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Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。 -------------------------------------------------------------- It will benothing more than a Gospel Hall rule and won’t “stick” to use your terminologyof last night. See, I'm not going to wear a hat to meeting becauseit’s a Gospel Hall rule, if I am going to wear a head covering to meetingor elsewhere, it is because I understand and accept the truth behind it. Yes,it would be hard to go somewhere else where they don't practice headcovering and wear hats, but if I do wear a hat there, it is not becausefor fear that one of the brethren might see me, or even because I have worna head covering for years in the assemblies, it is because I love the Lordand want to obey Him. |
北米のブラザレン運動関連文書
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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見です。
---------------------------------------------------------------------------- 被り物のことは、集会の規則以上のものではなく、昨夜【この手紙を出した人の学び会があったのは、手紙が出される前日であったようです。】お使いになられた用語をつかうと、もはや『粘着力【あるいは、そこにとどめる力】をもっていないのです。私が被り物をかぶるのは、それが集会の規則であるからではなく、それは、私がその背後にある概念【神に対する敬意】を受け入れ理解しているからです。もちろん、被り物をしなかったり、帽子【北米の大半の地域では、被り物は、ベールではなく帽子のようです。ベールは南部などでのごく少数派のようです。】をかぶらないような、ほかの集会や教会にいくことは難しいですが、もし、私がそこで帽子をかぶるとしたら、ほかの信者が見ているからではなく、あるいは、長年集会でそのようにしてきたからではなく、私が主を愛しているし、主に従いたいからです。 ----------------------------------------------------------------------------被り物の議論は、時代背景を前提とした解釈として、日本の多くの教会(集会用語を使えば、教派の教会)でほとんど行われていませんが、いまだに帽子を文化としてかぶる習慣のある北米では、神への敬虔の服装による表明というよりは文化としてかぶっているところはあります。
お葬式や、公式の場では、いまだに北米では帽子をかぶる習慣は、いまだに残っています。例えば、大統領の就任式や、公式レセプションでは、大統領夫人は帽子をかぶっていることが多いですねぇ。
映画なんかを見ていても、サザンバプティストの教会なんかでは、日曜日の教会へ出席している女性は、みんな帽子をかぶっています。
男性が正装としての帽子(HAT)をかぶらなくなったのは、ケネディが就任式で帽子をかぶらなくなって以来の受け入れられていた習慣のようです。しかし、ワシントン州やイギリス諸島地域のような小雨が絶えず降っている地域では、帽子は、傘の代わりになり、結構便利なのですね。
あ、きょうから、復帰しました。しばらく、不定期更新になります。ご心配をかけた、UgoUgoさん、Luceさん、ご心配をおかけしました。今年の夏は、体力が落ちていて、気力が欠けてたり、PCが不調だったり、作業用PCの貸し出しがあったりと、いろいろありましたので。ぼちぼち復帰していきます。長い夏休みをいただいてしまいました。
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Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。 -------------------------------------------------------------- Let’s take head covering for example, seeing as it was one of the points you mentioned. You are right, head covering is as clear as day in the Scriptures. But the head covering in and of itself is not the truth in 1 Cor 11, the head covering is a SYMBOL for the truth. And yet, here again we put the cart before the horse in making the head covering almost a hallowed object, or dare I say even a holy sacrament! The real truth behind the head covering being taught is Headship and ultimately Lordship. And if this truth, LORDSHIP, is not clearly taught and understood BEFORE head covering is introduced, people won’t understand why they are wearing a head covering, and in turn will not value it or internalize its importance. |
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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見です。
---------------------------------------------------------------------------- 被り物のことを例にとって考えみましょう。このことはあなたが話されたことのポイントの一つであったように思います。あなたの言われていることは正しいとおもいます。被り物のことは、聖書の時代のときと同様に明白です。かぶり物自体は第1コリント11章の中の事実そのものなのでしょうか。確かに、被り物は、真実の象徴【神に対する恐れというのか、権威を認める行為】ではあります。しかし、そうだとしても、ここでも、我々は、馬車を馬の前においている状態となっています。被り物をもっとも尊いもの【被り物をかぶるかどうかに焦点があり、本当に神を敬っているかどうかはその次になっているということをこの手紙を書いた女性は言いたいようです】としているようです。あえて私は言わせていただくが、聖なる儀式【被り物をかぶったり、取ったりと忙しい場合もあると思います。】の一つとなっているのではないでしょうか。被り物が教えられる背景にある真の真理は、キリストがかしらであることと、最高の主であることでしょう。そして、真実、主であることが明白に教えられているのであり、被り物が用いられる前に理解されていないかぎり、人々は、なぜ被り物をするのかを理解しないでしょうし、そのこと【被り物をする神に対する敬虔】に価値を置かないことももちろんですが、さらに、そのことを本心から重要と思わないでしょう。
---------------------------------------------------------------------------- 個人的には、被り物に関しては、かなり文化的な影響があるかなぁ、と思います。18世紀の初期の時代を見ていると、ボンネット(といってもミレーの落ち穂拾いに出てくるような髪の後ろ側を覆うような婦人用帽子)型の帽子が多く、被り物は少数派です。時代がさがってくると、つばの広い帽子になってきます。日本のようにベールをかぶる習慣なのか、帽子をかぶる習慣なのかに関しては地域差があるように思います。ただ、日本で、帽子をかぶって集会に出席していると、びっくりした視線で見られるかもしれません。日本では、帽子をかぶる姉妹、というのは、1970年以降では、おられませんでしたねぇ。 その昔は、皆さん和服ですから、和服につばひろ帽というのは滑稽だからこそ、レースの被り物だったんでしょうね。 経験の象徴という意味での帽子、ということを考えたとき、ユダヤ人のシナゴーグに訪れたときにも帽子を敬虔の象徴としてかぶりましたが(丸い小さな平たい帽子)、こういうことを考えると、形式なのか、周囲への同調なのか、習慣に合わせているだけなのか、それとも敬虔なのかは、外見だけからは判断できないので、どうしても目で見てわかる形が議論されがちです。これを避けるためには、ときどき、何故、神への恐れや神への敬虔が重要なのか、という視点からの理解に立ち返ってそれぞれが考えることが重要なのかもしれません。 |
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Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。 6. WE ARE MISSING THE BOAT - LOVE FOR CHRIST So what then causes this discouragement among young people? We hear it week in week out, obey, obey, obey. If you're not obeying, you're in the wrong, etc. I don't argue that obedience to Christ is essential, but this pounding approach of “obey or die” drives people away, and doesn’t take into consideration the motive for obeying, which is love for Christ. Being constantly bombarded from the platform about the pattern, the pattern, the pattern, obedience, submit, submit, leaves little to refresh the soul. If you look around you, there really aren't many, if any at all, who are rebelling against the pattern. We get it already! But there are so many of us who have burdens in our lives, and hands that hang down, who feel we are just getting beaten into the ground by repetitious preaching that focuses so much on the rules, but not the reason behind them. |




