ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

When I was wee!

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When I was wee! (5)

第1回のアメリカでの生活(ワシントン州)
 1997年8月から8か月ほど、ワシントン州のThe Evergreen State Collegeの修士の環境科学研究科での交換教員の募集がかかったので、それに応募して、ワシントン州のOlympiaというワシントン州の州都で8が月ほど過ごす。この滞在の時に、結構距離のある(車で40分ほど恐らく60キロほど離れた)TacomaのGospel Hall Brethrenの集会に行くことになった。「よく知っているはずなのに、なんでGospel Hall Brethrenの集会に行ったのか?」と最近若い友人の一人から聞かれ、「実は、アメリカ行って集会のおかしさに気づいたからだ」とお返事を連絡したら、「じゃぁ、それを書いてみてくださいよ」とおねだりされたので、この連載になった。それがこの連載を開始した真の理由である。
なお、このThe Evergreen State CollageはThe Simpsonsの作家たちが出た学校(基本、ファカルティも学生もシンプソンズ的な批判精神旺盛)であったので、地域住民からは、Hippy Collegeと呼ばれるほど、リベラルな学校であった。なお、The Simpsonsには、 The Evergreen State Collageにちなんだ、Evergreen Terrace(アニメの設定としては、Homer Simpson邸があるらしい) といった彼らの出身大学にちなんだ地名が出てくる。

カトリック様お断りのキリスト集会?

このGospel Hall Brethrenの集会にいった当日にやっていたBible Studyが幕屋の学びであった。シッカモアツリーだの、タバナクルだの、普段耳慣れない英単語の連続、さらに、日本の集会風のベールを家内が被って行ったので、そのベールが、現地の集会でまず問題になった。「なぜ、彼女は帽子でないのか? なぜ、カトリックの印象があるベールなのか?」ということが問われた。また、私が持っていったNIVが問題になった。「なぜ、彼はNIVを持ってきたのか?なぜ、Authorized Version(KJV)でないのか?」ということも問題になったのである。意図的にNIVを持っていったわけではなくて、ワシントン州は、非常に開明的な州だからこそ、NIVがよいだろうという、現地人のススメもあってKJVではなくNIVを持っていったのだ。

当時の私の乏しい英語力では説明ができなかったのだが、たまたま当時日本の集会に来ておられたワシントン州出身の知り合いの方がワシントン州滞在中であったため、その方が間に立って説明してくださった。また、この方は、わざわざシアトルから南下して、I5で途中タコマまで先導してくださった。ありがたい限りであった。

行ってみて一番驚いたのは、女性の信徒の方が黒か紺のロングスカート、男性信徒の方は黒か濃いグレーのスーツであった。それを見たので、現地校のDeanに「なんか、教会行ってみたら彼らは棺桶に入った遺体のように真面目であった」とRomeo and Julietのセリフを引いて、”They are just like square as grave men” って言ったら、笑っていた。

何で御棺の中に入っている人みたいに真面目(square as grave men)と思ったか、というと、1997年頃のカジュアル文化で知られていたワシントン州で、女性のドレスが、19世紀の女性の紺や黒色のドレス風(なお、葬儀の際にこれに似た礼服をアメリカの一部では今なお着せる習慣がある)であったからである。そして、男性はMIBよろしく黒スーツだったからである。まぁ、多くの方々の年齢層がおおむね50歳以上の方ばかりであったからであるからかもしれないけど。
イメージ 4
MIBのお二人 Tommy Lee JonesとWill Smith


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ワシントン州の女性信徒の方が来ていた服はこんな感じ

  なお、その時のワシントン州では、Tシャツにオーバーオールの女性が道路工事で、エアドリルを使っていた時代ではあったが。

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街中で見かける働く女性

集会文化への疑問の出発点は、ワシントン州の教会での被り物事件とNIV事件に端を発しているのであった。なぜ、日本で被り物であり、米国ではそれが帽子に代わるのはなぜか?ということであり、同じ聖書から、頭を覆うものがベールなのか、帽子なのか、同じ聖書から、どのように解釈できるのか、NIVとKJVは、共に同じ聖書であるにもかかわらず、なぜそれで排除されそうな雰囲気があるのか、それは集会固有の文化ではないのか、という疑問があったままであった。一応聞いてはみたが、そうだからだ、という答えしか返ってこなかったし、漸くインターネットが普及し始めたものの、まだまだ情報量が少なく、Google先生やYahoo!先生もそれほど強力ではなく、現地の集会の人以外のソースを調べるための方法がなかったのである。

