ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

北米のブラザレン運動関連文書

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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見です。

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6. WE ARE MISSING THE BOAT - LOVE FOR CHRIST

では、なぜ若い人々が失望してしまうのでしょうか。私たちは、毎週のように、「従え、従え、従え」と聞かされています。「従わないなら、あなたは間違っている」などといわれるのです。キリストに従うことが基本であることを議論しようとは思いませんが、「従うか、死か」【というよりは、真理か永遠の死かといった二項対立の概念の提示】といったような強い主張をぶつけるような方法は、人々を遠ざけるし、キリストの愛ゆえに従うという意思について考えにいれてはいないのではないでしょう。講壇からこの種の形、形、形、従順、従うこと、従うことと、ずっと絨毯爆撃のように攻撃され続けるため、霊をリフレッシュさせることがほとんどできないのではないでしょうか。あなたの周りをご覧になられたときに、パターンに対して反発する人々は多くないでしょうか。多くないとすれば、私たちは、パターンの中にはまり込んでいる【そして抜けられない】のではないでしょうか。我々の多くの人々は、人生における重荷があり、手にはたくさんのものがぶら下がっています。我々は、ルールに焦点を当てたこのようなくどくどしい教えによって、地面に撃墜されてしまうかのようではないでしょうか。【うわぁ、強烈】しかし、その【ルールの】背景については教えられているでしょうか。【Excellent Questionだと私は、思います】
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もちろん、キリストに従うことは、キリストの弟子である以上、当然と言えますが、ここでの問題は、キリストに従うことといった内容としての理解についての多様性の問題ではないか、とも思います。つまり、キリストに従うことの内容そのものをどう考えるか、ということです。もう少し言うならば、聖書理解に従う、と言うことが指す、聖書理解の具体的内容についての問題だろうと思います。そして、その聖書理解が聖書を個人的深く読んでえら得た信仰上の信念や確信なのか、それとも、どこかで誰かが学んだ聖書理解による信念や確信なのか、あるいは、長老やその教会(集会)の指導者が保有する聖書理解なのか、ということだろうと思います。ここでは筆者はそのことを明確に言及していませんが。
 本来、聖書解釈には幅があるはずですし、聖書解釈の詳細な部分やその適用に関しては、かなりの多様性というか幅があるはずだと思うのです。「従え」という言葉を聞く時、何に従うか、という従う内容に関する聖書理解は、聖書の全体から、その解釈に妥当性があるものだろうか、ということを十分に考えた方がよいとは、私は思うのです。ある時代のある環境下で生み出された可能性のある聖書理解にとらわれ、その中に囲い込まれる危険性が、あるように思うのです。
ところで、ある教会(集会)では、無意識化に形ができてしまう場合があります。例えば、礼拝で祈る順番(たとえば、最後は長老が祈るとか、最初は長老が祈るとかの順番)、聖書の言葉を読むときは、パンが回った後であるとか、讃美歌を選ぶ際に、パンの前には、このような讃美歌をうたうべきとか。まぁ、パン裂きは十字架の苦難を覚えるという側面がるので、復活を喜ぶ明るい曲調の歌は似合いにくいというのはあったりはします。それ以外にも、暗黙のルールやこういったことを発言することは望ましくないとか、結構暗黙のルールといっていいものが出来上がっている場合があります。最初に来られた方、特に他の教会(集会)から移籍された方々は、最初しばらくじっと様子を見て、その暗黙のルールを見た方がよい場合があるということがあるようです。集会には規則(宗教法人格として備えるべき明文化された既定)がない、と主張されることが多いのですが、実際には、行動に関する様々な暗黙のルールがあって、それにぶつかったとき、外部の方は、行っていることとしていることが違う、という印象をもつようです。その集会の中での生活時間が短い際に、気楽に発言すると、気まずい思いをすることもあるようです。実際にどのようなことになるかは、集会ごとや責任者の考えによってかなり異なるので、実は一概に何ともいいにくい、という部分があります。
Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。

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Recently I spoke with a friend who said she would be willing to compromise all the truths of the breaking of bread every Lord's day and head covering, etc, for just a little bit of encouragement and upbuilding elsewhere. Wow! What would drive someone to say or consider such a thing? Something must be lacking, and we can’t just cop out and say all the fault lies with the one who leaves. And yet the popular consensus is that whoever thinks of leaving or leaves is entirely at fault and being disobedient. Ok, so they have left the assembly and are now going somewhere that doesn’t uphold all the truths of Scripture, but I am telling you, people do not leave assemblies because of doctrinal reasons. Most who leave hope they can find a place that practices the same things. The reason most people leave is due to discouragement in their faith and a lack of care.
Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。

