ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレン

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しばらくお休みします

いつも、みてくださっているみなさま。

ありがとうございます。

ブログ 移転いたします。
新しいブログアドレスは http://esseysonbrethren.blog.fc2.com/
コメントは、移転できないようなので、このサイトも維持します。


これまで、ご紹介してきた伝道出版社の「救乃泉」の創刊号

(昭和16年7月10日発行)ですが、その内容は、英国の

トラクトからの翻訳が二つ、日本人の著者が二人で、

藤本さんが3本

石濱さんが2本(推定を含む)

外国人では、作者不詳が1、ライトさんが1作

となっています。

現在、イングランドのオックスフォード運動も関連研究の一部として

調べているのですが、オックスフォード運動でもイニシアルで作者

名を示した形で印刷物を作成した習慣があったようです。どうも

当時の文化的な伝統のようです。


その影響か、この救乃泉でも、イニシャルが多用されています。

もちろん、個人の栄光が着目されないように、という側面もある

のでしょうが、それ以上に当時の文化人社会における習慣という

側面もあるように思います。

特に、集会の初期に関係したニューマンの兄がオックスフォード

運動で過激な発言をしていた事もあり、だれが書いたのかで大激

論になったような事もあったようですが、結局文体や主張から

オックスフォード運動で名をはせたニューマンの兄と特定化された

ようです。ちなみに、オックスフォード運動は、イギリス国教会の

原点回帰運動で、原始教会に接近しようとした結果、イギリス国教

会の教会での聖餐式は、よりカトリックに近い様式性の強い方向に

向かうことになりました。とはいえ、カリスマティックな教会も

イギリス聖公会の教会にはあるので、何とも多様な教会像をもつ

教会群だとおもいます。調べてみると、イギリス国教会は祈祷書だ

けでつながっているものだとお聞きしました。この多様性の容認は、

それはそれでイギリスらしいなぁ、と思います。

ちなみに、ブラザレン運動もオックスフォード運動時代のイギリス

聖公会からの分離派ですが、原始教会に向かっていく中で、ブラザ

レンは様式性を否定していき、オックスフォード運動は様式性を

求めていくなど、かなり雰囲気がここまで変わるのかなぁ、という

印象を持ちました。
 
今回で、「救乃泉」創刊号の内容の紹介は終わりです。最後は、
 
おそらく英国のトラクトの翻訳ものだと思います。時代が分かる
 
ので、ご紹介したいと思います。ひょっとしたら子供向け、少年
 
向けトラクトの内容なのかもしれません。

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庭でのお話
 
 私どもがお庭でお茶会をしたときに一人の客が次のようなお話を
 
してくださいました。
 
 私の悔悛したのは八才の時でした、私の両親はよく働いていまし
 
た、その時私どもは邑(原文かな:まち)はずれのささやかな家に楽
 
しく暮らしていました。家庭は幸福でした、それは良いお母さんがい
 
てくださったからです、お母さんは本当に家の太陽でした。けれど突
 
然に神様はお母さんを私どもの家から取り去ってしまいました。その
 
ため家の様子がすっかり変わってしまいました、火鉢に火もなくなり
 
お父さんは忙しく食事の支度をしますが、ぞんざいです、家は汚くな
 
る、お腹(原文かな:なか)はすく、寒さに震える始末です、そしてお父
 
さんは時々首を抱えてうずこまっています、私のいる事を忘れている
 
かのようでした。私は淋しい、哀しい生活でした。ある日曜日の事でし
 
た。親切な近所の人が私をお茶に呼んでくれました。そしてお茶の後
 
で、私たちは伝道館(記載者註:Gospel Hallのことか)へ行きました。
 
でも私は説教を耳に入れませんでいた説教者が「母なき家庭はどんな
 
ものか」と言われたときはじめて注意をひきました。そして説教者も自分
 
も早くから母をなくして実に淋しい暮らしをしたことを話しそのうえ神なき
 
生活とはかくのごとくであります、けれども、一度キリストを心に迎える
 
なら直ちに光と喜びが与えられるが、キリストを迎えないなら、いつまで
 
も不幸と悲哀が付きまとうと申されたので、私は本当にそうだと思い、直
 
ちにイエス様を救い主として私の心に迎えました、そして家に帰りました
 
が、今までとは全く変わったホームになりました。説教者の申された事は
 
本当でした、そして神の恵みで今ではこの喜ばしい音信をどなたにでも伝
 
える事を無上の喜びといたしております、それですから若いお友達よ、イ
 
エス様を貴君の救い主としてお迎えください、そうすれば貴君は何処にあ
 
りましても光は照り輝きます。(F訳)
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「汝の若き日にその造主を覚えよ」(伝道十二ノ1)
「若き人は何ありてかその道をきよめん、制限にしたがいて慎むの他ぞなき」
(詩篇百十九ノ九)
「かく信仰は聞くにより、聞くはキリストの言による」(ロマ十ノ十九)
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 これを転記しながら思った事は、この延々と続く読点だけで持っていく文章の
 
