ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

When I was wee!

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まとめ(3)

聖書理解の多様性について
 ある面、現在のあるキリスト集会にある程度同じような人々が集まっていることはしょうがないと思うけれども、しかし、集会の構成メンバーの諸属性と、集会のありようそのものに多様性があまり尊重されないのは、個人として、少し困った問題だと思っている。

 世の中が多様な人々から構成されるように、キリスト集会も多様な人々から構成されているといいなぁ、多様な考えを持つ人々から構成されているといいなぁ、と思う。逆に、同一集会内で同一の考えでなければならない、同一の考えを共有せねばならない、という同一性のトラップにとどまらないほうがいいなぁ、と思っている。そして、異なった雰囲気をもつキリスト集会同士がお付き合いできないこと、多様な教会群とキリスト集会がフランクにお付き合いできたりすることが妨げられたり、交流が妨げられるのは、かなわないなぁ、と思っている。

一致と同一は同じではないのでは?
 個人的には、一致と同一であることは違うと思うし、真理や美しさの表現の仕方は人それぞれ違うのだ。より具体的には、真理に関して数学者ないし工学者は連立微分方程式として頭に描くであろうし、画家は2次元画像として頭に描くだろう。そして彫刻家は3次元画像として、計算機屋は、レイトレーシング型ソフトを使ったCG画像で表現するだろう。水墨画家は白黒のグレースケールで、そして、短歌作家は短歌で、小説家は文章表現で、そして俳句作家は臭くとして表現するだろう。同じものを見手、それが美しいと思ったとしても。

多様であることの意味
 ところで、生物学的には、多様性がないと、外部からのショックが来た時にショックを吸収でききれないことが多いからである。そして、一気に全滅の道を走るからである。私が別の方向に向いているのも、個人的には、キリスト集会の精神を残すためだと思っている。それは理解されない方が多いでしょうけど。それはしょうがないと思っている。

 人それぞれが別の方向から一つのものを見ている、それこそが多様性を喜ぶということではないか、と思うのだ。神ご自身は創造の御業を終えられ、実に多様な生物の住む姿をご覧になられ、「美しい」とおっしゃられた。そして、ノアの洪水の時も、多様な動物を残すべく、一見役に立たない私のようなどう考えても役に立ちそうもない動物ですら箱船の中、すなわち神の支配の中に入れられたのだと、思っている。無用の用というか、多様性の豊かさを喜ばれる神、ということは考えたほうがよいかもしれない。

神に代わって人間が判断することの恐ろしさ
 その意味で、「あの人が救われているのではないか」とか、「この人々は救われていないのではないか」とか、救いがはっきりしていないのではないか、というような発言はその言葉を向けようとしておられる方々に対して、失礼千万であるばかりか、それは自分自身を神の座に引き上げていることになるのではないか、と思う。わからないことは、無理にわかろうとせず、そこは、天においても、地においても神の御思いがなりますように、と祈ることが重要ではないだろうか。

伝道とは何か
 最期に、伝道とは何か?ということを考えたい。伝道とは、自分が生きている間に自分がいるキリスト集会の信者として受け入れることだけだろうか。個人的にはそうではないと思う。キリスト集会でイエスを知り、バプテスト派の教会で洗礼を受ける人、キリスト集会でイエスを知り洗礼を受け、メソジスト派の教会人として生きる人、そして、キリスト集会の日曜学校で讃美歌をうたって、何十年か後にカトリック教会の信徒になる人、すべて、キリストというお方が、宣言あるいは伝道された結果である。

 伝道を自分のところに来る信者の増加と近視眼的に直結させて考えてないだろうか。

新改訳聖書 第3版 ヨハネ福音書
4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

 ここで、蒔く人と刈るものは一つであり、共に喜ぶことになることが書かれてないだろうか。我々は神にあって一つだとパウロさんもいっておられるのではないだろうか。キリスト集会には、他のキリスト者がまいた種の結果として、神の民になった人が信者として加わっておられるだけかもしれない。

幅ひろいキリストのからだと生きる
 その点で、自分たちを中心に考えたり、自分たちを正統的で唯一の真理の保有者と思うのではなく、幅ひろいキリストの体とのキリストという中心に目を向けながら相互のかかわりと関連を大事にすべきではないだろうか。

 ナウエンというオランダ生まれのカトリックの司祭で、米国を中心とした所謂リベラル派から、がちがちの福音派の人々の間で非常に高い作家がおられる。ナウエンはその作品の「いまここに生きる」(あめんどう刊)中で、次のように言っている。