Webが十分ではなかった時代

なぜかというと、1994年くらいには、業務の一環としてUNIX上でNetscape Navigatorでウェブサービスを触り始めていたが、まだまだ、回線の帯域が細く、ネットワークで文字が見えて、画像がファックスで送られてくる速度感覚で送られてくるような状況であったので、海外の情報を入手するにはなかなか楽ではなかった。SunのSolarisを使っても。ADSLすらなく、2880bpsのモデム(今からすると、はぁ?という速度のモデム)が現役で使われていた時代である。なお、個人的には300bpsの音響カプラーを使って、黒電話でメインフレームと通信した経験がある。
イメージ 3
こんなのリアルに使ったことあります

 
この時期まで、何かしようと思っても、どこかで本をあたるくらいしか情報がなかったし、日本のキリスト教書では、原著にあるReferenceやSuggested Readingsがカットされていたことが当時は多かったので(今もだ、という節はあるのでいのちのことば社には何とかしてほしい)、より深いことを調べようと思うと、原著に当たるしかなかったのである。

When I was wee!(4)

阪神大震災
しかし、人生というのは不思議なものである。第1子が生まれ1年ほどたったころに、阪神大震災に巻き込まれる。親族に生命の被害があったわけではないし、また、住宅など家財がなくなったわけではないが、自分の眼前で大震災に苦しむ人々を見せつけられた(神様から見せられた、のだと思っている)のである。

この震災の中での人々の苦しみを目前にし、連立方程式をガシガシ解き、モデルをいくら精緻化したところで、人の営みでもある商業集積などは地震で一瞬にして吹き飛んでしまうし、連立方程式体系は全くの無力であった。この分野の研究は、好きではあったが学問的には行き詰まりを感じていて論文が書けない時期が数年続いた。そこに地震が到来である。まぁ、煮詰まっていたのもあって、地震を機に、これ幸いと、この種の理論モデルの研究をきれいさっぱりやめてしまった。理論研究家としての言い知れぬ無力感に襲われたのである。そして、このまま研究を続けていいのか?という疑念が生まれた。

地理情報学への転身
 ところで、1990年以前から、興味があったコンピュータサイエンス分野に地理情報学というのがあった。平たく言ってしまうと、定量的なデータを地図化するためのコンピュータアプリケーションの世界である。1990年ころに実用化されていたが、その頃は、UNIX上でしか動かないような代物で、何かさせようと思うと、コマンドラインでプログラムを書くような代物であった。

しかし、Windows3.1の登場で、Windows環境下で動く地理情報ソフトウェアが登場していたこと、さらにWindows95でグラフィカルインターフェースとOSの基本性能が少し向上し、Windows95のOSで動く地理情報システムが発売され始めていたところであった。

そこに地震である。いまここで、飢え、苦しみ、渇きを持つ人々を助けられる、あるいは、今は無理でも将来災害が発生した時にそのような人々をわずかばかりでも助けられるとすればこれではないか、と素直に思った。こういう経緯から、学問上は、こちらに相当注力し、実際にシステム開発やデータベースの整備に取り組んだ。また、わずかではあるが、神戸市の某区でのお手伝いなどもさせてもらった。そして、ここでも地に足をつけて考えることの大切さ、現実に立つことの重要性を学んだように思う。

震災の年の忘れがたきこと
 この年は、センター試験の翌々日、卒業論文審査会当日の早朝に阪神大震災が発生した。本学関係者には、震災を直接原因とする死亡者はなかった。なお、この年は歴年の単位不足で卒業できなかった留年学生も一気に卒業した年で、卒業率が一気に上昇した特異年ともなった。また、学内にも、学生向けの仮設住宅が建設された。

そして、この時入試担当者でもあったので、入試でも被災者特例などの検討や、西宮神戸間のJR・阪神・阪急がバス輸送になるため、試験をどうするか、ということで、大阪の予備校を試験会場で借りて、最初で最後の2会場同時入試を実施した。また、受験者からの電話問い合わせも非常に多く、そんなことをしたこともない我々にも、その業務が回ってきた。

