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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.176からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のA Typical Sunday(典型的な日曜日)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。 --------------------------------------------------------- ブラザレン派の日曜日のプログラムにおける第二の弱点は、ルールの必要性に関する注意の広範な欠如である。このことから、非常に多くの信者にとって有益でない『祝福を受けた考え』が述べられたり、一人の人がその集会の支配的な影響力を持つ人物となりかねないことであった。ブラザレン派の日曜日のプログラムにおける第3の弱点は、ぎちぎちに固定化したようなパターン化であり、どのような奉仕を実施するかの詳細についての議論から、集会の分裂につながることがあった。 --------------------------------------------------------- 確かに、誰でもが学べるということは、日曜日での話の内容が必ずしも有益でないものがあるということにもなりかねません。また、このブラザレンはと呼ばれるキリスト者グループが非常に伝道に熱心だったこともあり、伝道するのがキリスト者のすべての氏名と誤解された方も出たようです。その結果、十分に聖書を体系的に学ばないまま、語る人たちが出てくる場合もあります。信じて、すぐ福音を語ることもよいとされた時期もありました。このような時代の、いや、今もかも知れませんが、私の話を聞く羽目になった犠牲者の方には、深く御礼とお詫びを申し上げたいと思います。私自身の経験からで申し訳ないのですが、少なくとも私に関しては、今から反省してみれば、自分自身で十分に聖書を読みこなさないまま、あるいは深く考えないまま、福音を語ったり、学びを語ったりということにもなったわけです。ある面でいうと、どこかで聞いた話の劣悪なコピーで、非常にいい加減な内容のものも時にある場合がありました。本当にそんな話を聞く羽目になった方には、申し訳ないと思っております。 キリスト集会の中での特定の人物の影響が極めて大きくなる、ということに関しては、結構この種の問題はあるように思います。特に、開拓伝道として始まった教会(集会)の場合で、一人の男性信徒ではじめられたような場合、どうしてもその集会を始めた人の存在や考えが、繰り返し繰り返し語られる中で、知らず知らず信者の中に定着し、その集会(教会)の雰囲気や方向性を決定的に決めてしまうことがあるようです。 あと、聖餐式のパターン化については、どうしても人間、前例踏襲主義になりやすく、さらに、そのような行動を始めたときには、始めた人はそのように始めた方法論についても、一定の聖書解釈に立って実施していると考える傾向があるため、どうしても、パターン化が起きやすいようです。パターンから脱出させることも、実は重要なのですが、パターンからでるということは、従来のあり方を変えるということであり、それが、従来の聖書理解の否定と受け取られることにもなりかねません。こうなると、パターンの変更は、単に具体的な行為についての方法論の対立ではなく、聖書理解の対立となってしまい、そうなった場合、集会の分裂となってしまうようです。 |
ブラザレンの発展史
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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.176からブラザレン文化 に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のA Typical Sunday(典型的な日曜日)についての記載を紹介しながら、 考えてみたいと思います。 --------------------------------------------------------- ブラザレンの日曜日のプログラムにまつわる3つの弱点が生まれて きた。第一のものは、Witness誌上での朝の集会(聖餐式)に関する 質問に対する答えに明らかに見られるものである。聖霊の臨在のみ が聖餐式や学びにおいて必要であるとされる多くの主張であるもの の、その実際についての言及や詳細が具体的に述べられないこと である。 --------------------------------------------------------- 聖霊の導き、ということは、他のきよめ派などでも言われますが、ブ ラザレンでも言われることですが、その実態について、説明されるこ とはほとんどなく、これに関して体系的な学びがなされることも少 ないように思います。とは言いながら、聖霊の導きは大事にされる ので、『聖霊の導きです』といえば、ほとんど、水戸黄門の印籠と同 じ効果を持ち、議論があっても、終わらせてしまう効果もあるだけに、 注意が必要な概念でもあります。聖霊の働きは、霊のみに働くので はなく、知性においても働く、というのが、パウロの主張のようですが、 霊肉二元論で考えられてきた時代を経ているため、どうも例の世界 は霊の世界でだけとらえられることが多く、結局うやむやにされてし まうことが多いのもまた事実なのではないかなぁ、と思います。 |
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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.176からブラザレン文化に 関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のA Typical Sunday(典型的な日曜日)についての記載を紹介しながら、考えてみた いと思います。 ----------------------------------------------------------------------- Ministry Meeting(学び会)は、通常、日曜日の午後に開催され、とりわ け多くの都市にある集会では、その傾向がみられ、非常に質の良い学 びが語られることから、近隣の集会や教派の教会から、多くの人々を 集めた。そのときには、聖書学級や日曜学校も開催された。農村部の 集会の信者は、家への往復の時間をロスしないために、それぞれの集 会に弁当を持参して、それぞれの集会で食べたのであった。