このような車輪は、人生をその中心から生きることの大切さを理解させてくれます。外輪に沿ってたどっていくと、スポークには一本づつした触れることができませんが、中心の車軸にいれば、すべてのスポークに同時に触れることができます。 祈るとは、あらゆるいのちとすべての愛の中心に向かうことです。祈ることでいのちの中心に近づけば近づくほど、力と活力を受け取ることの全ての近づきます。(中略)私の注意をいのちの中心部に向けるようにすれば、中心にとどまりながら、人生の豊かな多様性に触れることができます。
 車輪のことは何を指しているでしょうか。私はそれを、私自身の心、また神の心、そしてこの世界のこころと考えています。私が祈る時、私は自分のこころの真ん中に入り、そこで愛について語ってくださる神の心を見出します。そして、まさにそのところで、私の兄弟姉妹すべてが、互いに聖なる交わりの中にいることを認めることができます。
 霊的生活における大きな逆説は、最も個人的なことは最も普遍的であり、最も親密な関係はだれもが共有できるものであり、もっとも観想的なこと(訳注・沈黙の中に神の臨在を求めること)は最も活動的である、ということにあります。
 荷馬車の車輪が教えてくれることは、車軸が、たとえそれがまったく動いていないように見えても、全ての活力と動きの中心であるということです。神にあっては、あらゆる活動と休息は一つなのです。祈りもまた同じです。”
 『いま、ここに生きる 日常生活の中の霊性』 ヘンリ・ナーウェン 太田和功一訳 あめんどう pp.27-28

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木製のワゴンの車輪

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名著 いま、ここに生きる

 神の前に心を静まり、祈り、そして、神とともに生きる人々ともに生きること、ちょうど古いワゴンの車輪が、木製のスポークだけでも、車輪のリム部分の一部だけでも存在しないように、我々は他の車輪のリムやスポークを必要とするのではないだろうか。そして、神の車輪を構成しているのかもしれない。さらにいえば何より、神というお方、イエスというお方が動いておられないように見えたとしても、着実に神ご自身の意図をもって存在しつつ、神に心を向ける祈りをもって、他のキリストの車軸を尊敬しながら生きたいと思っている。

 そして、上の引用の中で思うのは、我々は、ともすれば聖書の話だけを一生懸命語ることを伝道と呼んでいないか、という反省である。”もっとも観想的なこと(訳注・沈黙の中に神の臨在を求めること)は最も活動的である””神にあっては、あらゆる活動と休息は一つなのです。祈りもまた同じです。”という部分を読みながら、伝道とは、感想的なことの側面が大きいのではないか、祈るあるいは神の御思いを求めること、神の御思いがなることを求めることを、望むことではないかと思っている。

結びにかえて

 まぁ、この連載で、自分のキリスト教徒としての歩みをざっと振り返ってみたが、まぁ、いろいろあったし、面白いことも、、悲しいことも、楽しいことも、苦しいこともあったが、その中で、インマヌエル、神我等と共にあり、と命名された方がともにおられたことの一端を体験できた人生であったと思う。24時間時計で、現在午後3時頃を迎えていく中で、そして、闇に向かっていく準備をする中で、こういう機会はある面でありがたかったかもしれない。この機会を作ってくれた、敬愛してやまない年下の畏友NT氏にこころから感謝の意を表したい。

 しかし、このブログも、休眠中であったが、この記事の連載以来、アクセス数が増えている。どうも、御要望があるようなので、ブラザレン関係の記事も、あまりハイペースでなく公開していきたいとは想っている。

 こちらのブログともう一つのブログは、研究書や専門書を出版しにくいし、信徒が買いにくい現状において、個人的な研究成果の公開と社会への還元(最近、東京にある某役所がこれでうるさい)の一環としてやっている。現代のテント集会であるし、野外学び会(のら学び会)としてやっている。

 キリスト者ならこんな個人研究に現をぬかさず、信徒でない方向けの福音を語るべし、という向きもあろうが、そんなサイトはごまんとあるし、そちらの方がよいことが多いので、特段私が書いたところで社会的貢献にもならないし、社会に還元したことにならないと思っているから、途中からやめた。

 さて、本日で最後になるこの連載記事も、キリスト集会の人よりも、案外とキリスト集会以外の方が結構読まれておられたようである。読んでいただいた方にこころからの御礼を申し上げ、このシリーズはいったん休筆とし、暫時、観想の時を持ちたい。

おしまい

まとめ(2)

ブレーキとしての神学
なお、ある関西の私より若いある信徒さんに

「○○さん、僕は、神学はブレーキやと思てんねん。アクセルやのうて。自分らが行き過ぎそうになった時にそれを止めるブレーキやと思てんねん。神学を学んだところで、伝道する内容はそうは変わらへん。でも、自分らの聖書理解の故の行き過ぎや暴走は、神学を学ぶこと、そして、神学的に考えることで止めることができるんちゃうやろか。(大意)」

というお話をしたことがある。この考えは変わっていない。

 過去の神学的思惟、「神学」というのは、それまでの神学的思惟ないし神学ががまずいがゆえに、その神学の一種の行き過ぎに対して「自分はこう思う」という聖書理解と聖書理解に基づく疑義として出来上がってきたものではないか、と思っている。

 ところで、本来ブレーキであるものを、アクセルとして利用すると、ろくなことが起こらない。その代表例が、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」ではなかろうか、と思う。この書簡の作成では、自分たちの聖書理解(神学)をアクセルとして使ったような気がしている。神学あるいは自分たちの聖書理解をアクセルとしていたのは、彼らだけではない。キリスト集会も自分たちの聖書理解をアクセルにしていた部分があるように思う。

