したものかもしれません。 ここで出てきたNeeded Truthというグループは、Tightening Tightという ことばで知られる、非常に保守的な志向性を持つ運動につながっていき、 後に、Church of Godと名乗ったことが知られています。スコットランドの 保守的な地域特性が多少は反映されているのかもしれません。 |
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Tim GrassのGathering in His Nameの中pp. 152から、 定期刊行物について述べた部分から、ご紹介しなが ら、考えてみたいと思います。 ------------------------------------------------------ 最初の、オープンブラザレン派の信徒向けに出版さ れた定期刊行物は、The Golden Lamp(1870-90)であ り、その編集者は主にWilliam Yappであり、後にHenry Groves(1818-91)が担当した。しかし、これらは、ニュ ースや広告を含まないものであった。他の二つのオー プン・ブラザレン派の雑誌The Latter Rain(1866-75)と Foot Steps of Truths(1883-1905)がHurditchによって 編集され、出版された。Hurditchが他派に対して、非常 に開放的な立場をとっていたため、これらの雑誌はブラ ザレン運動関係者の特殊性が明確に表れたものでは なかった。もっとも長期間発行された雑誌は、Ayrshireの MayboleのWilliam Shawによって発行されたBeliever's Pathway (1880-1949)で当初は、デボーションの目的で 発行されたが、キリスト者の奉仕者のための雑誌となっ た。おそらく最も広告やニュースを流すために用いられ た英国内の雑誌は、ロンドンで発行されていたThe Eleventh Hour(1886-95)である。スコットランドの雑誌 と同様、個人によってはじめられたものであるが、スコ ットランドの雑誌と違うのは、刊行を始めた個人が編集 上の責任を問われたことによってであった。 ------------------------------------------------------ こういう雑誌の変遷を見ていると、非常に多くの雑誌が 出版されたことが分かります。特にHurditchが出版して いた雑誌に見られるように、このグループはもともと他 のキリスト者グループに対してオープンな姿勢を持って いたにもかかわらず、エクスクルーシブ・ブラザレン派の 分離により、エクスクルーシブ・ブラザレン派との交流を 望まなかったとはいうものの、分離主義的な性質が深 まって行き、それがいまだに日本で後を引いているとい うことを考えると、この分離が歴史的に大きな分岐点で あったことを思わざるをえませんが、Hurditchのような 非常にオープンな精神を持った人物忘れてはならない のかもしれません。 歴史を振り返ってみて、自分たちの出発点や、本来 持っていった特性を知ること、ということは存外重要な のかもしれません。近視眼的にならないためにも。 |
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Tim GrassのGathering in His Nameの中pp. 151から、
定期刊行物について述べた部分から、ご紹介しながら、 考えてみたいと思います。 ------------------------------------------- オープンブラザレンの信者は、彼ら向けの月刊誌が 出版されていなかったという理由だけで、これらの 雑誌の影響を受けた。オープンブラザレンの信者向 けの定期刊行物が出版された後でも、これらの雑誌 には、Bellet, Darby, Kelly, Stoney, C.A. Coates(1862-1945)らの註解書や霊想書の広 告が掲載された。これらに比肩するオープン・ブラザ レン派の著述者が出てこなかったために、エクスクル ーシブ・ブラザレンの考えは多くのオープン・ブラザレ ン派の教会に関係した人々に非常に根深く残った。 ------------------------------------------- 以前、Nozzonさんとのリアルの対話の中で、なんで、 オープン・ブラザレンにダービーなどエクスクルーシブ・ ブラザレンの考え方が強い理由はどこにあるのか、と いうことの答えが、これかなぁ、と思います。エクスク ルーシブ・ブラザレンにおけるDarbyとか、Kellyの評価 あるいは、CHMで知られるマッキントシュの影響が、 オープン・ブラザレン派で高い理由は、数少ないオー プン・ブラザレン派での雑誌で、広告が載せられ、 彼らの書いたものが普及し、それが定番の聖書理解 として、オープン・ブラザレン派の中に定着していった ことがあるのではないか、と思います。この1980年代 から1900年代の時期の影響が、100年後の日本にお いても現在もなお続いているとすると、歴史を学ぶこ とは大事だと思います。新しければいい、あるいは古 ければいい、というのではなくて、新しいものでも問題 があり、古いものでも問題があり、ということを分かった 上で、良いものがなんであるのか、ということを考える ことが大事なんじゃないかなぁ、と最近は思っています。 |
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Tim GrassはGathering to His Name(2006)の7章P151で、
以下のように述べています。 ----------------------------------------------------- M'Vickerにも、そう主張する根拠はある。いくつかのグループでは、 書き手が限られているために、ある特定の個人の主張が支配的に なる傾向があったからである。このことは、このグループの中で著者 を示すイニシャルだけが用いられる習慣が広く認められることからも 傍証される。このイニシャルで表したとしても、あまりに有名であるた めに誰かが特定されることはしばしば発生した。 とはいえ、このイニシャル表示は、神が肉体をもつ人間を通して教 える権威を与えた、ということを暗示するために用いられた。例えば、 JNDはダービーを意味したし、CHMはマッキントシュを示した。しかし、 F.F. Bruceを示すために、FFBという例は見られない。 このイニシャルを用いる習慣は人間にではなく神に目が向くようにと いう根拠から出てきたものであるが、むしろ、ブラザレンの歴史では逆 のことが起きたようである。イニシャルの利用は、神秘的な権威性を書 いた個人に与え、人々がその権威性とその発言を受け入れるのに助け になったようである。 ------------------------------------------------------- オープンブラザレンでの書き手が限られることは、Grassも以前指摘し ていましたが、ブラザレン自身、書き手は限られていたように思います。 書き手が限られることで、特定の人たちの主張が繰り返し読まれるとい うことにつながり、それがさらに、その少ない書き手の権威性を高める ということになったようです。また、イニシャルの利用は、個人を特定 できなくするという効用よりは、個人の権威性を高める結果につながっ たのは、皮肉な結果ですが、そのような本来の目的からの逸脱、とい うことはわりとおこりがちなので、本来の目的とその検討ということを していった方がいいかもしれません。そうでないと、形式だけが残り、 形式の目的であった本質が忘れられてしまうように思います。 伝道出版社の翻訳本でもこの傾向はみられるようで、最近は翻訳 者を明示するようになりましたが、以前は、翻訳者が編集部という かたちで隠されることが多かったことは翻訳者が報われないという 点で、残念であったように思います。 最近の伝道出版社の月刊誌は読んでいないので、どうなってい るのかは、よくわからないのですが、現状でどうなっているのか、 一度、確認してみたいと思います。 特に、みことば、という信者の 自己研さん用の雑誌の著者がどうなっているのか、確認してみたい、 と思っております。バランスの取れた聖書解釈が広範囲に見られる ことを期待したいと思います。 |