この震災の年は、結構いろいろ社会的に事件が起きたのだ。以前から関心を持っていたオウム真理教が地下鉄でサリンを撒いてくれた。そして、一気に彼らの言っているハルマゲドン的なるものの実態が見えてきた。

被災地の両端で
 地震の被災地の中で、集会生活も変わった。自分の住んでいる地域(被災地のほぼ西端)と集会のある地域(被災地のほぼ東端)にあったため、その間の経路が被災の一番激しかった地域であったため、教会と自宅の間が空間的に分断されてしまった。わずか3か月ばかりの断絶であったとはいうものの、まぁ、実質的には1月半という感じであったが。

震災後、当初1回災害後の週だったか、翌週だったか、被災地を抜け、普段であれば自動車で30分の道のりを、2時間半以上かけて大渋滞の中集会に行ったが、渋滞中の車内から見る惨状は目を覆うばかりであった。渋滞の中運転中、被災地で食料など救援物資を待つ人を押しのけてまで、自らの信仰の表現である礼拝を守るために、わざわざ被災地を通っていく、ということはどういうことか、という問題は問われた。

現実の個人の信仰と倫理の問題として。それはナイーブすぎるかもしれない、と読者の皆さんはおっしゃるかもしれない。そんなことより礼拝が大事だ。それはそうかもしれない、と思う。しかし、当時の私には、無理をしてまで、そして他人の不幸につながりかねない状況を悪化させつつ集まる意味は本当にあるのか、という問題を問われた。そして、ある面、痛む人を押しのけてまで、そして、神の名を唱えつつ神の名のもとに自己を正当化してまで、わざわざ被災地を抜けて集会に集う意味を見いだせなかった。

そこで、その当時の責任者に少なくとも緊急避難的に家庭での聖餐式を開かせてくれ、とお願いして、被災地を抜けて集会に行きにくい人たちだけで集まった。責任者の方が渋い顔をしておられるのはわかったが、期限付きということでなかば無理やりに了解を取り付け、家庭での聖餐式を一時的に始めた。交通断絶のため、数名の通うのが困難な方々が集まってくださって、数度にわたって聖餐式を持った。4から5回くらいであっただろうか。

4月には、公共交通機関が復旧したので、また、元通り集会に集まることになったが、まだ、以前使わせてもらっていた公共の会館は被災者の方がおられたので、独自に場所を借りることになり、経済的な負担は非常に大きかったが、集会として占有の場所を持ったのもこの時からである。95年の5月くらいだと記憶している。また、集会の方で、家屋の被災があったご一家(このご一家の方が「白骨の御文書が・・・」のKさんである)もあり、ご一家は京都に一時的に移られた。家庭集会もお休みにした。そして、Kさんは移転後1年ほどされた後京都で故人になられた。

震災後、第1回アメリカでの交換教員生活の前まで
 震災後は、世俗の仕事では、学生諸氏と外書購読や、講義の中で論理的に考えることの研さんに励むと同時に、地理情報学関連の研究分野をすすめていく。まぁ、それが可能であったのも、わが国での地理情報学が始まって間がなく、参入障壁が異様に低かったこと、また、計算機環境もどんどん改善していく時代であったからである。

また、1997年は、奉職先の学校の近所でサカキバラセイト君が職場の近所で連続殺傷事件を起こすような、ろくでもない年であった。この時3年生向けの選択必修科目担当のA4で5〜10ページのレポートの提出を求めるような科目担当のちょっとおっかない教員(また、30〜40人分の考えぬいてきたレポートをちゃんと読んで、評価をつけて、コメントをつけて返さないといけない担当者としても結構きつい科目)だったのが、塾講師のバイトをしている学生がこの事件を口実に毎週の提出物を出さないという暴挙に出て、「この事件で自分の塾講師をしている生徒がおびえているので、休んだ、ついては公欠扱いにしろ」とねじ込んできたので、「公欠にはできない、なぜならば、事件で大学が閉鎖になったわけではない。本学の学生であるからアルバイトができているのであって、アルバイトの代償として大学生として資格が与えられているわけではないため、貴君の論理は逆立ちしておる」とご指摘申し上げ、この学生には、「事情を斟酌するので、その時の課題は学期終了までに特例で提出してもよいが、但し、評価はCとする」と伝えたら、半分くらいは後日出してきたので、C判定を進呈した。まぁ、この科目をとらないと、就職活動をしながら、この科目を受けることになるので、下手をすると卒業までに5年確定といわれた科目を当時は担当していた。