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ペースを落としましょう の交通標識



行きすぎた理性的信仰への反動としての
キリスト集会独自の神学
 キリスト集会もそうであるように思うのだ。そもそも、集会の終末理解やディスペンセイション神学は集会が成立した前後の数十年間にみられた当時の行き過ぎたユニテリアン的(人間中心型の理性重視型)聖書理解や、理性的聖書理解、合理的に理解可能な部分だけを切り出して受け止めるような聖書理解や、聖書批評学などへの反動として起きたように思うのだ。つまり行き過ぎた理性主義的な聖書理解を否定しようとしたブレーキをかけようとして、ブレーキを必死になって踏んで、行き過ぎを止めようとした結果、ディスペンセイション的な聖書理解が生まれたのではないか、と思うのだ。

ブレーキであることが忘れられた神学
 当初ディスペンセイショナルな聖書理解(神学)を主張した人々は、それがブレーキであることを知っていた、と思われる。しかし、世代が変わっていくうちに、それを次第にアクセルとして使うようになる。つまり、前々回ご紹介したアウグスティヌス先生の「性交渉を経由して罪は次の世代に引き継がれる」が「罪とは性交渉のことである」となってしまったと同じようなことが起きたと思うのだ。

 「このままいくと地獄行きだから、はやく、イエス様信じなさい」と。

 そしてそのための素材として、終末理解やディスペンセイション主義が使われ、それが、聖書と同等の位置を占め、聖書そのものの理解をまとめたもののようにしてお話ししてしまう人々もいないわけではなかったろう。それはまずいと思うから、キリスト集会の一員の弁証家の一人として、「それ、まずくないですかねぇ」って申し上げているだけである。

聖書を読むこと、即ち、神学的行為
 そして、個人としては、聖書はバランスよく読むそして、丁寧に読むことが必要だと思っている。あなたの聖書を閉じて、聖書の横側、聖書のページをめくる部分を見てほしい。特定の場所が手垢で黒くなっていたり、金箔がはがれていないだろうか、そうなっていたら少し注意が必要かもしれない。

 こんな風に聖書の特定の部分だけが手あかで黒くなっていたりするのは、あなたが、そこを中心に読んでいるからである。あるいは、聖書の特定の部分だけがちょっと波打ちながら、外にはみ出てないだろうか。それは、もうちょっと危険である。そこだけをかなり集中的に読むと聖書はそうなる。それは、聖書を片寄って読んでいることに他ならなないのだ。こういう読みをすると、基礎が弱い聖書理解になるような気がする。

 まぁ、新改訳聖書は、装丁が弱いので、何度もそこを開くと、その部分だけアンコが飛び出したようになりやすいが。そこは翻訳と同じくらい改良してほしい、とはおもっている。

未来も大事だけど、過去も大事

 集会の方の一部には、非常に過去への理解が薄く、現在と未来に関する理解にかんして、極めて理解が深い方々がおられる。この場合、足腰が細くて、腕と胸と頭だけが異様に発達しておられるのではないか、と思われるような方々も一部におられる。キリスト集会の過去にもキリスト教の過去にも興味がなく、キリスト集会の現在とキリスト集会の未来だけの理解が非常に深い方々である。

 それって、バランスが悪いようにも思うのだ。そう思う私の方がバランス悪いのだろうけど。

 我々の聖書理解は、東方教会の聖書理解、カトリックの聖書理解、ルター派、カルヴァン派、アナバプテスト派、ウェスレー派など様々な広いキリスト教の体の影響を受けて作り出され、つむぎ続けられている、建てあげられ続けているような聖書理解の存在、というその側面を忘れてはならないと思うし、そこは尊重しないといけないのではないか、と思うのだ。三位一体は、キリスト集会の発明ではなく、東方教会、カトリック教会が成立していく背景の中で結晶化した過去の遺産であることを我々は見つめたほうがよいのではないだろうか。

聖書をじっくりゆっくり落ち着いて読むこと
 聖書を読むというときに、聖書の速読競争に走ってないだろうか。一語一語の意味をじっくりと思いめぐらしながら、かみしめながら読んでいるだろうか。それをしてないのであれば、あなたは聖書を十分読んでいるといえるだろうか。それをしてないのであれば、とりあえず「はんこ」を押すためだけに紙をまくっているのとあまりかわらないのであり、ナンセンスではないかなぁ、と思う。

 まぁ、5年たっても、10年たっても新品同様の同じ聖書をお持ちの方は、違う意味で問題をお持ちでないか、と思う。最近は、キンドルで読む人が増えているので、紙版聖書も、キンドル版聖書も新品同様のままかもしれないが。

 最近は、アプリで聖書を読んでいることも多い。だって、重いんだもん。

次回、最終回まとめ3 へ

あとがき(1)

自分の位置を定めるために遠くのものが必要では?
 私にとっての広いネットワークが急速に広がったのは、FacebookやTwitterを使いだしてからである。特に、キリスト者の幅広いネットワークを持つ方々とFacebookでお付き合いするうちに、かなり情報が集まってきた。それを後は、地図のように空間(2次元ないし3次元 これくらいが、人間の理解の範囲)に配置し直し、その地図の精度がどれほどであるかを検討する作業をしないといけないかなぁ、と思っている。