構造だなぁ、ということです。やはり、明治の時代や江戸時代の文章の影響か
 
なぁ、と思います。
 
 お茶会といったところにイギリスの文化を見る事が出来ます。お茶といっても、
 
イギリスのお茶会は、スコーンやサンドイッチなど、結構お腹いっぱいになる軽
 
食が出るので、日本のお茶会とは雰囲気がずいぶん違うのですけれども。
 
しかし、この中で、ホームというカタカナ語が出ています。これは、訳者の方が、
 
ホームという持つ意味や温かさを表現したかったのかなぁ、と思います。そのあ
 
たりが、まだ、かろうじて自由な時代の名残が残っていたのかなぁ、と思います。
 
昭和16年ですから、ほとんど敵性語の検出が厳しくなっていたころでしょうから。
 
 この中で、母親の死が触れられていますが、平均余命が現在の日本ほど長
 
くはない時代では、よくあった出来事かと思います。そういえば、Good-bye
 
 Mr. ChipsでもChips氏の奥さんがなくなりますし、C.S.Lewisの奥さまも若くして
 
亡くなり、その時の無茶苦茶なC.S.Lewisの心境を書いた本をC.S.Lewisは出して
 
います。
 
 しかし、個人的な証から、直接、呼びかけに持っていくのは、結構厳しいものがあ
 
るなぁ、とってつけたような感じがあるなぁ、と思いますが、この種の伝道方法が、
 
当時の英国でも普通だったのかなぁ、と思います。
 
 
今回も「救乃泉」の創刊号(昭和16年)から藤本さんが書かれた記事を

ご紹介したいと思います。

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勝れる犠牲

「信仰によりてアベルは勝れる犠牲(原文かな:いけにえ)を神に捧げ、

之によりて正(原文かな:ただ)しと証せられたり」(へブル11章ノ4)

人は皆、アベルの如く罪人である故にその罪を贖う為の勝れる犠牲が

必要である。勝れる犠牲とは何であるかはキリストの来る迄そして彼の

十字架に付けられる迄は明白でなかった。けれど彼の死は確かに罪

のためのなだめの供物(原文かな:そなえもの)(犠牲)なりし事が証

明されたのである。(ロマ書三ノ廿四 廿五)。

出埃及(記載社註:エジプト)記十三章に驢馬(原文かな:ろば)の初

子(原文かな:ういご)は皆羔羊(原文かな:こひつじ)をもて贖うべし、

もし贖わずばその頸をおるべし。と会って驢馬の初子はどうしても贖

いなしには存在を許されなかった。それと同様性来(原文かな:せい

らい)のままの人間は誰しも神の御前に平然と立つ事は出来ない。

それ故「信仰(犠牲を捧げる)なくしては神に喜ばれる事能はず」

(へブル十一ノ六)で、信仰によって人は舊き己に死に、新しき生命

に活くる者となる。即ち主イエスがニコデモに申された如く「人新た

に生まれずは神の国を見る事能はず」(ヨハネ三ノ三)である。

多くの人は信仰とは信念力か大悟徹底であると思うている。しか

し、これらは人力の産むところのもので、腹と頭脳の働きである。

人間がいくら努力しても人間である。鉄は如何に磨いても銀には

ならない。銅を金に変える事は不可能である。斯如く人は信念や

悟りで人生を変える事は出来ない。これは人の為し能はざる事で

ある。故に神がこれを為し給うのである。すなわち神のこのイエス・

キリストの十字架上の御業がこれを完うし給歌のである。そして神

は我らに要求し給うている事は、イエスを神の子キリストなり、汝等

の罪の救主なりと信ぜよで、かく信じるものに永遠の生命を与えよ

うと約束されたのである(ヨハネ三ノ十六、廿ノ卅一)。

我らは神の子キリストを信ずるによりて我らの罪が潔められるば

かりでなく、新しき生命(原文かな:いのち)すなわち神の子となる生

命を頂くのである。これは何と驚くべき音信(原文かな:おとづれ)で

あり、かつ賜物(原文かな:たまもの)ではないか、これをうくるに我

らの方に何の価(原文かな:あたい)も努力も要しない、只有難く感

謝を以て受ければよい。信仰とはこの幸いな賜物を頂くための手な

のである。速くあなたの手を出されよ、そして受け取られよ躊(原文

かな:ためら)いは禁物(原文かな:きんもつ)である。受けねば永遠

の悔を生む、受くればあなたはパーロ(記載者註:パウロの事)と同

様、「言い尽しがたき神の賜物につきて感謝す」(コリント後九ノ十五)

と心から云い得るのである。(藤本生)