明日、基本的な集会の文化とコンフリクトを起こし始める第1回アメリカでの滞在を振り返る。

When I was wee!(3)

書籍収集を始めた奉職直後
奉職したものの、最初の奉職先の学校にはキリスト教書関係はほとんどない。辞典類がお情け程度においている学校であった。当たり前である。経済経営系の学校でそろっている方が伏木である。そこで、ぼちぼちと個人的にキリスト教書を集めていった。まずは聖書図書刊行会やいのちのことば社が出している本あたりから集めていった。そのうち、聖書図書刊行会の本はどこかへとすっと消え入るように消えてしまっていたが。もちろん、自派の出版社である伝道出版社の本も集めた。奉職して2年くらいで結婚した。結婚する前に、J.C.ライル、ロイドジョンズなどで家内に読んでもらったりもした。中村敏先生の『著名人クリスチャンの結婚生活』を読んだら、中村敏先生も同じことを奥さんにお願いしたらしいのには、「あ、仲間がいた」と思った。

自分が置かれた環境では、自分で図書を集めるしか、他に方法がなかったのである。BruceやJCライル、ロイドジョンズ、パッカー、ジョン・ストットなどを読んだ。これらの本がまだどんどんと店頭に並んでいたころなので、これらを中心に集めていった。あのころは、「すぐ書房」も良書をたくさん出していた。

特に90年代初頭は、ロイドジョンズが割とよく出ていたような気がする。そして、マクグラスの著作に出会ったのも90年代初頭であり、「キリスト教の将来と福音主義」(巣鴨のTaka牧師によると「訳がまずい」らしいが、それでも原著で読まないだけましだと思っていた)で、このマクグラスは面白い人だなぁ、と思ったので、そのころから、マクグラスの日本語訳の本を探した。これが阪神大震災位まで続く。給料の10分の1くらいは書籍代に消えていたように思う。まぁ、当時は10%オフで生協とかで購入できたので、それを最大限利用させてもらった。Amazonがぼちぼち日本でも名前が聞こえ始めてきたころである。大体自分がブラザレン派といっていいのかどうか、そのことすら確信はなかった。また、当時の日本の環境の中で、そもそも、ブラザレン関係の専門書を集めるのは、今では考えられないほど、大変だったのである。

なかば強いられた家庭集会
 そうこうするうち結婚直後から家庭集会をすることになった、というか「母親から家庭集会の開催を強いられた」という方が正確かもしれない。「福音を伝えるべし」という福音派というか集会人にとっての錦の御旗を出されてしまったのである。勝てるわけがない。まぁ、5年ほど続いたこの家庭集会の中から、集会のメンバーになられた方が1名おられ、また、長らく教会から足が遠のいて居ておられた方からも数名、集会に戻られた。

母親が勝手にTさんという方のお家でご高齢の方対象に聖書を話していたらしいのを、私に引き継ぐようにと投げ出されるのを受け取る形で(ここでも「福音を伝えるべし」という錦の御旗がここでも掲げられたため)家庭集会をもしていた。最初、そのお宅にお伺いした時には、そのTさん宅のKさんという御高齢のご婦人の方は、「白骨の御文書が…(「白骨」とは蓮如上人が書いたとされる文書である)」と言い出された。「どうしたもんだか」と思っていたが、Tさんから、「だめでもいいから聖書のお話を」といわれたので、月1回でお話しし続けた。まぁ、不思議なもので、1年後には、Kさんも信仰を持たれた、と思う。最初は生まれたての長女を連れて、Tさん宅での家庭集会にお伺いしていた。