なお、次の記事で、英文も載せておきます。

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最近、私は、ある友人と話しましたが、彼女が言うには、彼女は、毎週パンを裂くことや、被り物をかぶることといったことをあきらめ、もうちょっと励ましをくれて、成長させてくれる別の場所に行くことを考えているといっていました。何ということでしょう。何が、そんなことを考えさせたり、言わせたりするのでしょう。何かが抜け落ちているのであって、去っていく人々の中に問題のすべてあるという態度をとったり、失われていくままにすることをしてよいのでしょうか。ほかの良くみられる状況として、去っていく人々や去ろうとする人々は完全に間違っているという意見をお持ちになるかもしれません。もちろんそうかもしれません。だから、彼らは集会を去ったし、今去ろうとしている人々は聖書の真理を堅持していないのかもしれませんが、私が思うには、集会を離れるのは、【聖書に関する】教理上の問題ではありません。離れる人々の多くは、同じことができる【教理を守ることができる】場所を求めているのです。彼らが離れるのは、信仰生活における失望と、【個人への】関心の不足なのです。


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キリスト者としての成長とは何か、ということを考えると、単なる聖書知識の成長だけではなく、キリスト者として社会の中で、生きるときに、神とどのように向き合うか、ということであったり、神と共に生きる生活をより豊かにするということはどういうことか、ということかもしれません。それは人それぞれ違うでしょうが。

フランクに生き方を語る場であったり、聖書の理解を語る場であったり、さまざまな人々と共に生きる中で、豊かに生きている、ということについては、あまり学ばれることは少ないかもしれませんねぇ。意外と、こういう部分が本当は大切なの子かもしれません。

この手紙の著者の方がご指摘になっておられるように、集会から去っていく人々について、それらの人に責任がすべてある、という私たちは態度をとりがちかもしれませんが、私たちのうちの問題とは何か、という自己反省的な視点が欠けているのか、という視点で見直してみることも大切なのかもしれません。



Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。

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5. NO CONCERN FOR INDIVIDUALS
Another reason young people leave is because in the assembly we care more for the company as a whole rather than the individuals that make up the assembly. Just stay in line and don't step out, or your head will be on the block! It isn’t a place to learn and grow in a safe loving environment, it’s “be perfect, or be gone”! And I can prove this. If it were not the case, then why do we neglect and care less about those who leave? If we truly cared for individuals, we would extend Christian love to those who leave. But instead we adopt the attitude that maybe “for the greater good” we are better off without them, so let's groom those that are still here, and move on. Now, I am very grateful for being raised in the assembly and the firm foundation of teaching I have received in my lifetime. I believe the truths from Scripture and am not at risk of leaving! But why this all really concerns me is that I have friends who are contemplating leaving the assembly, or have left, or just will never come into fellowship. And this really bothers me.

Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。

なお、次の記事で、英文も載せておきます。

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若い人々が集会を離れるもう一つの理由は、集会を作り上げている個々人よりも集会全体についての関心が強いことにあると思います。あるラインの中にいて、そのラインからはみ出さないようにしなさい。さもないと、あなたの頭は塀の上にあることになります。このような場は、学ぶ場であったり、愛し合う場でしょうか。完全であれ、さもなくば去れ、といった感じの場所とはなっていないでしょうか。このことの証拠を示すことができます。このことではないとしても、だとすれば、どうして、去っていく人々に関心を示さないのでしょうか。もし、個人に関心があるとすれば、我々は、去っていく人々にも愛を示すことができるのではないでしょうか。彼らがいなくなってより良くなったという態度をとるのであれば、集会にいる間にもっと関与をしたら良かったのではないでしょうか。私は、私の人生に受け取った教えをしっかりとした基礎と今所属する集会で育てられたことに感謝しています。聖書の真理を信頼していますし、私自身は集会を去るつもりはありません。しかし、なぜ、私は、集会を去ろうとしている人や、すでに離れた人、集会の中に決して戻ってこない人に友人がいるので、このことが気になるのです。このことは本当に私にとっての悩みの種です。


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確かに、この方の指摘のように集会全体のために、個人が犠牲になるという面は、集会が複数人からなるコミュニティである以上、多少は避けられないとはおもいますが、確かに、集会を離れてしまった人について、時に冷淡にすぎるように思います。この方のように、集会から離れて行かれた方と継続的な友人関係があるような場合、あまりの冷淡さに心痛めるというのはあると思います。

とりわけ、日本での場合、他の教派をあまり普段からよくいってないこと、さらに、超教派関係でのほかの教会との友好関係が集会に少ないこと、超教派活動をあまりよくいわないことなどから、集会に行けなくなった人の行き場(逃れの街のような教会や集会)が限られる、ということはあると思います。その結果、集会を離れることで、キリストへの信仰も継続できなくなるというケースも少なくない、と思います。本当に残念なことですが。

とはいえ、基本OJTで指導者養成をするキリスト者グループなので、個人に対する霊的ケア、というのかミニストリーというのか、霊的な指導者としてのメンターみたいな事柄をもう少し考えることも必要かなぁ、と思います。もちろん聖書のことを詳しく解釈することも、それと同じくらい大事だとは思いますが。









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