福音集会 は多くの場合、夕方に開かれ、いくつかの地方部の集会では、午後の 時間は集会外に出て行っての伝道の貴重な機会として用いられた。 厳密な意味での集会とはいえないものの、これらの機会は、協力して 福音を明かしする機会として信者は受け取っていた。多くの場所では、 信者でない人々を引き付けるため、トラクト(伝道用の簡易パンフレッ ト)が配布されたり、路傍伝道(Open Air Meeting)が行われた。 ----------------------------------------------------------------------- これまでの議論を振り返ってみると、都市部の教会(集会)と地方部の 教会(集会)でのそれぞれの時間配分は次のようなものが多かったこと がわかります。 ■都市部の集会 聖餐式(礼拝) − 昼食 − (学び会) − 伝道用の集会 ■地方部の集会 聖餐式(礼拝) − 昼食 − (都市部の学び会へ参加) − 伝道用の集会 または 聖餐式(礼拝) − 昼食 − 屋外集会など伝道活動 − 伝道用の集会 このようになっている背景には、19世紀中葉では、通勤がそれほど発生してい ないこと(たいていは自宅と勤務地がほぼ徒歩圏)、夜のエンターテイメントが限 られ、人々が暇を持て余していた、という背景の中から出てきた行動パターンの ように思えてなりません。テレビもなく、ラジオもなく、おまけに映画が登場する以 前ですから、人々は自宅で、本が読める人は本を読むか、他人の家に行って話 しこむか、暖炉の前に固まって、無駄話をしながら時間を過ごすしかなかった時 間だけはあふれるほどあった人たちに、福音を語る機会として、日曜日の夜のち ょっとしたイベントとしての伝道用の集会というのは、一つのメリットだったのかも しれません。 |
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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.176からブラザレン文化に 関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のA Typical Sunday(典型的な日曜日)についての記載を紹介しながら、考えてみ たいと思います。 --------------------------------------------------------- 礼拝(Worship)と牧会上の支援(Ministry:学びと訳す方が正確かも)の 区別は、ブラザレンの集会生活の考え方の中で中心的なものである。礼 拝は、神に向けられたもので、聖霊の導きによる実としてみられるもので あった。その結果、準備することは不適切であると考えられた。学び (Ministry)は、人に対したもので(とはいえ、本当にそうかどうかの議論は 続いていたが)、準備の結果のみであると一般に考えらていた。 --------------------------------------------------------- 礼拝は、聖霊の導きが現れる場所ですが、では、聖霊のみによるのでは ないんじゃないかなぁ、とおもいます。というのは、パウロは、霊において も祈り、知性においても祈る、といっているので、そのあたりも考えると、 単純に霊的なもの、ともいいにくいのかなぁ、と思います。 ある教会(集会)で、お聞きしたお話では、学びも神が語らせてくださる 霊的な実であるので、準備する必要がないのでは、というお話をお伺い したことがあります。それはそれで、お考えとしては、そういう見方も あるかなぁ、とも思うのですが、そうなってくると、体系的なことを理解する 機会が十分ではなくなるように思います。これは、Tim Grassが指摘するよ うに、ブラザレン派の聖書の言葉の一語一語に着目して読み込んでいく聖 書の読み方とどうも深い関係にあるように思うのです。その結果、聖書の学 びも非常に短いものとなりやすく、ほかの箇所との関連などが薄くなってし まうケースも少なくなかったのではないか、と想像します。 |
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Tim GrassのGathering to His Nameの中pp.175-176からブラザレン文化 に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のA Typical Sunday(典型的な日曜日)についての記載を紹介しながら、考えてみたい と思います。 --------------------------------------------------------- 定期刊行物に散見される表現からは、子供たちが聖餐式に参加しなか ったことが分かる。子供たちが家にのこるため、両親のうちのいずれかが 家に残ったことが分かる。とはいえ、定期刊行物には、親が子供たちを連 れて聖餐式に参加し、どんなことが行われているのかをみることを推奨す る記事が見られるものの、子供たちは、他の関与しない人々と一緒に集会 の後ろ側に座るものとされたが、観察の目が光っていないと、いたずらを すぐにすることがあった。 --------------------------------------------------------- 子供が集会、とりわけ、聖餐式(礼拝)参加の問題は、議論が分かれる ところではあります。今なお、議論が分かれていると思います。 とはいえ、個人的には、積極的な子供の参加があるほうがよいと思い ます。家族であることをすすめている神がまとめている家族を分離させ なければならないほど、聖餐式は重要なのかなぁ、と思います。仮にそ うだとしても、イエスは積極的に受け入れていった姿勢が、イエスの言葉 とともに福音書に記載されています。そもそも、イエスは、小さきものを受 け入れよ、とおっしゃったように思います。子供を身近に引き寄せましたし。 このあたりのことを考えると、子供たちがいやすい環境づくり、というのは 大事かなぁ、と思います。とはいえ、子供たちが大騒ぎして礼拝に集中で きないのも問題かもしれませんが。 そういえば、以前お世話になっていた北関東のS集会では、40年以上 前のことですが、大人たちがパンを割こうと思ったら、そのパンを子供た ちがこっそり食べていてなかった、というようなことがあったようですが、 そういうおおらかさがある集会って、ある面でいいなぁ、と思います。私は そこにしばらく居させてもらったので、ずいぶんと考えが変わりましたが。 |