ユルゲン・ハーバマスの思想との出会い

そして、この時期、勤務先では、数理経済学の応用問題の立地理論を解くような論文がメインの仕事であったが、そうこうしているうちにMicheal Jacksonという方のCritical System Thinkingという本の読書会に勤務先の退職間際の方からなかば強制的に参加することを求められた。というのは、奉職先の学校というのが、計算機科学やらシステム理論やらを教える学校であったからでもあるし、その年の4月の新入生相手のオリエンテーションで、個人的には名著だと思う「ライト、ついてますか」というゴースとワインバーグの共著

http://books.rakuten.co.jp/rb/281225/

を紹介していたからである。まぁ、お付き合いの一環と思って、Critical System Thinking 関係の本の読書会にも参加することになったのだが、実は、このCritical System Thinkingの本を読む中で、個人の研究のその後の方向性に影響を非常に強く与えたJ. Harbermas というドイツ批判哲学の系譜の中にも分類も可能な、哲学者の著作と出会うことになる。
まだ、この時期は、動学的立地理論などに興味がまだあり、動学理論などを含めながら、連立方程式体系で企業の立地解析や商業集積の消長に関する理論経済学モデルなどを必死になって解いていた。まだ、真面目な立地理論の理論的研究家への道を歩んでいたころである。

次回、阪神大震災へと続く

When I was wee!(2)

Wee as a  Student in a University

大学生として茨城の山の中で

 まぁ、そうこうするうちに大学受験期となり、生徒会関連の実績を勲章代わりに、面接で猛アピールし、推薦試験を使って茨城の山(林)の中の大学に潜入することになったのであった。

大学に潜入できたことはありがたかったが、今度は、電車で行ける範囲に集会というものがない(後日、自転車で行けなくはない範囲にもともと吉祥寺キリスト集会の方がされていた集会があることが判明する。何度かはお伺いした)。当時は茨城県には常磐高速の様な気の利いたものはまったくなく、東京に簡単に出会られる千葉県がうらやましく見えたものである。

下館集会に通ってた
 そこで、県内でも栃木県境に近い県西の最大都市下館の集会に通うことになる。しかし、山の中の大学からは、30キロ以上ある。そうすると、通うのが問題である。神様というのは実に味のあることをなされるお方で、Fさんが現農研機構にお勤めであったので、Fさんご一家と、下館までご一緒させてもらったり、群馬から来られていて、現在筑波大学にお勤めのHさんに同乗させていったりしてもらいながら、いろいろお世話になっていた。

また、在学中は、下館の専心伝道者のK様ご夫妻やO家の皆様、I家の皆様、S様、U様、のご一家の皆様には、一方ならぬお世話をいただいた。この場をお借りして、こころより御礼申し上げます。

思い返してみると、この茨城の山の中の学校時代に下館までご一緒に移動手段をありがたくご提供いだいたFさんとHさんが現在の私のキリスト教研究の出発点の形成に大きく影響しているような気もする。特に年齢が近いということもあり、Hさんにはいろいろご教示いただいたことが多かった。Hさんからは、KGKもどきの聖書研究会(津村先生が関係しておられた模様)にも誘われたのだが、学業最優先(工学部系だったので)でまぁ、一応4年間は学業中心ですごしたが、この茨城県の山の中の大学は、津村俊夫先生がお勤めであった学校であったためか、やたらと、聖書関係の本が図書館にそろっていたのである。

大学生時代、大学の図書館で出会った衝撃的な本

なかでも、一番衝撃的だったのは、F.F.Bruceの本とこの山の中の大学の図書館で大学2年生の時に出会ったことである。その衝撃はいまだに忘れられない。「なぜ、この人は、聖書をここまで丹念に読むのだ、いや、読めるのだ?」と正直思った。自分がきいてきた聖書理解、自分が語ってきた聖書理解の彼我の差に鳥肌になる、あるいは血が泡立つのを感じたのだ。この本の中のギリシア語はわからなかったが、この本のすごさだけはわかった。この時はまだ、F.F.Bruceが集会の人であることなどは知る由もない。なぜ、知る由もないか?って。そりゃ、勉強不足だからである。

ところで、その山の中の大学は、結構のんきな所というのか、アメリカの学校風であったので、他の学部の講義を聞きに行ってもよかった。古典ギリシア語などの授業を3年生の時にとりに行ったが、途中で挫折して、試験は結局受けずじまい。まぁ、当時は、古典ギリシア語よりは、Fortran77 やら、JCL やら Basic TSPやSPSS、SAS などのプログラミング言語や統計解析言語の習得に忙しかった。

書籍で言うと衝撃を受けた忘れられない本は、J.I.Packerの「神について Knowing the God」の翻訳本である。神を「知る」ことの奥深さをこの本で学んだ。これも、当時図書館にあったと思うので、図書館で借りて読んだと思う。あまりに良かったので、結局奉職して間もなくして、自分で買った記憶がある。

