ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

北米のブラザレン運動関連文書

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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。


なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見・コメント・注釈です。

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 これが、最後の主眼点になります。私は、集会を去った人々のごく限られた人数しか知りませんが、彼らが主とともに勢いがある生き方をするのは、彼らが集会を離れてからなのでしょうか。そんなことはない、と私たちは思いますが、事実、そうなのです。私たちは、ほかの人たちを集会に招こうとしましたが、それは非常に厳しいことだとわかりました。△△さん【匿名となっている】という方は、一生懸命努力していましたが、彼は実を結んでいませんでした。しかし、彼が行っている教会では、彼は非常に成長し、主を愛する非常に元気のよいクリスチャンであり、どんな機会でも、主に仕えようとしています。彼がそのような姿を見たとき、彼の妹は失望しました。なぜならば、彼女は、彼がそうであるように元気のよい状態ではないからです。私たちは、集会において、私たち自身を過剰評価しているように思います【これは、現代のパリサイ人と呼ばれるゆえんだと思う。自分たちだけが真理を持っている、に近い概念を持っているブラザレン運動関係者は少なくないように思います】。私たちは、「私たちこそが、神の青い地球上において、真実の光を持ち、神に近いクリスチャンだ」というずれた優位性の感覚を持っているのです。これはずれの一つのであり、ほかの多くの人々は、私たちのことを残念に思っているのです。私が尊敬する信者は、集会の交わりの中にいないのです。


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しかし、厳しいですね。確かに、ブラザレン運動関係者の中に暗黙の前提として、自分たちの関係のキリスト者集団は優れている、という意識が強い方もおられます。集会の人たちの考え方が、世間からずれているとは、いやはや、厳しい。

 この女性信者のいうように尊敬できる信者いない、とは言うつもりはありませんが、確かに魅力的な信者の方や、その方がいる集会に行ってみよう、という気持ちにさせる方は、少ないように思います。というのは、このような勢いのある元気のいい、あるいは従来の枠組みにとらわれない信者さんは、どうも集会には居辛くなって、そのうち集会の中から出て行ってしまうから、ということはあるようなんですね。他の教会の人からも一定の評価を受けた人、例えば、F..Bruceなんかは、イギリスの集会でも、相当いやなことを言われたり、つらい思いをしたようです。F.F.Bruceが、最後まで集会に残ったというのは、私にとっての謎の一つです。Bruceの伝記を入手してみたいと思っています。


 ところで、日本でも、多くの広いキリスト者集団から尊敬を集めている信者さんの中には、実は、元ブラザレン運動関係者、という方も意外と多いのです。とはいえ、それと同じくらい、問題を起こした方も、少なくはなくおられます。このあたりが実は、いろいろ考えさせられます。

 ところで、勢いのある信者さんというのは、ある面、カリスマ性のある信者さんでもあり、このカリスマ性が集会では、どうも否定的にとらえられる原因になるようです。

 

Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。

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1. Love forChrist.

2. Accepting HisLordship.

3. ObeyingHeadship.

4. Wearing thehead covering.


Instead, we haveit backwards.

1. Wear the hator leave.

2. Oh, by theway, it symbolizes Headship.

3. Oh and that’spart of Lordship.

4. Love forChrist? Oh, nobody mentioned that. Is that even important?


The Lord understood the necessary motive forobedience, so why don't we? Obedience is not the end all be all that wekeep hearing pounded from our pulpits, it is LOVE for Christ DEMONSTRATEDby obedience that is the important thing. I could obey headship and wearhats till the cows came home, but if within my heart there is no love forChrist in doing it, what profit is there in it? We just simply don't get it, dowe? Young people need CHRIST, they don’t need a bunch of rules. And thesewomen who no longer practice head covering, obviously never were foundedin the motive and truth behind it. They saw it as nothing more than arule observed by the assemblies. This is likely the simple answer to yourquestion.

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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。

なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見・コメント・注釈です。

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キリストへの愛 → キリストが神であることを受け入れる → キリストがかしらであることを認める → 被り物をかぶる

 
その代わり、我々は順序が逆になっています。

被り物をかぶるか、集会を去る → あぁ、そういえば、被り物は、主が「かしら」だったからですよね。 → そういえば、それはキリストが主であるから、でしたよね。 → キリストへの愛?あぁ、そういえば、だれもそんなことは言わなかったですよね。それってそんなに大事でしたっけ?

 
ヨハネの福音書の中で、主は、『もし、私を愛するなら、私の戒めを守るはずです。【おそらく、ヨハネ1415】』とおっしゃっておられることを思い出すことができるのではないでしょうか。主が、従うことへの必要な動機を理解してくださるのだとしたら、どうして私たちは理解できないのでしょうか。従うことは、我々の信者から繰り返し聞かされているからというそもそもの(end all be all)目的ではなく、キリストへの愛として従っていることを、示することが重要なのではないでしょうか。私は、帽子をかぶることを、牛が家に帰るときまで(慣用句:ものすごい長い間)続けることができるでしょうが、それをすることの中に、キリストの愛がないとすれば、その中から得られることとは、一体何なのでしょかう。私たちは、そのことを理解していないのではないでしょうか。若い人々は、キリストを必要としているのであり、ルールを必要としていないのです。そして、これらの被り物をかぶることをやめた女性たちは、行動の動機とその背後にある真理をきちんと得ていないのです。彼らは、被り物をかぶることを単なる集会の中だけでのルールとみているのです。これがあなたへの質問のご回答になっているのではないでしょうか。【筆者が語りかけた質問とは、なぜ、女性信者たちが帽子やベールといった被り物をやめようとするのか、というのが質問のようです。】