位置特定と地図表記の精度

 地図には、相対的な位置関係の正確性と絶対的な位置関係の二つの正確性の概念がある。相対的な位置関係の精度は、大阪は、名古屋より西の方に配置されないという位置関係の相対性や、日本は、アメリカから、相対的に西方に配置されていなければならないという相対的な関係性である。もう一つ、絶対的な位置関係の精度は、大阪は、東京から、XXX㎞西方にあり、方向は**度の方向に配置されなければならない、という正確性である。

 現在は測量でも、GPS測量という方法がとられることが一般的で、GPSデータを使って、調査した一店の位置を高精度で定めることができる。もっと制度を求めようと思ったら、より遠方にある電波星からの電波を使って求めることができる。測定は大変だが、精度は非常に高い(細かなことを言うとジオイド高とかというのもあるのだが、これはまぁ、いいだろう)。より遠方にある(つまりかなり自分からはかけ離れたもの)を使って測定する方が、より近くにある(より自分と似たもの)ものを使うより、より高精度に相対位置にしても絶対位置にしても特定可能なのである。

遠望も大事かも
 近くばかり見ていると、違いの区別ができにくくなる(細部にこだわりすぎる)ため、いったん遠く離れてバランスをとった方が、正確な画面構成が取れるのと同じである。これが、なぜ私が、同じキリスト教でもより遠く離れたグループと思われている方々の著作やお考えを拝聴する理由である。

 つまり自分の所在地を、これらの方々の位置を参考にしながら、自分の位置は大体このあたりか、というのを定めているのである。自分を中心に相手の位置関係を定めるのではなく、相手を基準に自分の位置関係を定めている、といった方がよいであろうか。丁度、関東平野で迷子になったら、富士山なり、筑波山なり、榛名山なりの目立つ山を使いながら、太陽の位置とこれらの山の関係をつかんで、移動すれば目的地に着く(カーナビがない時代に運転を覚えたので、今でもこれで不自由はしない)のと同じである。

自分の位置を他者とのかかわりでとらえる
 まぁ、現在最新の研究の一環として、Open Linked Dataというところで使われた図か方法(リンク数とリンクとがつながりかたを用いて分類する)などの方法もあるので、そのうち自分のリンクとかでやってみようかなぁと思っている。

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Linked Dataのマッピングの例

混乱が生じた時には
 筑波山の中で彷徨しはじめたときには、筑波山そのものを基準にしたら迷うのである。いくら、平野の中の単峰といっても。筑波山で迷ったら、どこかの尾根に出て、筑波山以外の確認しやすいもの、たとえば霞ケ浦か、少し離れた大きな町(たとえば下妻とか石岡とか)を探して、位置を特定しないと、迷ったままである。全員が全員、遠望する必要はないが、集会のリーダーの方は、集会の人々(登山で言うところのパーティ)を率いるリーダーとして迷わさないためにも、時に遠望する必要があるのではないかと思っている。


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関東平野にそびえる筑波山

 なお、余談であるが、東京駅の少し東側にある日本橋で、北方向に向かう道路は、この筑波山を向いており、西方向に向かう道路の先には富士山がある。したがって、日本橋付近で、旧水戸街道と旧東海道は直線ではなく屈折する形で一本の道路してつながっている。


 つまり、それは、自己とかけ離れた聖書理解(あえて神学といおう)を理解することで、自分たちがどっち向いては知るべきかを間違わないためにも、そして、自分たちの立ち位置がどこにあるのか、ということをある程度正確に知るという意味でも。その意味で、人が作ったものかもしれないが、神学ということ、あるいはより広い「キリストのからだ」の持つ聖書理解の多様性への理解が必要なのだと個人的には思っている。

 ただ、全員が同じようにする必要もないと思っている。なぜならば、パウロさんもエペソ書でこう書いているからである。
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
4:17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
4:18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。

神学、あるいは聖書理解なしの
キリスト者は存在するか?

 そして、これが、集会に関する成り行き上の弁証家(accidental Apologist たまたま他者に自己や自己の聖書理解の特徴を説明しようとする立場に置かれたもの)の一人として、開かれているキリストのからだ、即ち、多様なキリスト教を持つ様々な教派教団、グループや個人から形成されるキリスト教界に向かって、自己を相手の方がたにわかりやすい形で説明するための必要悪として、他者の聖書理解(神学)を学ぶ意味があるのではないか、とこの20年余り(特にこの5年)の経験を通して思っている。なお、聖書を読むこと、キリスト教徒として生きることは、個人的には神学の一部を形成していると思う。その意味で、神学なしのキリスト者とは、聖書理解なしのキリスト者、あるいは聖書を読まないキリスト者であり、それをキリスト者といえるかどうか、ということは考えたほうがよいかもしれない。

他者に説明する、すなわち、
他者に伝道するために
 キリスト集会の人々は伝道熱心な人々である。それは非常によい美点だと思っている。そして、いうなれば、伝道熱心であるということは、他者に対して弁証家であることを求められるのだと思っている。つまり、他者の言葉を理解したうえで、他者に理解可能な形で、他者に心を開いて説明する、語る、伝道することが重要なのだと思っている。