思い出深い非常勤の先生方

なお、当時この学校には、実に愉快な非常勤講師の先生方がおられた。後に筑波大学教授になられる池田裕先生は、私が確か2年次のころから古代オリエント史を非常勤講師として講義を担当されていた。また法政大学教授の湯川禎一郎先生が哲学入門の非常勤講師として来ておられ、パスカルを中心に講義してくださった。人文学、哲学、西洋古典学の基礎知識はこの大学の基礎教育課程の科目をかなり好き勝手に履修させてもらえていたことに依拠している。また、こういう非常勤の面白い先生方に出会えたこと、さらには、大学、大学院時代の研究対象が都市であったことから、日本史、西洋史、東洋史をはじめとする幅広い研究分野がかかわっていることも現在のさまざまな側面から考えたくなる習慣にも影響していると思う。

大学院に進んでから
 ところで私が大学卒業し大学院に進んだころは、ちょうどバブルの真最中、1987年である。同時期に卒業した同期生が、就職翌年に年収1000万円に達するとか達しないとか、目の前を10億円単位の小切手が右から左に流れるのを見たとか、いっていた。時はちょうど、就職予定者が逃げ出さないように、ハワイ旅行に会社が新入社員予定者を連れて行った時代である。

彼らが、人買い(リクルーター)として後輩に職業をあっせんに来た時には、彼らに学食の昼飯位をおごってもらった経験がある。当時は、日本育英会の奨学金月額5万円前後で、指導教員の先生方から頼まれたアルバイト(論文の入力、組版作業、論文の英文の下訳)やら、地形図にメッシュをペンで引く作業やら、その上に公示地価のポイントを落とす作業やら、TAとしてレポートの採点などをしながら、暮らしていたのである。なお、10年ほど前に、日本育英会からは、返済の必要がなくなった旨のご連絡をいただいた。奨学金は貸与いただいたが、特例を利用して返済は全くしていない。

逃避として大学図書館で神学書を

大学院時代には、世俗の論文を書き始めることになる。また、この論文を書くために、連立方程式体系やら、連立微分方程式体系を使った立地モデルみたいな頭がおかしくなりそうな論文を書いていたもので(今は、もうこういう分野にはついていけないが、このころは、こういうことが学会でも流行っていたので、その流行には一応乗った)。飽きっぽい、という私個人の性質もあるのだが、そのストレス発散というか、気分転換というか、逃避として、図書館にこもってはキリスト教書を片っ端から読み始めたのものこの時期である。その意味で、この茨城の山の中にある大学図書館には本当にお世話になった。この図書館には聖書図書刊行会の本、ヨセフスのユダヤ戦記、ユダヤ古代史などがなぜかそろっていたので(まぁ、津村俊夫先生がお買いになったものだと思うが)、勉強させてもらえた。大学のころには、津村先生の謦咳に触れることはついぞなかったが、津村先生がその大学で奉職しておられた恩恵をば十分以上に享受できたと思う。先日、長野で念願の津村先生に直接お会いできて、非常に感激しつつも、在職時に貴重な図書をそろえてくださったことに関しては、直接御礼を申し上げることができた。

バブルだったので、お仕事にありつけました

そんなこんなで勉強しているよりは逃避していることが多かったので、半年遅れで修士論文のようなものを書いて、中途退学と同時に修士号を拝受した。今では、もうちょっと頑張って博士論文を買いときゃよかったと思っている。ちょうどそのころは、バブルの余韻がまだ続くころで、今みたいに大学にOD(Over Doctor博士号をとったけど就職先がなくて大学院にいるみなさん)がいなかったころなので、まともでない私でも出身地の大学での教職にありつけた。ありがたい限りである。今では、到底無理だと思う。

オウム真理教登場と自分の教理の比較

また、この大学院の時期には、当時オウム真理教がその奇矯な行動からテレビ的な面白さもあり、テレビに度々登場してご発言するのが流れることになった。1987年ごろから、オウム真理教が言う言葉の中に一種のキリスト教的な終末思想の断片が流れ始めて、彼らが終末を畏れて石垣島でセミナーをしてみたりしていることが報道されてきた。そして、そうこうするうちに、信徒さんの中からハルマゲドンという言葉が漏れ始めた。「ん?ハルマゲドン」どっかで聞いた言葉なぁ、と思っていたら、「世界の破滅」だの、「世界救済」とか「人類救済計画」とか言い出した。これを聞きながら、「仏教的でなくキリスト教的だなぁ」と思っていた。なお、これが宇野正美氏の影響だとは、約25年後の2014年に確証を得ることになる。ただ同時、「ハルマゲドン」とか、「世界救済計画」とか言い出した段階で、自分自身が高校生頃に通ったものと同じだ、と直感的に思ったのである。