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この文章を読みながら、まぁ、こういう風に言う信者さんは日本では、あんまりいないと思いますが、語り手の側は、聞いている相手が知っているものとして、勝手に前提を置いて話をすることが多いようです。特に学びでは、概して、キリストへの愛は、既知の事実として触れないことが多く、むしろ、キリストの愛を大前提として、その結果として生まれること(例えば、被り物とか、幕屋とか、そのほかのこと)だけを語るところがまずいんでしょうねぇ。まぁ、集会では、それを体系だてて学ぶという習慣がそもそもないので、それが大きな問題を生み出しかねない、ということのようです。


 私自身、振り返ってみても、確かに、学びと称される時間に、非常に基礎的な教理の部分というのか、信仰の土台となる部分について、話すのは、どうかなぁ、と思い、わりと細かな解釈論的なお話しをすることが多いように思いますが、しかし、いろいろなレベルの信者がいるとき、特に若い世代の人たちがいるときに、若い世代の人たちがわかっているつもりになっていることについて、基礎的な聖書理解についての解説を、していくことが重要かもしれませんし、細かな聖書理解を解説するよりも、骨太の聖書理解を、時に振り返りつつ、話していくのが大切かもしれません。最近、信仰とは何か、神の忍耐とは何か、聖書を読むとはどういうことか、聖書とは何か、救いとは何か、ということを改めてまとめながら、聖書から話す努力をしてみていますが、結構、面倒ではあるものの、大事かもしれないと思っております。


Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。

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 So back to your dilemma: you are wonderingwhy those other women don't see it as I just described. Here's the answer,and back to phariseeism we must go: in the assemblies we operate by legalitymuch of the time, and on this matter, we over-inflate the hat. We make somuch of the head covering that we totally are blinded to the mostimportant thing behind it, and that is LOVE FOR CHRIST. You see, it is onlylove for Christ that is going to make me bow to His Lordship, which inturn will cause me to accept Headship, which will result in me wearing ahead covering according to His commandment. That is how the order shouldgo: 



Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。

なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見・コメント・注釈です。

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元の質問に戻りましょう。あなたは、なぜほかの女性が、私が書いたように見ないのか、という疑問をお持ちのことと思います。その疑問に対する答えとはこのようなものだと思います。そのために、パリサイ主義に戻る必要があります。集会(教会)では、ほとんどの場合、法的(律法的)に運営がなされているのではないでしょうか。この問題【被り物について】は、ものすごく大きく帽子をふくらませたような問題となっています【直訳すると、かぶりものの問題を大きくしています、ですが、このことは、大きな帽子とするということで、比喩的に大きな問題であるということを指摘しているようです。なお、北米のかなりの部分では、レースのベールではなく、帽子をかぶるところが多いようです】。我々は、被り物をあまりに重視するあまり、最も大切なその背後にあるもの、つまりキリストへの愛を見ることをやめてしまっているのです。【必ずしも、そうとも言えないようにおもいますが、この人のところはそうなのかもしれません。】キリストが主であること(リーダーシップ)に従うのは、私がキリストを愛するが故のみなのですし、それゆえ、キリストがかしらであることを受け入れているのです。そして、それゆえ、私は主の命令として被り物をかぶるのです。このことは、次のような順番になっているように思います。

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集会の運営が律法的だ、というのは、必ずしもそうだとは言えないように思うのですが、一部で柔軟な対応ができず、律法的と受け取られても致し方ない運営をしているかのように受け取られかねない運営をされておられるところも全くないわけではないようです。

こういう表現をみていると、形式的に従っている、その背景を考えていない場面が多いように思います。その結果、本来信仰の問題として始まったものでも、そのキリスト者集団で、一定の共通の行動パターンとなったり、習慣化してしまった結果、信仰の問題とは別の論理が動いている場合もないわけではないようです。行動パターンが共通化してしまうと、それから外れた人は、共通パターンから外れていることだけで、おかしく見えてしまう、ということは起きるようです。たとえば、遣欧使節団としていったお侍さんたちは、船の中でいる限りは、違和感は抱かなかったようですが、宮廷の中に入った瞬間に違和感を抱いた結果、洋装令のようなことが明治期に起きたのだろうと思います。

さて、このように、文化や習慣、と信仰の問題の弁別というのは、意外に難しく、信仰の問題として始まったことも、その出発点が容易に忘れられることで、習慣の問題になり、それが文化の問題となり、文化として、人間の行動を縛ってしまうことになるようです。

本来的に聖書からどのように読み解いて、それを自分たちの世界との関係でどのように解釈していくのか、ということを考えるためには、自分たちの行動の基準となっている行為について、その根拠とは何か、その出発点とは何か、ということを考える必要があるように思うんですがねぇ。また、繰り返しになっても、基本的なことを一緒に考えるということが大事だと思うんですけどね。



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