 つまり、対話者の信仰上の立場を踏まえ、相手の方が理解可能な形で、聖書の重要性と聖書の主張を丁寧にそしてより正確に語るためにも、仏教研究者の方や、仏教者の方、神道研究家の方々、ムスリムの方々、現代政治史や思想史の研究者の方々などの書かれたものを読むことや、こういう異分野の方との尊敬をもっての交流やその人たちとの対話の技術をつけていくこと、すなわち学ぶということ、知恵と知識を蓄えることは無意味でないと自己弁証をしておこう。

ここで新改訳聖書第3版 Ⅰコリント 14章から以下の部分を引用しておきたい。

14:9 それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。
14:10 世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。
14:11 それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。
14:12 あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
14:13 こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。
14:14 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。
14:15 ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。
14:16 そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。

 もちろん、他者へと、開かれた手を差し向けることは、厳しい。他者が何を手を開いて迎え入れる人に対するか、その他者の動きの予想や予測が困難だからである。しかし、恐れる必要がないのではないか、と思っている。傷つけられることを恐れずに、他者に向けて開かれた手を出していくこと、一方的な言いっぱなし型の伝道ではなく、他者に向かって他者が理解可能な形で対話をしていくことに、霊的な視線を向けていっていただきたいと思う。なぜなら、復活のイエスはその開かれた手を弟子たちに示すことで、御自身を豊かに弁証されているように思うのだ。そして、開かれた手でハンセン氏病者をいやし、開かれた心で、律法学者と対話しておられるのではないかなぁ、と思っている。閉じた手のゲンコツを向けるのではなく。

新改訳聖書第3版 ヨハネの福音書
20:20 イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
 ある面、一方的に自分たちの主張を言い募ることは、現代における異言なのかもしれない。なぜならば、相手が理解不可能だ、ということでは異言と似ているかもしれない。それを相手が理解可能な形にいいかえること、それが解き明かしであり、弁証であるという意味において、我々は自分たちの理解を解き明かすこと、すなわち弁証家であることが求められているのではないか、と思う。

あと2回続きます。

When I was not Wee!(5)

「福音と再発見」出版の経緯
 「福音の再発見」(原題 The King Jesus Gospel」がTK様のブログで紹介されていたのが、2011年9月13日の「王なるイエスの福音」と題された記事でした。何やら面白そうなことが書いてありそうな本なので、さっそくAmazonにRob BellのLove Winsと一緒に注文。数日後に届いたら、これが面白いのなんの、通勤電車の中で、1週間位で読んでしまいました。2011年6月20日の罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ」と題する記事に対して、恐らくキリスト集会の信者と思われるmさんという方が2011年11月にコメントをくださり、それで、「続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ( 2011年11月05日公開)」の記事に、カレドニア様という方がコメントをくださった。そしてHK様といわれる方も親の立場からコメントをくださった。

 そんなこんなで、「救い」に関する誤解を考えるためのユニークな本 (2011年12月14日公開)の記事で初めて、The King Jesus Gospelの内容を変な日本語変換で出していたら、ダラス・ウィラードのところが違うって、SN様がちょっぴり姉御肌気分でご指摘いただいたりした。

 この辺のより詳しい因縁話は、こちら 『福音の再発見のミーちゃんはーちゃん的読書ガイド meekさんへの手紙』(2014年05月05日公開) をどうぞ。

 ただ、「こういう本が必要だなぁ」と思っていたら、キリスト教良書の翻訳家でいらっしゃるSN様が、私が翻訳したらまともなものにならんのでは?SN様が「翻訳してあげるわよ(大意)」という趣旨のご連絡いただいたので、ならば、と出版企画に動くことになる。

 この本は、いわゆる従来型の「神、罪、救い」の理解で伝道を推進してきた私を含め幅広い所謂福音派とその周辺の皆様に喧嘩を売る(ゲンコツを出す)ような本なので、まず、これに耐えられるだけの一種の図太さを持った出版社で、まだ、福音派とも多少はつながりのある出版社、ということでMinistryを出しているイケメン編集長がおられるキリスト新聞で出せませんかねぇ、と打診をしたら、「いいっすよ」とあっさりとOKが出た。

 そして、アメリカにおられるSN様を翻訳者として、東京のTK様が神学的な監修、関西の私が実務周りとちゃちゃ入れ担当、イケメン編集長とイケメン編集者の出版社の方は出版実務をしていただく、という役割分担をしながら、Facebookのコミュニティを会議室がわりに使いながら、出版準備をしていった。その会議室の名前は、「The King Jesus Gospelの訳本を出版する冒険者の会」である。

 翻訳本を出版した経験のないものが手探りでやるのだから、まさに冒険者であった。江戸末期に杉田玄白先生が解体新書を出した時のような感じである。そもそも、私は、最初に訳本を出す権利をアメリカの出版社に金を払って押さえることすら知らなかったほど、ど素人であったのだ。これは最終的に自費出版扱いの本になったので、この出版の経費はすべて私のところにやってきた。結局全部で大体、シビック1台分くらいの出費となった。その原資は、我が家の家人が公立高校であったので、高校無償化の余剰資金でその一部を賄った。民主党政権の高校無償化政策がある面、あの本に貢献している。