-----------------------------------------------------

この文章を読みながら、最初からアベルを持ってきているのは、か

なり無謀だなぁ、と思いました。というのは、アベルを知っている人が

どの程度いるかなぁ、と思ったからです。ある面で、自分たちの聖書

知識を前提に議論が進んでいるような気がしてなりません。驢馬の初

子との並行関係が、人間の救いとの並行関係と持ってくるのも、少し

無理があるかなぁ、と思います。その事の並行関係も普通の方には

理解しずらいものだと思います。

ミニストリーという最近、キリスト新聞社が出し始めた雑誌の第2号

か第3号で、香山リカさんが教会の人をあっちの人、と見えてしまう、

と書いておられましたが、まさしく、そのような事を感じさせる論理展

開かなぁ、と思いました。

とはいえ、論理展開は明白で、簡にして要、というお話しとなってい

ます、。

ただ、この話で最も気に入った部分は、最後のあたりに出てくる、信

仰とは、手を差し出すことである、という部分です。信仰と手の関係と

いう事は非常に深いものがあると思います。ナウエンの本に「両手を

開いて」(サンパウロ社刊、但し著者名はアンリ・J.M.ヌーエンとフラン

ス語読みになっていますが)がありますが、そこでのメッセージとよく

似ていますし、マクグラスの講演会のDVD「聖餐」(キリスト新聞社刊)

でも、聖餐において両手を開く意味、のような事が言及されています。

この事は意外と重要かもしれません。なお、マクグラスの聖餐は講演

自体も面白いですが、本文テキストで触れられていない質疑応答の

部分が一番重要だと思います。高いですけれども、それだけの事は

あるように思います。

話がずれてしまいましたが、ストーリーのきっかけには、タイトルの

「勝れる犠牲」が出てきますが、後半になると、かなり関係が薄い論旨

の展開になっているので、このあたり、自分が聖書メッセージをすると

きにも時々やっているような気がするので、気をつけないなぁ、と反省

しております。


以下では、救い主の資格と題する、石濱義則さんと思われる方

の記事をご紹介したいと思います。

--------------------------------------------
救い主の資格

救い主というものには特殊な資格が必要である。先ず第一に

天より降りし者

ということが絶対に必要である。いかなる起重機でも自分自身

を一寸も上げることはできない。そのごとく我らは自分自身を一

寸も上げることはできない。飛行機その他のものによって一時

上に登りえてもそれは空気という山に登ることであって、大気外

に逸出することはできない天において同様である。故に人類の

罪に対して来らんとするところの神の怒りを逃れて滅ぶべき地よ

り天に行くことは、地上に生まれた我らにとって絶対に不可能で

ある。故に天より降りしものということが救い主として必要な資格

であった。「天より降りし者、即ち人の子(キリスト)のほかには、

天に昇りし者なし」「わが天より降りしは我が意を為さんためにあ

らず」と言い給いしキリスト、聖霊により孕(原文かな:みごも)ら

れ給いしキリストのほかに天より降りし者はない。次に

罪なき者

ということが必要条件である。何故かならば罪ある我らの代わりに

罪ある者が死んだとて何の役にもたたぬからである。一文無しの貧

乏人が他人の借金を返済してやることはできないと同様である。ゆ

えに全人類の罪を取り除いて之を開放するという事は清浄無垢なる

者にとって初めて出来得ることである。ところがイエスキリストの罪

なきことを証明した人が四人ある。まず第一に主御自身が「汝等のう

ち誰か我を罪ありとして責め得る」と言いたもうた。次に「石にて主を

打たんとしたユダヤ人らが汝を石にて撃つは善き業の故ならず?言

(原文かな:けがしごと)の故にして汝人なるに己を神とするなり」とい

い、?言の他に主を撃つ口実を見出し得なかったのである。次にイエ

スを調べた総督ピラトがイエスをユダヤ人の前に連れ出さんとして

「視よ、この人汝らに引き出す、これは何の罪あるをも我が見ぬこと

を我らの知らんためなり」といった。次に十字架に死に給いし主を見て

百卒長が「実にこのは義人なりき」といったのである。斯の如き完

全なる義人はキリストの他に絶対にないのである。次に

全能者

ということが絶対条件である。そもそも人を救うということは並大抵の

ことではない。それも貧乏を救うとか病気を治すとかいうのではなく死

より救いて命に入らしむるという天地創造否或いはそれ以上の大事業

は生殺与奪の権を持ち給う全能者でなければ出来ない事である。我ら

の主イエスキリストの御伝記は奇跡と不思議の連続である。あらゆる

種類の病人(中風、ハンセン氏病(転記者で変更)、生来の盲者等も含む)

を立所に癒し、死人を蘇らせ(三人も)、波風を鎮め、五千人を5つのパン

にて養い、その他列記し難き程の大能を現し給うたキリストの如き全能者

は、全世界広しと雖も他に一人もないのである。

いまだ他に帰すべき条件がある。が紙面の都合上次の機会に譲る。願

わくば真の救主なる主イエスキリストを信じて、完き平安と永遠の生命と

を受けられよ。(Y・I生)

---------------------------------------------------------

伝統的な救いが人間の力によらないことや自己完結しないこと、罪の問題

の解決が人間には不可能なこと、全能者による救いが必要なこと、という論

法で、議論を展開しておられます。ただ、短い文章ですべてのことを語ろうと

しているため、かなり無理のある議論になっているように思います。伝道文章

は、教会(集会)に来させるトリガーあるいはティーザー(聞いてみようとする

気にさせるもの)という側面がありますから、これはこれでよいのかもしれま

せん。昔の伝道スタイルの一端に触れるような気がする文章です。

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