オウムの話を聞きながら、これってひょっとして、

「麻原尊師」を「イエス・キリスト」に、
「救済」ないし「ポア」を「救い」に、
「瞑想」を「聖書」に
「修行」を「奉仕」に


変更すれば、まさに自分が福音としてあるいは聖書理解として語っていたものと、構造がそっくりになることのではないか、となんとなくぼぉ〜〜〜と思っていた。その予感は、およそ25年後、確証される。彼らがキリスト教を換骨奪胎してオウム真理教の教義の一部、ヴァジラヤーナの教理とし、キリスト教と仏教を習合させた特殊な教義を形成していたことを、地下鉄サリン事件から20年後に知る。


そして、カルト研究の入門書的関連資料を1989年ごろから集め始めた。


When I was wee!(1)

お知り合いの方から、なぜ私がこんな風に集会について研究するようになったのかの、経緯を書いてはどうか、というおすすめがあったので、こちらのブログの方は、ものすごく久しぶりであるが、ちょっと書いてみようかと。

Wee as a High Schooler
1978年4月にバプテスマを受けた。

ところで、このバプテスマを受けたいといった時に、兄弟会に呼び出され、当時御健在だった石浜義則さんから「あなたは首を切られてもイエス・キリストを信じる、といえるかね?」と聞かれて、「いいえ」とも言えないので、「はい。」と勢いで言ってしまった。今では、よう言わんが。いわゆる若気の至りということではある。当時は、A.L.Dexter夫妻や息子さんご夫妻(当時は最初のお子さんが生まれたくらいだった)がおられたので、割と恵まれた教会生活を送らせてもらった。

バプテスマ受けた翌週から日曜学校の担当に
 きつかったのは、受けた翌週から日曜学校の先生が回ってきたことである。「その前の週まで生徒で済んでいたのに、なんだろうこれは」というのが実際でしたね。まぁ、中学生で教案誌(成長)を買えるほどの経済力があるわけでなく、集会の中にあったフランネルグラフを引きずり出しては、適当に日曜学校もどきをしていた。生徒さんには大変申し訳ない限りである。しんどかったのは、定期試験前である。試験があろうが何があろうが、日曜日はやってくるし、日曜学校はやってくる。最後には、集会の方の御子弟の方のみが生徒さんだったんでうやむやのうちに閉鎖してしまった。

バプテスマを受けたら、日曜学校だけでなく、「司会をしたら」とか、「証をしなさい」とか言われて、なんか高校生のころすでに前でしゃべっていた記憶がある。いたいけな青少年時代があったのである。今では想像がつかないだろうけど。

宇野正美氏の聖書預言に乗ってしまった高校時代

1980年代、宇野正美氏が絶頂期に達する直前に高校生であったので、御多分に漏れず、イスラエル預言にまっしぐらである。当時、「空中携挙」という吉祥寺集会の関係者が書かれた本なども読んでいた。確か京都集会の責任者の方と広島におられた伝道者の方だったかのご紹介文が冒頭部にあったと思う。

それこそ、ユダヤがわかると・・・シリーズの講演があちこちで行われていた時期である。御多分に漏れず、この波に巻き込まれたのか、乗ってしまった。

しかし、このような自己の聖書理解、特に宇野正美氏的な終末論を見直すきっかけに最初にぶつかったのは、オーストラリアからの留学生と英語でしゃべっていた時である。今思えば、彼はアングリカンコミュニオン(英国国教会系、日本では聖公会)の信徒さんだったようである。この預言理解がなんかのついでに話題になり、それは正しい聖書理解といえるのか?と彼から指摘された時のことであった。今にして思えば、彼の方がまともだった可能性が高いのだが、高校生当時の純粋まっすぐ君のことである。あれれ、という段階で止まっていた。

そのうち、大学生時代へと続く

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