出版その後

 たまたま、この初版本のキリスト新聞社さんへの納品日翌日が、本郷の学校であった農業情報学会での発表日翌日であったので、和光市のキリスト新聞社と当時は飯田橋にあった倉庫によって、20部ほど取りに行って、10部ほどをTK様にその足でその残りを何人かの方に即時送付した。

 そして、本は形になって、世に出ていく。結構挑発的な本であったが、よく売れたと思う。 お買い上げいただいた方にはこの場を借りて、御礼申し上げたい。そして、原著が出てから2年以内に国内でこの種の聖書理解の根幹にまつわるキリスト教書が出るというのは極めて異例であるようである。それを受け入れてくださって、ご購入してくださった皆様には、深く御礼申し上げたい。

 農業情報学会から自宅に戻ると、家にどさどさとこの本がうずたかく積まれる感じで到着していた。どうしたもんだか、と思っていたが、まぁ、しょうがない。1/3は在庫として引き取る約束である。さぁ、どうやって、これを売ろうか、と思案していた。

 そして、自宅に在庫がうずたかく積まれた数週間後、別の学会の用事で東京に行っていた時、6時ごろの新幹線に乗っていた時、イケメン編集さんから電話が入る。私のところにある在庫を全部送り返してほしいというのである。飛ぶような売れ行きで、在庫がなくなったというのである。

 大変驚いた。最初に初版1000部でとお願いした時、このイケメン編集担当さんからは、「700でいいんでないですか」というお話であったが、「いや、この本は売れる。1000部でお願いしたい」ということで1000部になったのである。すぐに第2刷を1000部契約した。

 日キ販の関係者からは、こんなキリスト新聞社の自費出版本が、売れるなんて思ってもみなかったらしく、Facebook上で、「キリ新が出すこんな本が売れるなんてめちゃくちゃ意外だ(大意)」扱いに近い発言まで、されてしまった。

 また、この本の流通では、京都にあるキリスト教書店のTMさんに大変お世話になった。かなり仕切り値の高い値で委託販売をお願いできた。しかし、関西方面ではあまり反応は芳しくなかったようである。

 この経験で、キリスト教書流通の裏側とキリスト教出版の実際の一端を知る勉強をさせてもらった。有難い限りである。また、この本は、キリスト教本屋大賞にノミネートされたが、再下位を獲得した。まぁ、相手が強すぎたような気がする。ご支援いただいた皆様に感謝したい。

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福音の再発見 初版刷り上がり分

世俗の仕事で

 また、この時期、仕事が原因で抑うつも経験したことはすでにふれた。今ではすっかり良くなったというほどではないが(時に軽い再発もしているので)、生きるには困った状態ではない。仕事も、これまでの成果を少しづつではあるが、論文にまとめたものを発表していく。

 それと同時に、県内のJAさんや農業研究機関へのコンサルテーション、酒米の生育予測モデルを用いた適期収穫ができるようにする田植え日を気温、日照条件を配慮し、個別の圃場(田んぼ)ごとに決定するシステムなどの計算機システムの開発などを実際にプログラムを書いて行った。そして、現地に何度も足を運んで、農家の方々とも仲良くなった。

広がる多様なキリスト者との関係

 なお、別ブログのように、愚にもつかぬことをおちゃらけスタイルで書いているといいこともあるわけで、いろいろな方とのお知り合いが急に増え、「いろんな研究会やら研修会に来てみないか」と誘われることになり、交友関係は急速に増えた。

 もちろん、一部巣鴨のNTライト読書会などには押しかけた感はある、「のらくら者の日記」のHさんの方の教会には意図的に押しかけた。また、あめんどうの社主の方にもご訪問しお会いできたし、OCCビルでお働きのお鹿殿にも、鹿児島のコメント王子にも、UgoUgo王子にも面会の機会を得た。いずれも温かくお迎えいただいて、ありがたい限りである。また、いのフェスを通してカトリックの優秀な司祭のHK様ともバーチャルかつリアルの御面識を頂くことができた。また、非常に優れた教会人でもある千葉のYSさんにもいのフェス2014でお会いできたし、バイブルハンターのルツのレイヤーさんにもその時のいのフェスでお会いできた。

 その意味で、これらの方々が私にとってのキリスト教研究の一次ソースとなっていただいている。もう少し知りたい時の参考文献や別角度からの研究素材に関する情報収集先となっていただいている。

 特に、家人が上智大学に行ったので、憧れの雨宮慧先生が大阪に公開講座に来られるというのであれば、馳せ参じ、公開講座にも参加する機会を得て、「あぁ、なるほど、こういう理解をしておられるのか」ということを、公開講座を通してライブでお話をしたり、直接ご質問をしたりすることができる機会が得られていることはありがたい限りである。

 これらのありがたい方々から非常に深いご示唆を頂いた。ここに日ごろお世話になっている皆様方感謝の意を表したい。

楽しいことばかりじゃなかったけど

 ただ、嫌な思い出も書いておこう。まぁ、半分抑鬱の回復作業を兼ねながらブログを書いていた。しかし、自分の世俗の仕事の業績を自分の所属機関のサイトにアップしていなかったのだ。というのは、ブログは、抑鬱の気分転換のためにかなり気軽に書いていたのであるが、抑鬱がかなりひどい時期にオフィスの移転があり、何もする気がなく、サーバーのアドレスが変わったのもあって、業績をアップするのを放置していた。そうしたら、それをめざとく見つけた、どこぞのお偉い方が、こんな本務と関係のないブログばかりかき、本務であるべき論文を書かないやつを雇っている所属機関はおかしいと、所属機関を中傷するブログを立ち上げた。この方は、どうもキリスト集会関係の方と思われる方であったのではないか、と思っている。所属の上長から、代表的な業績だけでも更新されたら、と御示唆をいただいたので、代表的な業績を即時あげた。

 すると、そのブログは次第に消えてなくなっていた。世の中には愚かしいことをされる方もあるものである。それこそ、人の持つ罪というかハルマティアとはこういうことか、と思わされた。

 丁度、その頃は、友人のNTさんも2Chのアクセス問題でIPさらしの簡易命令を出されるなどの事案が発生していたころであった。私は、2Chには、かなり昔に書き込んだことが1度か2度あるが、あそこは屑だと思っているし、まともなことを書いても、まともな人が相手しないので、原則書き込みはしない。あの集会関係の掲示板については、私は無関係である。2chに書くにしても自宅以外からはしない。それは本務として給料を得ているからである。ずいぶん、私の名前のような方のお名前が、伏字で思わせぶりに書かれていたが、あほらしいので相手はしなかった。まぁ、あそこも神から使わされた埋め立てが大変お得意な方があの板に遣わされたようなので、あの掲示板も、そのうち閑古鳥が鳴くようになったと思ったら、サーバーダウン事件で、なんとなく停止状態だったような気がする。

ブログの断筆

 このブログもそうだが、私がしているブログには断筆の時期がある。それはある意味で、抑鬱の状態がひどかった時期であったり、手根幹症で、お箸も持てない、ボタンもつけるのに苦労する時期であったりしている。それを支えてくれた家人に、そして特に私の配偶者に、心からの感謝をここで述べる。

 どちらかのブログも止まっているときは、おそらくそういうときである。そういうときは、こころある方は、この大お馬鹿者を覚えて祈りの片隅でもいいので、祈っていただけると、うれしい。


 次回以降3回にわたって、この連載の読者の皆様、特に集会の皆様へのお願いを述べたい。


When I was not Wee!(4)

ナウエンを英文で読む会の開始
 また、2011年からは、明石で、ヘンリーナウエンの著作を英語で読む会を始めている。これは、私のいるキリスト集会の開拓にかかわったR.S.Cさんが住居をアイルランドに移すことに伴って、従来ご自宅を開放して集まっておられた方がたへの代替措置としての側面がつよい。

 現在集まっておられるのは、主に高齢のご婦人方を中心に5〜8名であるが、ナウエンの著作を一応、英語で読んで、翻訳し、そのナウエンが書いたものを読んでそれの感想や思ったこと、疑問などを話し合う会であるのであるが、その感想というよりは、キリスト教について素朴に思う疑問にお答えする会に実際はなっている。次回で59回を迎える。これをやってみて、思うのは、案外基礎的なキリスト教のコアコンセプトがキリスト集会に限らず他の教会群でもきちんと伝わっていないことが多いのではないか、ということであった。

イメージ 1
現在は Finding My Way Home を読んでいる。

絶句するような質問も

 いくつかびっくりするような質問が毎度出るのだが、なかでも、何より、驚いたのは、自宅で海外からの高校生訪問者のホームステイ先を提供する国際交流のボランティア活動にいそしんでおられる来会者の方からのこんな質問である。

 「いまホームステイしているアメリカ人高校生が、聖書で言う罪とは性交渉のことであると言われたのだがこれはキリスト教的にどうなのか?」という問題である。この質問を受けて、「ヴーん」となってしまった。

 その時は、創世記の2章を見ると「人が増え広がることを神が望んでおられ、そのことを命じておられるので、その理解は聖書の基本主張とは合致しないように思う。婚姻外の性行為は厳しく断罪されることになっているが、婚姻内での性交渉は神からの祝福の一つだと思う。」とお話しした。

 その2年後、たまたまアウグスティヌスの書いたことにふれた一節をある本を読んでいてこのアメリカ人の高校生の主張の裏背景がわかったことがある。

 どうもアウグスティヌス先生(「神の国」とか「三位一体論」を書いて、これらの概念を整理したわれらキリスト集会の聖書理解にも影響のあった方である。ただ、聖書理解をちょっと違ったベクトルへと進ませるきっかけをも作った部分もあったと思う)「罪は性交渉の結果生まれてくる子供に遺伝する」に近いことを言っているらしい。

"「罪は性交渉の結果生まれてくる子供に遺伝する」
→「性交渉により生まれたものは罪である」
→「性交渉は罪である」
→「罪は性交渉のことである」
 (←いまここ)"

 まるで、伝言ゲームである。

 これは一つの例にすぎないが、例えば、愛とは何か、義とは何か、天の国Basileia ton auranon とは何か、祈るとは何か、赦しとは何か、ということは本当に伝わっているのだろうか、と感じる。

 NK様が時々研究会などでおっしゃっておられる「神、罪、救い」以上終わり型のキリスト教も、別に悪くはないし、間違いではないが、なんか、ファーストフード型の大変アメリカンな救いの提示方法ではないか、とは感じる。これに関しては、近日中に公開する別ブログの方をご覧いただきたい。

農業情報の研究開発も
 2006年ごろから県下の農業関係の研究機関への技術コンサルテーションが始まり、2010年ごろからは、県下のJAさんの圃場情報管理システムのコンサルテーションとプロトタイプ開発が始まった。あるいは、農業機械の稼働状況と所在地情報などをライブ情報として取得する実験やGPSログで解析する研究や農業気象情報の活用研究などにも着手をする。これも、コンサルテーションの延長線上である。

 ただ、この分野の研究が難しいのは、農作業が、1年の特定時期に、それも1回のみしか実施されないし、時期ごとに利用する農業機械や作業内容、取得すべき情報が異なるので、案外難しいなぁ、と思うのだ。実に農業というのは奥が深い、と思った。そういう研究に関係していくと、論文もおいそれと、そう書けない時期があった。この時期抑鬱もそれなりにひどかったのだが。

Ministryが発刊・Facebook/Twitter人脈の拡大

 そんなこんなしているうちに、丁度Ministryというキリスト教業界の常識を破るかの如き面白い雑誌が出たので、それを読んだりしていた。当初は水谷潔氏のブログ、津の「のらくら者の日記」のSH様、「大和郷にある教会」のTK様を追っかけ発言しているうちにより広いキリスト教の世界の人々と知り合うようになり、多くのキリスト教業界の方々とお知り合いになっていただけた。そして、それらの方々とお付き合いしているうちにFacebookやTwitterができてからは、その様な個別の先生方の関連の方々ともおつながりができて、一気に枠が広がっている。

 Ministryは現在私設応援団長のノリで遊ばしてもらっている。仕事もさせられることはあるが。この号のナウエンの引用句のリストづくりをお手伝いさせて(突然発注が来て、締め切り2日後)もらった。無茶でやんちゃな雑誌である。

イメージ 2
ナウエンなどの引用句をお手伝いした号

 Twitterに参加してからも別のかたちで人脈が増えた。Twitter上では、ちょっと従来にないやり方を考えて、「福音と世界」を変えかけた新教出版の編集者YF様(現在は退職された模様。彼は異色の編集者であっただけに、同社を退職されたのは、惜しまれてならない)が、「福音と世界に書評書いてくれる人募集!」ってやってた。お調子者でもあるので、なに、「本を呉れる。それだけでいい!」となったので、「それ乗った」になって、原稿代と高価な本をご献呈いただいた。その節はありがとうございました。なお、この仕事は急ぎ仕事としてお願いされたので、そのご要望にお応えした。

 なお、Lineはめんどいのでしていない。

いのフェスに強制徴募?
 Ministryのイケメン編集長が面白い人だったんで、いろいろとメールなどで情報交換していたので、「誰か、面白い人知りませんか?」と聞かれた。当時「ニコ生神学部」をやりかけていたり、仏教者のニー仏氏とネット上で対談していた畏友KH氏をご紹介した。丁度、第2回いのフェスをやる、って時だったらしい。個人として、紹介した手前、第2回いのフェスにも行くことになった。

 本番前日、本来登壇予定者だった千葉のYSさんのところの信徒(長老職の方)さんのご葬儀が本番になった、ということで、急遽登壇できないことが判明した。その結果、お若い畏友KHさんが登壇することになった。これが原因で、その後KHさんは様々な不幸に巻き込まれることになる。その時は知る由もなかったが。KHさんには、「すまん」とこの場を借りてでお詫びしておきたい。

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オタキング 岡田さんが出た「いのフェス2012」

 しかし、KHさんを紹介しただけで済めばよかったのだが、世の中うまくできたもので、そうは問屋がおろさないときている。

 Ministryのイケメン編集長が関西に来る、というので、「あ、そうなの?」と会って旧交を温めるべく、遊びに行ったら、いつの間にか、いのフェス実行委員に強制徴募(イギリス海軍とアメリカ海軍には、その昔、この伝統があったらしい)されてしまった。そして、このいのフェスは、キリスト教の枠をぶち破り、仏教者の方が大挙してご参加してくださるきわめて類例のないイベントになった。そして、そこで出会った真剣に仏教を極めようとしておられる方々、あるいは、仏典を極めようとしておられる方々と出会い、相互の用語の味わいの違いなどの散発的な議論が行われている。例えば、「聖書で言う慈しみ」と「聖書で言う憐れみのこころ」と「仏典における慈悲がどう違うのか」等という実に貴重で興味深い議論に参加させてもらっている。自らを他者の言葉で語り、そして他者の理解を知るためにも、実に有益な機会となっている。

 まぁ、ここらは、キリスト集会の人には理解されないと思っているが、別にそれでも、いいかなぁ、とは思っている。なんせ、本記事の冒頭で出てきたR.S.Cさんだって、西本願寺に飛び込み伝道、宗論を申し込んで、西本願寺で実現しておられるからである。飛び込み伝道とはちょっと違う形の伝道活動だと思っている。


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